三
船橋から戻つて來たお神さんに鰯を三尾ほど貰つて、配給の米だの薯だのを風呂敷に包んで背負ふと、重吉はすつかり暮れかけた街へ出て行つた。文明が殘してゐるもつとも麗はしい電燈の光が、廢墟の街に點々とまばたいてゐた。何處かで汽車の音がしてゐる。ポーと汽笛を鳴らしてゐるのが、燒野原の夜空に哀愁をこめて。東京の夜の街は、この荒涼とした景色に永遠に膠着してゐるのだぞと云つたやうに、四圍は森閑として、時々、電車や自動車が走つてゆくだけである。夜霧の深いなかを重吉はふらふらと四谷見附に歩いて行つた。
「おい爺さん、何か落ちたぜ」
重吉は吃驚してふりかへつた。學生のやうな男が立ちどまつて煙草に火をつけてゐる。重吉は急に煙草が吸ひたくなつた。箪笥町へおいてきたのが殘念で仕方がない。
「どうも有難うござんした……」
重吉は立ちどまつて、學生が煙草に火をつけるのを見てゐた。かちりと固く卷かれた新しい煙草に火をつける學生の身分が羨ましくて仕方がない。重吉は煙草だけは配給を貰ひそこねてゐるので、新しい紙卷の煙草はながい間の魅力であつた。
「旦那、いゝ晩ですな」
學生は驚いたやうに重吉の姿を透かしてみるやうなかつかうで、
「だいぶいゝ氣持ちさうだね」
といつた。
「呑んだんで、へえへえへえ……」
「何處か呑むところあるのかい」
「いゝや、何ね。友達のとこでね、よばれたンでさア……」
「さうかい、羨ましいね」
學生は酒を呑んでふらふらしてゐる男に興味もなかつたのか、煙草の火を一二度赤く吸ひこむと、外套のポケットに兩手を入れてさつさと市ヶ谷の方へ歩いて行つてしまつた。
重吉はまた薯を落した。何となくひろふ元氣もない。もうどうでもいゝといふ氣持ちだつた。すつかり何も彼もに疲れきつてゐたのだ。只、無性に煙草が吸ひたかつた。濛々とした煙草の煙の渦が息のやうに吸ひたかつた。
重吉のそばを轟々と市電が走つてゆく。
「えゝ、あの長靴千圓ならはなすつて」
「軍隊からたゞで取つて來て、千圓だつて……」
「たゞで貰つて來たからなほさら高く賣りたいのよ」
二人の若い女がしやべりながら歩いてくる。二人とも大きな包みをさげてゐる。重吉は歩くことが厭になつてゐた。森々と夜氣が冷えてきて、醉ひもさめてきさうである。燒跡の石塀のところに少しばかりあたゝかさうな場所をみつけて重吉はそこへ荷物をおろした。肩が輕くなるとまた上機孃になつた。躯が輕いと云ふことは何と云ふ氣持ちのいゝ事だらう。重い荷を背負つてゐると、何も彼もむしやくしやして仕方がない。――重吉はうとうとして兩方の膝小僧をかゝへこんでゐた。髮にリボンを結んで、赤い袴をはいた清子の古風な姿が浮んで來る。
何處かでラジオの美しいピアノの音色がしてゐる。荒涼とした夜景のなかにも、昔の都會の雰圍氣が霧のなかに舞ひあがつてゐた。敗れた國の敗れた美しさが風のやうに一瞬とほりすぎて行く。都會の持つあらゆるものが、敗戰と同時に省略された。蛇のやうな長いものから芋蟲のやうに、――都會のこの巨きな不幸な姿は、何百人の代議士の雄辯よりも國民を納得させる力がある。動くがまゝに、流れるまゝに、敗れたまゝに今宵の街はふけて行くのだ。
暫くして重吉にはまた面會者があつた。
「おい、をぢさん、氣分でも惡いのかね」
だぶだぶの國民服を着た十二三の男の子が重吉の前に立ちどまつた。
「氣分なんか惡かねえよ」
「醉つぱらつてるのかい」
「醉つてなんかゐないよ」
「莫迦な爺だなア」
「莫迦な爺だよ」
「烏!」
「あゝ、かあかあだよ」
少年は重吉の肩の上に足を乘せた。まるで靴みがきの男でもするやうに……。重吉は呆んやりと眼をあげて、靜かに少年の足を拂ひのけた。
「榮養失調だな、爺は……」
「ふざけちやいけないよ。家で待つてるよ」
「家なんかないよ。燒けちまつたんだよ」
「ほう、お前も燒けちまつたのかい」
「燒けたさ、きもちよくぺらぺらと燒けて灰が殘つたきりさ……」
「どこで燒けたンだい?」
「銀座」
「ほう、銀座……」
少年は重吉の風呂敷包みを手でつかむと、そのまゝさつさと暗い方へ足早に行つてしまつた。重吉は默つて見送つてゐた。あの子供は煙草を持つてやしないかな、一口吸はしてくれといへばよかつたと思つた。
少し風が吹きはじめた。夜霧のなかに赤い灯が一つ見える。重吉は立ちあがつた。歩きたくもないのに歩かなければ先が遠い感じである。
重吉は腰のポケットから財布を出してとある灯の下で十錢札を二枚出した。淺草までかへらなければならないといふ意識がはつきりして來る。腹が空いてゐるので胸がむかむかするやうだつた。ポケットにしのばせてきたさつきの酒の肴の煎豆を重吉は口へはふりこんだ。豆をぷつんぷつんと噛んでゐと、重吉は自分だけでも生きのこつてゐる事がうれしかつた。淺草ではぞつとするほど澤山の人が死んでゐたものだ。震災の時なんかどころではなく澤山の人が燒けこげて死んでゐたが、自分はかうして生きてゐるのだと思ふと、重吉はほくほくするやうなうれしさを感じた。でつかい飛行機が來て、毎日毎夜火の雨を降らさないだけでもほつとした。重吉には一人の敵もないのだから、あんな大きな飛行機と戰爭するわけがないのである。重吉は外國を知らないから、澤山の子弟を兵隊にして戰爭をしなければならないわけがないのである。重吉は昔の東京の街がなつかしかつた。四谷見附のそばには三河屋と云ふ肉屋があつたものだと思つた。さぬき屋と云ふうなぎやも昔はあつた。いまは空爆であとかたもない通りを、重吉はふらふらと歩いてゆく。
藤三郎が藝者の萬龍のやうだと云つてくれた、美しい孫娘をなつかしがつて、重吉はいまにも兩手を擴げさうな淋しさを感じてゐた。
禿げた頭が金物のやうにずしりと地面にぶつつかつた。重吉は笑ひがこみあげて來るやうな妙な顏で眼を細めた。一寸恥づかしいほどまぶしかつた。遠くに投げ出した足の上をきいきいと強いきしみかたで重いものが通りすぎた。全身が火のやうに熱くなり重吉は呻いた。理解されない急激な痛みが走つたが、すぐ靜まつてゆき、何ともいへない愉樂が全身に滿ちてくる。地面が石油のやうに匂つてくる。重吉は一寸愍みを乞ふやうにもがいてみた。氣が遠くなつてゆくうちに重吉の身から血がにじみ出してきた。血の量は眞理を語つてゐるかのやうに電車のレールにも光つて行つた。
塹壕のなかで最後まで戰つた兵士のやうにひどいきずつきかただつたが、重吉は清子の手にも觸れたし、甘い聲もきいた。
「おぢいちやん馬鹿だねえ、こんなところに寢て。早くおうちへ歸つて、あたゝかいものでも食べませう……」
「おうちなんかとつくに燒けちまつたよ。べらんめえ、いままで何處歩いてゐたんだ。心配させやがつて……」
耳のうへで賑やかな音がした。人の聲も遠くにきこえたが、それは夏の日の蝉のやうでもあつた。
少しづつ時がたち、少しづつ夜が白みかけてきたが都會はまだ動かない。夜更けてからかゞやきわたつた月の光が、夜更けとともにますます光をまして、雪のやうに四圍は明るかつた。お壕の堤のなだらかな地面に、重吉は穴だらけの地下足袋の足を出して菰をきせられてゐた。悲劇的な死にかたのやうでゐて、重吉はまるで名譽の死にかたのやうにあをむいて顏の上に菰をかぶつてゐた。ひどい死にかたではなく、全く幸福げな死にかたであつた。無限の自然のなかに重吉は一つの石のやうにそこに長々と寢そべつてゐた。
軈てまた都會は昨日のくりかへしが夜明けとともに始まり、汽車のポーがきこえてくるであらう。
藤三郎はそのうち一人で釣りに行くことであらう。
●図書カード