Kembali
東山時代における一縉紳の生活
Table of Contents
東山時代における一縉紳の生活
原勝郎
Reading Settings
Ukuran font
18px
Tema
Terang
Gelap
Sepia
Pelindung mata
Spasi baris
Mode baca
Terjemahan Pagera AI
Asli Public Domain
Chapter 4 of 13

4

義尚将軍の鉤りの里の陣は、応仁の一乱によって促進された大勢に、さらに動かすべからざる決定を与えたものだ。荘園制度の持ち切れないものなること、頽勢の挽回し難きものなることは、この征伐の不成功によっていよいよ明白になった。秀吉の時にて荘園が全然日本に地を掃うようになったが、その実この掃除は足利時代の後半において引き続き行なわれたので、その荘園取り払いの歴史中で、近江征伐のごときは正に一つの大段落を劃するものだ。約言すれば応仁の乱があり、それからして近江征伐が文明年間の末に失敗におわると、その後はいよいよいわゆる天下の大乱となり、京都はその主なる舞台として物騒を加えるのである。京都市中の警察には細川、赤松らの大名その任に当っているわけであるけれど、直接その衝に立つものは、安富とか浦上などの被官人で、所司代の名をもって職権を行使しておった。しかし決して熱心な警察官とはいい難く、騒擾はなはだしきに及びてようやく手を下すのであるから、それらの力によって京都の粛清が十分にいたされ得たのではない。しばしば蜂起する土一揆は、あるいは東寺、あるいは北野または祇園を巣窟として、夜間はもちろん白昼も跳梁し、鐘をならし喊声を揚げ、富豪を劫掠する。最も多く厄に遭うものは土倉すなわち質屋ならびに酒屋であった。襲撃のおそれある家では、危険を避け、一揆が徘徊すると酒肴を出して御機嫌をとる向きもあったが、町内または知人らから竹木を集めて町の入り口に防禦の柵矢来を構うるやからもあった。いわゆる土倉の中には命よりも金銭を惜む輩もあって、刃を執って一揆等と渡り合い、夫婦共に非命の最期を遂げたという話もある。一揆は夜分こそこそ掠奪するのではなく、堂々と篝火を焚きて威嚇するのであったが、掠奪も多くは放火に終った。洛内の火災その半ばは彼ら一揆の仕業である。要するに一揆も群盗には違いがないが、一揆というほどに多勢でない群盗の横行もまた頻繁であった。したがって人殺しも珍しくない。下々の輩の気が荒くなって、何とも思わず乱暴を働く者の多かったこと勿論であるが、優にやさしかるべきはずの公卿も、殺伐の風に染みて、人を害することもあった。のみならずかく物騒なのは洛外も洛中と同じことで、大津や山崎との往来も折々は梗塞された。

かく述べ来ると当時の京都の住民は、朝をもって夕を計り難く、恟々として何事も手につかなかったように想像されるが、実際はさほどにあわてて落ちつかぬ暮らしをしていたのではない。ノン気であったとはいえぬけれど案外に平気なもので、時に際して相応に享楽をやっている。遊散にも出かければ、猿楽も見物した。加茂や祇園の例祭には桟敷もかかり、人出も多かった。兵乱や一揆のために焦土と化した町もあると同時に、その焼け跡に普請をして新宅を構うる者も続々あった。土御門内裏のごときも、焼亡の後久しからずして再建になった。将軍の柳営とても同断である。これが決して驚くに足らぬわけは、内裏の御料所や公卿将軍およびその他に納まるべき年貢は、一乱以後大いに減少したとはいうものの、全く納まらなくなったのではないからである。あるいは規則どおりに、あるいは不規則に、とにかくに年貢が続いて運ばれ、越後、関東、西国等から金米その他方物が京都に輸入され、また諸種の用件を帯びて遠国からわざわざ入洛する者絶えず、故に京都には一定の地方を限りてその入洛者に特に便宜を与える店舗も出来た。これらの旅人からのコボレや輸入などで京都の町はその繁昌を維持し、殊に三条、四条辺にはかなり大きな店が並んでおったらしい。乱世であるのにこの状態は、一見すると矛盾のはなはだしいものと考えられべきはずであるが、実はそうではなくして、かえりて道理にかなった話なのである。というのは、いかに兵乱が危険でも、常習性の者になると恐れてばかりはおられないからであって、次第に危険を軽蔑するようになり、遂にはいよいよ焦眉の急に切迫した場合は別として、さもない時には成るべく取越し苦労などをしないこととなるのである。この呼吸が呑み込めずしてはとうてい足利時代を会得することができない。

大体上述のごとき京都市民の生活の中で、特に公卿はいかなる特別の生活をなしておったか、これがすなわち次に起こってくる問題である。ちょっと考えると王権式微の武家時代であるによって、公卿の窮乏もさぞかしはなはだしかったろうと想われるのは当然のことであって、実際生活難に苦しんだ公家もまた少なくない。皇室の供御も十分とはまいらなかった時代であるからして、公卿の困ったのはむしろ怪しむに足らぬことであろう。坊城和長がその日記中女子の生れた事を記したついでに、「女の多子なるは婦道に叶うといえども、貧計なきにおいてはもっとも、こいねがわざるか」とこぼしている。その他の公卿日記にも、秘計をやることがしばしば見えているが、秘計とは金策をするという義なのだ。先ず食物から述べると、他の階級の輩はどうであったかわからぬが、少なくともそのころの公家は二食であったらしく、すなわち朝食と夕食とのみで、昼食というものは認めなかったと見える。昼食に相当するものの喫せらるるのは、旅中の昼駄餉くらいであったろう。しかしてその朝食の喫せらるるのは、たいてい朝の八時から九時にかけてのことで、今日における日本人の朝食に比すると、案外落ちつきてゆっくりと認めたものらしい。時としては朝食からして引き続き酒宴に移ることもある。先ずフランス人のデジネのようなものであったろうか。かかる朝食であるからして、客を招きてこれを振舞うということもおのずからあるので、中以下の公家の間におけるその招待のさまがすこぶるおもしろい。心安い客を朝飯によぶ時には、主人の方では汁のみを支度することが往々であって、その汁とても無論一種のことが多く、あるいは松蕈汁とか、あるいは鯨汁とか、あるいは菜汁とか、つまり汁の実にすべき季節の物かもしくは遠来の珍味を得た時は、それだけでもって客をするのである。しからば肝心の飯はどうしたかというに、それは招かれた者どもの方で持ち寄るのである。招待した方からは飯を供せぬ。朝飯をもろくに食することのできぬ同族を招く時はこの限りにあらずである。かくのごとき飯の持ちよりというシミッタレた招待は、無論極く懇意の間に限られたのであろうけれど、それにしても飯米というものがいかに彼らの間にすこぶる貴重に考えられておったかが想像される。また二人以上の男子を持った親は、そのうちの一人を出家にすることは珍しくなかったのだが、これも一つには糊口の都合からしてのことらしい。しからば女子をばいかに捌いたかというに、宮中や将軍家の奥向きに奉公するか、または同輩の家へ嫁にやることができれば、さらに不思議のないことであるが、都合によりては将軍の家臣たる武人に嫁せしめることもある。武人も人によりけりで、幕府の直参かもしくは大国の守護へでもくれてやることならば、これまた怪しむに足らぬことで、すでに鎌倉時代にもその例多くあることであるが、東山時代になると必ずしも直参と限らず、陪臣すなわちそれら直参の被官人にくれてやることをすらも厭わなかった。中には体面を保つためかは知れぬが一旦幕府直参の武士の養女分にして、それからさらに一段低い武人に嫁入らした例もある。

田舎の武人で相当な勢力を養い、場合によっては公家の娘でも嫁にもらおうかという権幕の者は、その日常生活においても公家の真似がしたくなるのは自然であって、それがまた公卿の財源になり、公卿の中には、手もと不如意になると遍歴を始めて、地方豪族を頼り寄付金を集めた者も少なくない。しかしてこの目的に最も好都合なのは、すなわち蹴鞠の伝授であった。彼らが地方へ行くと蹴鞠のほかにも、連歌などをやったものだが、連歌は文学としてすこぶる愚なものであるにもかかわらず、その道に上達するのには相当の素養が必要で公卿なら誰でも連歌の師匠になれるというわけには行かぬ。故に地方の余裕ある豪族らの連歌を稽古するには、必ずしも公卿を要せずして、宗祇とかまたはその門下の連歌師に就いて教を受くる方が多かった。ただ蹴鞠に至ってはそうは行かぬ。これはほとんど公家の専売の芸であって、これを習うには地下の者を師としたのでは通らぬ、ぜひとも公家に弟子入りするほかはない。そこで蹴鞠に長じた公卿は、京都でももちろん弟子をとるが、また地方へはるばると出稽古をする。しかしてこの出稽古がなかなか実入りのよかったものだ。起原はともかく、連歌は先ず大体足利時代の特産物ともいうべきものであるが、しかしながら決して公卿の専有物ではなく、したがって武人中公家風を真似ようと思わぬ者すらも、連歌をばやったので、連歌をやる者必ず公家化したとはいえない。しかるに蹴鞠はこれと別で、公卿の真似をしようという者は、必ずこの蹴鞠から始める。これあるいは当時蹴鞠が京都で非常に流行しつつあったがためでもあろうか。その辺しかとはわからぬが、とにかく蹴鞠は公家の真似の序の口で、大名もやれば堺辺の富有な商人もやった。しかしてこれをやるものは必ず大いに余裕のある者であったから、したがって公家が地方へ出稽古をするとなかなか実入りのよかったものである。

遠国へ出稽古というと旅行の必要が生ずるのであるが、それについては秩序の乱れた当時に物※な恐れがあろうと心配する人があるかも知れぬけれど、それにはまたそれ相当の方法を講じたものである。すなわち幕府に有力な武人の助けを借りるのだ。彼ら公卿は表面武人に雌服し、殊に将軍に対しては摂関家以上の敬意を払うことを否まなかった。さすがに太政大臣という官をば容易に将軍に許さなかったけれど、事実上の極位すなわち従一位をば、あまり惜しまずに与えた。義尚将軍はわずかに十九歳にしてこの極位に叙せられたが、これは摂関家ですらほとんどない例である。しかし内心公家は武家を軽蔑しておったので、武家に授ける官位をばあまり苦情をいわずに許したのは、武家なるが故に標準を別にしてもよいとの理由に基づくものであって、たとえていわばちょうど一しきり日本の留学生に対して、西洋の堂々たる諸大学が比較的容易に学位を授与した例があるのと似たもので、彼らの仲間内ではいつになっても官位をば苛もしなかったのである。つまり公家らはかくして武家の名聞心を満足させてこれを喜ばすと同時に己らの品位をば保ち得るものと思ったのである。したがって武人の任官叙位の標準が鎌倉時代よりも高まったとて、公家がよく多く武家を尊敬したという証拠にはならず、公家の内心にはほとんど先天的とも評すべき軽侮心を武人に対して懐きつつあったのである。義政が文明五年の二月に参内して宮中の御酒宴に加わらんとした時に、「酒宴の事は内々之儀、男女混乱の間、外人は如何、」という理由で一旦は拒まれんとしたがせっかくに願い出でたるに対しこれを拒むことになると、武家の面目を傷つけ、感情を害する恐れがあるとの説が通って、ついに参内を許さるることになったのであった。しかしそれでもなお不平な公卿があって、禁色を聴された者が雑役に服する例のないことを言い張り、将軍参内当日には祗候せぬ、とダダをこねた話もある。将軍に対しての待遇すでにかくのごとくであるからして、公卿と武人との交際においてもまたこれに類することが往々にしてあった。たとえば連歌の会のごとき、風流の席であって、必ずしも階級をやかましく言わず、公卿も武人も地下も、共に膝を交えて韻事を楽しんでいるように見えるけれど、その実はなかなかそんなに平民主義の徹底したものではなく、階級の障壁をばあくまでも取り除くまいとつとめた。ある年の始めにさる公卿の家で連歌の発会のあった時、杉原某という武人が講師を勤めたことがあるが、それに出席した一公卿は、雲客坐に在るにもかかわらず、その中から講師を選ばず、また主人の公卿がその任に当ることもなさずして、この名誉の職を武辺者に勤めさすということは、はなはだ不審なことだと、その日記に認めている。畢竟貴族が己れの都合によっては、下級の者と伍することをいとわぬのは、一見平民主義から来ている現象のごとくではあるが、もし下級の者がそれらの貴族を対等視することになるとたちまちにして彼らの階級的の誇を傷つけ、不平の念を起こさしめるということは、要するに真に平民主義な貴族のはなはだ少ないことを証するものであるが、足利時代の公家の心理はまさにそれであった。武家を軽蔑するけれど、抵抗の無益なことはよくわかっているから、無謀な企てをばなさぬ。そのかわりにできるだけ武家を利用してやろう、これが公家らの立場であったのである。故に前にも述べたとおり己らの荘園からして全然地頭を斥けようとはもはや試みぬかわり、それらの武人らに頼んで、取れるだけの年貢をとるようにする。百姓らが納め渋ぶる場合に武家の命をもって催促させる。御奉書を出させる。それだけでは武人の方に利益がなく、真面目に依頼の件を実行してくれそうにもない場合には、もし催促の利目があって首尾よく年貢が納まるならば、その半分を周旋した武人にやろうと利をもって誘う者もある。

Chapter 4 of 13
|