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庖厨場の前の小部屋は、追放されるまでド・ラッス・カーズ伯の専用になっていて、息子のエンマヌエルがその下の穀置場で寝起きしていた。
それはともかく、マサニエル号の船長が、薄暗い穀置場で見た「ナポレオン」というのは誰だったのか。
マルシャンの「備忘録」の一八一九年に、次のような記事がある。
七月二十二日 レチチア夫人が差し遣わされた医師アントン・マルシィ氏、外に、皇帝の同郷人三名、
マリオ・ジェンツイオ
エミリオ・モンティ
シェザレ・ロッセルリ
病気見舞としコルシカより来島。
同 二十七日 同郷人三名、離島。 火事があったのは、七月二十二日、つまりコルシカから三人の同郷人が到着した翌々日だから、「穀置場のナポレオン」は、三人の同郷人の一人だったと思われる。「コクリオーネ」というのは、無礼者とか不届者とかいう意味のコルシカの方言である。
次は一八一八年三月十四日に着任しコンケラア号付軍医正ヘンリー・モープランの手記である。
「一八一八年十月十六日及び一八二一年五月五日の検診に対する備考」
一、十四日、午後五時、コンケラア号のストーコオを訪問。着任の挨拶。ストーコオ、君もたいへんなところへやってきたものだという。
前任のオミラーが、ナポレオンに新聞を届けたというので喜望峰監獄へ送られたという話。皇帝派と総督派の関係についていろいろ説明する。(ストーコオは皇帝派)。ストーコオが正直な臨床報告を出すと、総督派のアーノッドがかならず反対報告をするので困るという。「ボナパルト将軍ハスコブル健全ナルモ、病ヲ装ウ。脱島セントシテ種種手段ヲ講ジ居ルモノノ如シ」等々。
二、ストーコオ、皇帝の希望によって専任になった由。前例があるので慎重にやりたい。今度またアーノッドにひっくりかえされると、非常に苦しい立場になるから、一緒に行って立会診察をしてくれという。
三、十月十六日、午前十時、ストーコオと共にロング・ウッドへ行く。十一時、臨床。肝臓腫脹異常。疼痛を訴う。脚部冷脚。炎症性疾患。膿瘍の疑あり。環境不適。ストーコオの検案に同意、診断書に署名す。
(ストーコオは一八一八年末までナポレオンの専任を担当していたが、「ナポレオンと親昵す」という理由で罷免され、一八一九年一月十日、トリコロール号でロンドンへ送還。軍法会議。モープランも同じ理由で懲戒。軍医に下級され、二年間の期限付でケープ殖民地へ左遷。一八二一年二月十八日、コンケラア号付に復職した)
一、一八二一年五月五日、午後三時、ナポレオン危篤の通告。同僚三人と共に暴風雨を冒して出発す。一九年七月以後、アントン・マルシィ氏が専任。我々がロング・ウッドへ行くのは三年ぶりのことなり。
二、侍医アントン・マルシィ氏より報告あり。後、四人にて臨床。回復不能。午後六時十分、死去。
三、六時四十分頃、総督ハドソン・ロオ、副総督チェースと共に来る。一八年二月以来のことなり。面布を除けてナポレオンの顔を見、苦笑す。「これがナポレオンか。おれはなにもかもみな知っているんだぞ」といい、憤然と去る。
四、同十時、剖検。主刀アントン・マルシィ氏。大彎部及び体部に滲透性潰瘍。小彎部及び前壁に隆起著大なる腫瘤性癌。肝臓は血色鮮明にして器質すこぶる健全、過去の疾患を想像し得ず。
五、この著大なる隆起を以てすれば、既に二年前、外部より容易に触知し得たる筈。また肝臓に病跡の残留せざるは不可解なり。
六、医師ノ立場カラ言エバ facies(顔)ハ皇帝ナレド corpus(体)ハ全然別人ナリト言ワザルヲ得ズ。
次はピエール・デュレキュの筆録。ピエール・デュレキュは三檣帆船シュザンナ号の船主兼船長で、一八一四年から一七年まで仏領アフリカ、セネガルのサン・ルイ島で貿易に従事していた。一八二〇年十月六日、葡領アフリカのグランデ・バサーニョへマホガニーの積出しに行った。格安の阿弗利加マホガニーを、ホンジュラス産のマホガニーとしてフランスで売捌くのが目的であった。
「皇帝と百日の船旅。並にジャン・フレミユの島の生活」
グランデ・バサーニョの浮洲をまわって上陸すると、黒人売買にでも使われたらしい廠舎の前に、灰色のルダンゴートを着た二人の欧羅巴人がいるのでおどろいた。
デュレキュは二人に挨拶して、どうしてこんなところにいるのかとたずねると、われわれはジャック・カルチイエと一緒にアメリカへ渡ったコルシカ人だが、三年前、セネガルへ黒人奴隷を買出しにきてギネアの沖で海難に逢い、ボートで漂流しているうちにここへ流れついたのだといった。
デュレキュはそれはそのまま聞いておいたが、三年近くも住んでいるのに有害な風土にたいする設備はすこしもされていず、衣服もさほど古びていないことを妙に感じた。
それから十日後、マホガニーの積込が終ったので、小屋へ別れの挨拶に行くと、二人は愛想よくヴェランダへ招じあげた。カーテンの向うにも誰かいるらしく、歩き廻る足音がきこえたが姿は見えなかった。
デュレキュは椅子に掛けながらふと見ると、椅子の背にバロック模様の彫刻の中にMという字が組み合せてあり、卓布にもMという花文字が浮織になっていた。
デュレキュがサン・ルイに居るときに難破したメジューズ号の金庫から公金九万法をとりだすことを総督に依頼された。そのほうは成功しなかったが、備付の家具は相当取りだしたのでよく覚えていた。この連中の素性もこれでわかったようなものだったが、それには触れなかった。
しばらくの間さり気ない会話をつづけていたが、そのうちにマリオと名乗ったほうが、あなたの船でわれわれ三人を、アメリカまで送ってもらうわけにはいかぬものだろうか。もしご承諾ねがえるなら、船賃として、一人につき金貨で二万法前払いするといった。
マホガニーはロシュフォールへ持って行くつもりだったが、ボストンだっていっこうかまわない。デュレキュが承諾すると、もう一人のほうが立って行って、革袋を四つ、二度に運びだしてきて、テーブルの上へ金貨を積みあげた。デュレキュは金貨を一つ手にとって眺めると、塩気に傷められたような薄い曇りがあるので、メジューズ号の金貨の一部のように思えてならなかった。
翌日、朝の八時頃、三人のコルシカ人が船へあがってきたが、先頭の男を見ると、デュレキュはふるえあがってしまった。デュレキュはマルセーユやツウロンで、皇帝の真影をいくども幻灯で見ていたので、いまじぶんの前に立っているのは誰なのかはっきりと諒解した。
その日の午後、シュザンナ号はロシュフォールへ向けて出帆したが、デュレキュは「賃金に相当した待遇」という名目でじぶんの船室を明けわたした。しかしことさらに尊敬することも粗末にすることもしなかった。いずれにしても、ナポレオンだと気がついていることを相手に覚らせるのは得策ではないと思ったからである。
ナポレオンはほとんど船室から出ず、朝の十時に朝食、食後は眠るか読書するかし、二時に昼食。夜は二人を相手にして骨牌の「二十一」をやった。甲板で逢ってもふりむいても見ず、デュレキュを食卓に招待するようなこともなかったが、デュレキュはそれを不平に思うどころか、じぶんの船で世界の帝王を送りつつあるという昂奮で夜もろくろく眠れぬくらいだった。
十一月十七日、トリニダット島へ近づいた。午後二時頃、舵手がデュレキュのところへやってきて、縦帆船が船尾を横切って風上のほうへ行ったから用心しなくてはならないといった。
この辺は物騒な海域だった。ウォーターロォの戦を最後にしてヨーロッパが安定すると、数千艘の私掠船の乗組員が失業して海賊になったが、その中でジャン・フレミユというフランス人の海賊は慓悍で、メキシコ湾内に王国をつくりバハマの近海を荒しまわっていた。
四時頃になると、縦帆船は斜行しながら見る見る風上半哩ほどのところへ近づいてきた。檣は全部船尾へ集り、おどろくほど大きな主帆をもった本式のボルチモアの帆船で、愛国旗(コロンビヤ国旗)を掲げていた。
抵抗するだけ無駄なようなものなので、シュザンナ号は帆をおろして停船すると、間もなく四十人ばかりの海賊を乗せた三艘のボートがシュザンナ号へ漕ぎつけた。真先にあがってきたのは、金モールで飾った植民地風の軍服を着、フランスの士官のように二梃の短銃を革のバンドで腰につるした、三十二、三の毅然たる男で、かねてデュレキュがきいていたフレミユの人相とそっくりだった。
デュレキュはナポレオンのいる部屋の前に立っていると、フレミユは手下をつれてやってきて、「そこを開けろ」といった。デュレキュは両手をひろげて、「誰もこの部屋へ入る権利はない。海賊なんか、なおさらのことだ」と叫んだ。フレミユの手下が大きなナイフを振りあげるのが見えたが、それっきりなにもわからなくなってしまった。
しばらくして覚醒すると、船のようすがすっかり変っていた。乗組の姿は一人も見えず、舵場には海賊がいて、縦帆船と同航しながらトリニダットの港から出かけているところだった。
デュレキュが呆然としていると、フレミユがそばを通りかかった。デュレキュはフレミユを呼びとめて、シュザンナ号をどうするつもりかとたずねると、フレミユは、「君の船は港の外で焼いてしまわなくてはならないが、かならず賠償はする。君はわれわれの船へ移ってもらう。四十日ぐらいは不自由を忍んでもらわなくてはなるまいよ」といった。
デュレキュがシュザンナ号の乗組のことをたずねると、フレミユは、あれらは完全に行くべきところへ行ったとこたえた。それは天国だったのかマルセーユだったかわからない。少なくともデュレキュが死ぬまでにはただの一人も見かけなかった。
デュレキュはフレミユの船の狭い監房へおしこめられた。行動の自由はなかったが、取扱いは最上の儀礼をもって行なわれ、食事も悪くなかった。船はたえず北上しているらしく毎日すこしずつ気温がさがった。二十七日目に船が停った。デュレキュにはそれがどこかわからなかったが、船室の寒暖計が十度を示していたので、一月の等温線と睨み合せ、セント・ローレンスの北、と判断した。
二日後、船はまた南下しはじめ、それから三十日目にようやく部屋から出されて陸へあがった。それはメキシコ湾のムートンとかいう小島だった。デュレキュは一八三〇年までその島に置かれ、その年の五月、丁重にロシュフォールへ送り届けられた。
ナポレオンがセント・ヘレナをぬけだしたというのは事実だったのか。ナポレオンに最後まで忠誠をつくし、そのゆえに記憶されているベルトラン伯爵夫人が、一八一九年にモスクヴァにいる友人、カロリーヌ・クリュドネル(ロシアの外交官クリュドネルの未亡人。アンナ皇太后の女官)に次のような手紙を送っている。
「われわれはとうとう勝ちました。N・Bはセント・ヘレナをぬけだしました」
ナポレオンは一八一九年の八月ごろから部屋に籠って誰にも逢わなくなった。副総督チェースの「覚書」によると、それまではカルトンという英国人の園丁が密偵の役をし、ナポレオンの毎日の行動をハドソン・ロオに報告していたが、ナポレオンがカルトンを解雇してしまったので、まるっきり手がかりがなくなってしまった。そのころハドソン・ロオは、「ナポレオンはこの島にいるのだろうか。これは神様にだってわかるまい」
とつぶやいたとチェースが書いている。
どんな方法で脱島したか。それは平凡尋常なものだったろうと思われる。三人のコルシカ人は、七月二十四日の朝、プランテーション・ハウスの総督の邸へ行って別れの挨拶を述べ、(ハドソン・ロオは不在だった)モントロンに見送られてサンデー湾の船着場からボートでグリニチ号へ行った。
一八七一年以来ナポレオンの研究をつづけ、二十巻の伝記を書いたフレデリック・マッソンが「ナポレオン秘録」(Frdric Masson “Nepolon inconnu” Vol. )で、
「ナポレオンがセント・ヘレナを脱けだすには、ハドソン・ロオの黙会がなくては絶対に不可能だったろう」といっているのは正しい。