四
親に暇乞もし、いろいろ仕度も整えたいから――という口実で、お菊は漸く一と晩だけ許されて帰りました。
お菊が暇乞をしたいのは、親の郷右衛門よりも、もっともっと切実な相手があったのです。それは、町の何々座に掛っている歌舞伎芝居の花形、娘形になっては、その可愛らしさで、江戸の千両役者にも類があるまいと言われた、二十歳の中村新八郎という若者だったのです。
中村新八郎の泊っている宿屋は、お菊の家のすぐ隣で、二人は朝夕顔を見合せて、挨拶を交しているうちに、十日と経たないうちに、もう好い仲になって居りました。中村新八郎の美しさと芸達者が、お菊をすっかり夢中にさしたのも無理のないことですが、中村新八郎もまた、色子上りらしくないうぶな性格で、お菊の可愛らしさと純情に引付けられ、二人は何時の間にやら、二世かけて誓う仲になって居りました。
田舎を打って廻る芝居は、土地に馴染がつくと、二た月も三月も、中には半歳も滞在するのは例の少くないことで、中村新八郎の一座も、春から夏にかけてこの土地に留まり、中村新八郎とお菊の交情も、日を経るままに益々濃やかになるばかりでした。
その夜お菊の両親は、娘のために、意味の深い別れの宴を開きました。これが娘お菊の出世の緒口になって、思いも寄らぬ玉の輿に乗るかも知れないというのは、娘に力を落させないための口実で、実は世間の評判通り、一年の奉行の後、お金の方やお桃の方のように忽然として姿を掻消し、死骸もわからずになるのかも知れないといった、恐ろしい予感と恐怖に、兎もすれば、沈み勝ちになるのを何うすることも出来なかったのです。
明日は早いから――と、親類達を帰した後、親子水入らずに別れを惜しんで、お菊が床へ入ったのはやがて子刻(十二時)近くになってからでした。
お隣にいる中村新八郎に、たった一と目別れを惜しみたい――と、思い乍らも、此時刻になっては、呼出す手段もありません。
フト、窓の戸にサラサラと笹の葉などの当るような音がします。お菊はそれを聴くと、夜の物のまま、床から脱け出して、雨戸をサッと開きました。それが若い二人の逢引の合図だったのです。
「新八郎さん」
「お菊さん」
二人は沓脱の上に立って、犇と抱き合って居りました。女の涙は男の襟を濡らし、男の温い息が、女の顔と前髪を撫でて居ります。
「お前は本当に、殿様のところへ行く気かえ」
「でも、新八郎さん」
「私を後に残して」
「でも」
二人は誘い誘われるように、庭の闇の中を裏木戸のところへ辿って居りました。其処には夜目にも白々と、大きい川が流れて居ります。
「死んでくれないか、お菊さん」
新八郎はもう一度お菊を抱き上げるように、その小さい耳に、恐ろしい囁きを吹き込みました。
「でも、新八郎さん、私が死ねば、父さん母さんが、どんな目に逢わされるかわかりません、――今日も三文字とかいう人から、殿様の御執心は並大抵でないから、万一逃げ隠れでもすると、江島屋を取潰した上、両親は軽くて打首、重ければ磔刑にもなると言われました」
「それは脅かしだろう」
「いえ、脅かしでない証拠は、あの通り」
お菊が指を挙げて指す方を見ると、子分の者に率いられた足軽が五人三人ずつ、江島屋の店を遠廻しにして、蟻の這い出る隙間もなく堅めているではありませんか。
「すると、私は、この私は何うなるのだえ」
「堪忍して下さい、新八郎さん」
「お前はそのまま、人身御供になって、狒々の餌食になる気かえ」
「新八郎さん」
「殿様だろうが領主だろうが、取換え引換え若い娘を餌食にして、それで宜いという筈は無い」
「新さん」
「私は許さない、私はきっと思い知らせてやる」
その頃川原乞食とまで卑しめられた役者風情が、血の涙を流したところで、それが何んの足しになるものでしょう。