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「地球の南極に大陸が存在するということは、今日まだその基礎が極めて周辺的な観察に立脚して居り、全長の三割五分にあたるわずか五千哩の海岸しか知られていないので、南極大陸の存在を立証する直接の根拠を欠いている。二十世紀の初頭から今日までの成果も、要するに、一八八六年にサー・ジョン・ムレーが南極大陸の輪郭について、たぶんこれくらいだろうと予想したものを、ほんのすこしばかり改変した程度にすぎない。当時、ムレーはロス、ドュルヴィル、ウェルクスなどの探検の結果と、少数の捕鯨業者及びチャレンジャー号の報告などの乏しい材料しか持って居ず、そういった、もののついでに獲られたような間接的な証拠のみによって、南極大陸なるものを想像したのであった。従って、現在では、ムレーの地図から「ウェッデル海」と称するものの一部と、南緯八十二度の辺から北へ四度ばかりのところを削除しなければならなくなっている。
南極で「陸地」と称するものの大部分、殊に内陸の海岸線を示す重要点と考えられるものは、多少の例外を除いて、みな十九世紀中に発見されたものである。エンダビー・ランドなどというものは、蜿蜒、三千哩以上の海岸線を持つと想像されているけれども、一八三一年にビスコォが発見して以来、今日まで誰も実際に見たものはなく、真面目に探検されたこともないといった有様である。
気象学の方面では、現在、われわれの手許にある資料は、南極沿岸の島か、近海探検の汽船、南極の短い夏の間にあわただしく七十度附近へ走りこんだ貧弱な調査隊によって蒐集されたものがその全部で、内陸の奥のことはなにもわかっていない。かつてそのあたりに固定基地が設けられたこともなく、沿岸を越えて長期の冬季観測が行なわれたこともない。犬橇を駆って集めた片々たる資料は、みな比較的に温い夏の間だけのものにすぎないのである。」(一九二七年、リーズ市におけるルドモア・ブラウン博士の講演)
南極の風景は、太陽が熱を失って冷くなってしまった後、万物死滅して永劫の氷の墓場となり、暗黒の宇宙で空しい旋転をつづける全太陽系遊星の未来の予想図に髣髴するといわれる。厚さ四千尺の氷蓋(一九四八年、米国海軍南極探検隊による爆発試験の報告)に蔽われ、周辺に見あげるような氷の断崖や堡氷をめぐらした、平均高度九千尺という欧羅巴の一倍半ほどの異様な高原が、南極の頂点を中心に南緯六十七度のあたりまでほぼ円形にひろがっている。北と南に浮氷にとじられた湾入がある。内陸の西側に、二つの大氷河を挾んだ一万尺から一万三千尺の断層山脈が極に向って連なっているが、その先はどこまで行っているものやら、現在のところでは不明である。内陸の東側、フランスの全土にあたるほどの領域は、七千尺から一万尺ぐらいの卓地になっているらしく思われるが、確かなことを言えるものは一人もいない。総体として、極点にあたるあたりが一番高く、そこから四方へ放射状に低くなっている。従って内陸の氷蓋は、氷河運動の形式で、傾斜のあるかぎりたえず緩慢な流下をつづけ、最後は海岸までずりさがってきて、氷の護岸をつくるか、海の上へ泳ぎだして氷山になる。
宇宙から見れば、渺たる一個の遊星にすぎぬ地球というこの土塊は、二十三度半の傾斜をしながら偏奇な遊行をするので、南極では、一年が昼だけの季節と夜だけの季節に二分される。南極では、地球の回転を横から見ていることになるので、太陽は地平線の近くを横転するばかりで、三十三度半より上にはあがらず、落日はいつも斜めに沈んで行くが、これは見る眼にも印象的である。
この地方は、北極のように暖流や暖かい気流の流入がないので、世界無比の恒寒地帯になっている。内陸の奥で、零下八十四度というところまで測ったことがあったが、欧洲全土に欧露を加えたほど広いこの大陸では、一地点におけるある一日の計測などは、なんの意味もなさない。それからまだどれほど下るものか、想像もつかないからである。
内陸の氷原では、零下四十度は常温というところだが、五十度まで下ると、温度傾斜がはげしくなるので、かならず風が吹き起ってくる。氷原の氷も寒気で縮むかとみえ、地殻の苦痛が身に感じられるほどである。この凍風をまともに顔に受けると、十秒とたたぬ間に皮膚が剥がされてしまう。氷の上に立っていると、足の指が急速に死にはじめる。その辺を跳ねまわって生きかえそうと努力しているうちに、こんどは鼻が凍りだす。その手当をしていると、手が凍りつく。六十度となると、徐々に劇薬の中へ落ち込んでいく、異常な苦悶を経験することになる。それもしばらくのことで、間もなく、全感覚が脱落し阿片でも飲んだように、なんの苦痛も感じなくなる。
ここでは、雪さえも並々ならぬ形相をしている。色は真白で、氷のなめらかさも、透明さもない。六稜にならずに、針ともいえないような微小な針状の結晶をする。ちょうどタンポポの冠毛のようで、息で吹いただけで飛んでしまう。手で掬おうとすると、手の起す風でふわりとよそへ行ってしまう。軽すぎるので、降ることもできず、巻雲のようになって大気のなかに浮んでいることが多い。零下六十度ぐらいになると、いよいよ微小な分解をとげ、雪の上を歩いても足跡が残らない。
南極とは、こういった魔物だが、ここで屡々起る天候の突然異変は特に悪魔的であって、今日の気象学の知識では理解されないことが多い。低緯度地方の予測や予報の技術は、全然、この地方にあてはまらない。ある年の経験や記録で、他の年の天候を予想することは絶対に不可能である。一例をあげると、一九一二年の二月七日、ロス海に向いた氷堤上の温度は華氏の零下九度だったが、翌八日には零下七〇度に下った。こういうことがなんの前触れもなくはじまる。この気温異変はスコット探検隊を破滅させる機縁になった。日本の探検隊は、その日、船に帰っていたので、一日ちがいで助かった。
一九二三年、スコット遭難十周年の記念講演で、英国の気象学者のシムプソン博士が、まだ世界に知られていない南極大陸の天候異変と吹雪について解説を与え、識者の注意を促したことがあったが、南極独得の大吹雪はこの地球上で最も恐るべきものの一つになっている。南極大陸の気流の動きは、大体が高気圧性で、大気は大陸から外側へ流れだすが、これに地球の自転が作用するので、風向はみな東風の分力をもっている。海岸に近い氷堤上でよく猛烈な大吹雪が起るが、これは気温の激変で、海上の気圧と内陸の気圧の差が急に大きくなったところで、移動気圧波の形式によって、唐突にはじまるのである。一九一二年はよく吹雪があり、日本の探検隊を南緯八十度〇五分のところから吹き落してしまったが、二月末から三月のはじめにかけて、約十日の間、秒速四十五米の吹雪が、一分の休みもなく吹きに吹き、スコット隊の全員五名を氷原に凍みつかせてしまった。
南極地方で内陸の探検をするということになると、南極海の氷山と流氷と長い戦いをやったのち、氷の城のように聳えたつ四百尺の氷壁を攀じのぼって、内陸氷の台地の上に出るところからはじまる。踏破する氷原というのは、実は大陸の表面にある山嶺や谿谷を埋めつくした大氷床なので、複雑な褶曲を畳んだ峻嶮たる氷の山嶽の間を、氷河の亀裂を迂回しながら、喘ぎ喘ぎ分け登ることをいうのである。南極点を征服するということになると、その困難は想像に絶したものになる。海岸から南極の頂点までの距離は、パリ=ベルリンの一〇七〇粁よりまだ二百粁も遠い。東京と福岡ほどの距離を、犬橇について、九十日から百日ぐらいかかって徒歩で往復するのだが、八十度以南は大氷河についてのぼる無限の氷の段階で、そこで零下七十度以下の寒気に凍てつかされ、秒速三十米の吹雪にたえず吹き悩まされるのである。シャクルトンは、人間が南極の八十度圏内へ入ると、あたかも地球からほかの遊星へ投げこまれたような気がするといっている。「そこでは、行動は、すべて未完成で、幼稚で、所在に主たることを失い、思考作用の空虚と無為は、果てしないものになる。たとえば、歩きながらわれとわが身に話しかけ、その言葉を聞き入るような迂濶な真似をする。八十度圏の彷徨中に起ったことは、あとで思いかえすと、みな緩慢な動作の物憂い幻だったとしか思えない」
八十度圏は、おおよそそういったところなんだろう。それはわかったが、極地点ではどんなことがはじまるんだろう。アムンゼンの南極探検の報告書には、「われわれは目的地点に到着せり、行旅は終った」とそれだけしか書いていないが、ノルゲ号の北極横断で、八十八度附近で濃霧に出逢ったとき、未知の「極」に近づく不安と恐怖を、正直に語っている。「わずか数年前まで、北極地帯には、ひょっとすると空気がないのではないかと、一部の人々に考えられていたが、そういった恐怖が心臓を強く締めつけた。もしかすると、知らないうちに北極の頂点を過ぎ、深い霧に巻かれながら、誰も知らない向う側の神秘的な北極地帯へ……二度と文明に接しえないような、恐ろしい、奇怪な旅にのぼるのではなかろうか? そしてまた、真実そんな破目になるような気がしたし、いうにいえぬ深刻な不安に喘いだ……」
スコットの探検隊はアムンゼンより三十三日遅れて南極の極点に到着し、八十八度五十分のところでアムンゼン隊の橇の跡を見つけた。その日の日記――
「諾威の連中に先んじられた。最初に南極点に到着した栄誉は、彼等のものである! ああ、なんという失望! 忠実な同僚にすまない。明日、極点を一瞥したら、出来るだけ急いで帰ることだ。終日、いろいろと思い耽ける。帰りの旅行は、たぶん辛いものになるだろう。果して、うまくいくだろうか?」
一月十八日、極地点に着いたところで、ただ一行、こんなふうに書いている。
「おお、神よ、実に恐ろしい土地です」
スコット隊五名の凍死体は、八カ月後に発見された。五個の死体は氷にとじられて石塚のように固くなっていた。スコットは寝袋の垂れをはねのけ、最も信頼していたウィルソン博士の胸に片手を載せたまま死んでいた。三月二十九日の日記には、「神よ、同僚を助けたまえ」とあった。
ケンブリッジ大学のスコット極地問題研究所の拱門の上に、つぎのような言葉が彫りつけられてある。
地の果てを索ね明さんとして
そこにて秘められたる神の面を見たり
探検とは、そもそもどういうことをいうのだろう。「恐ろしい土地」へ身を挺して入りこみ、絶苦の艱難を凌ぎ、全世界の地理学者に知られていないようなことを、驚くべき距離の奥からひきずりだしてくる。極地探検隊の運命を、ポォが「南極洋」でうたっている。無限にひろがる大氷原、その上に、雲、風、霧、雪などの入乱れた狂おしい景色。その濃霧の幕の中へ、三人、五人、八人、十二人――それに犬や橇の列が、神秘な、なにものかに憑かれたように、苦しみ、悶えながら、やむにやまれず突入して行く――そして、永久に誰もそこから帰って来ない……
極地の探検がはじまって以来、この百五十年の間に、さまざまな悲劇があった。北極には、フランクリン探検隊の謎のような消滅とグリーリー探検隊の惨澹たる遭難があった。フランクリンの一行は、一八四八年の夏、パフィン湾からランカスター海峡を越えたらしいところで消息が絶えてしまった。その後、十年にわたって、カナダの北岸に散布している多島海を、幾十隻かの救助船や捜査船が探してまわったが、一つも確実な消息が得られなかった。十九世紀の末になって、キング・ウィリアム島の海岸に土着しているエスキモーの言伝いによって、フランクリンの一行がこの辺まで辿り着いたことだけは、おぼろげに察しられたが、詳細は、いまなお依然として不明のままである。
グリーリーの一行は、一八八一年にグリーン・ランドへ探検に行った。引揚船に見捨てられ、サビーン岬の近くに天幕を張って冬越しをはじめたが、寒気と饑餓でつぎつぎに倒れ、四年目の春になって救援隊が到着したときには、二十三人のうち、グリーリーと六人の隊員だけが生残り、埋葬もしていない仲間の屍の間で、人間の影にすぎない幽霊のような悽惨な姿で、やっと呼吸をしていた。