§2.生立ち.
Niels Hendrik David Bohr は1885年10月7日丁抹の首都 Copenhagen に生まれた.嚴父 Christian Bohr は同地の大學の生理學教授であつたが,特に物理學に興味を持ち,云はば純實驗物理學的の仕事をした人であるといふ.これが Bohr の將來に多大の影響を及ぼしたのはいふ迄もないことで,Bohr の天賦は此環境によつて延ばされた事であらう.
殊に當時の大學の物理學教授 C. Christiansen と嚴父とは親友であつた.Bohr が1903年即ち數へ年19歳の時大學に入つて物理學を專攻することになつてから,Christiansen は Bohr を講義實驗の助手にしようとした.がそれは恐らく Bohr には所を得たものとは云へなかつたのであらう,1年位で止めになつて了つた.
然し茲に Bohr の力量を示す機會が來た.それは Christiansen が自分の講義に關聯して,1905年に丁抹の學士院をして物理學の懸賞論文を募集させた事である.其の題目は“Rayleigh の液體 jet の定常振動の理論を用ひて表面張力を測定”せよといふのであつた.Bohr は此の問題に着手し,自宅(官舍)にあつた嚴父の實驗室で實驗を行つた.此實驗は一度始めると終る迄は止められなかつたので,夜おそく迄も續けなくてはならなかつたといふことである.
論文は1906年10月に提出され,翌1907年には學士院から金牌が授けられた.此論文は London の Royal Society の Phil. Transaction (1909)(1)*に發表せられたが,これが Bohr の唯一の實驗物理學に關する論文である.此頃は勿論その後も Bohr は實驗物理學者たることを志して居たやうであつたが,理論物理學における大きな業績は Bohr をそちらに掻つて行つて了つた.
上述の論文を見て氣の付くことは,Bohr が其構想に於ても又技術に於ても,卓越した實驗物理學者であるといふことである.これは筆者も Bohr 教授の研究所に滯在中切實に感じたことであつて,同研究所から發表せられる實驗物理學の論文には,Bohr の着想又は理論的要素が多分に織り込まれて居るものなのである.
更に此論文に表はれて居ることは,Bohr が學生の若さであり乍ら,既に發達した理論家であつたといふことである.即ち Rayleigh の理論は極めて小さい振幅の場合にだけ當てはまるものであるが,實際實驗の場合には有限の振幅のものを取扱ふのであるから,其影響を補正しなくてはならぬ.Bohr は此補正を導入して Rayleigh の理論を擴張して居る.
かくて1909年には magister(學士)となり,1911年には“金屬の電子論”なる論文を提出して理學博士の學位を得た.此論文は丁抹語で書かれ他に發表されて居ないが,其内容は古典的電子論即ち Lorentz の電子論の見地よりして,金屬の諸性質を最も一般的に導き出さうと試みたものであつた.此論文に於ても其異常な天分がよく表はれて居り,殊に統計力學に堪能なことが解る.そして其結論としては,古典論的電子論の見地よりしては,物質の磁性は説明し得られないといふ事であつた.
此結論は今日の量子論の立場から囘顧すると,極めて興味あることで,金屬の電氣傳導にせよ磁性にせよ,其頃既に古典論の行くべき所迄は行き盡して居たといふことが解る.そしてそれ以上は一つの新しい飛躍が必要であつたのである.Bohr は此事態を此論文により最も切實に體驗した譯であつて,これが古典論からみれば不合理と考へられる水素原子模型の提唱を敢行せしめた理由でもあらうか.
金屬の電子論は,少くとも原理的には今日の量子論によつて解決せられたのであるが,此量子論たるや吾人の腦裡に終始一貫した因果的の描像を許さないものである.從つて Bohr の論文は吾人の描像的能力の極限に到達して居たものと考ふべきである.
*本文中 (1),(2) とあるは卷末 Bohr 論文目録の番號を示す.以下同じ.