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浮雲
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浮雲
二葉亭四迷
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Chapter 8 of 23

8

「トいう訳でツイそれなり鳧にしてしまいましたがネ、マア本田さん、貴君は何方が理屈だとお思なさる」

「それは勿論内海が悪い」

「そのまた悪い文三の肩を持ッてサ、私に喰ッて懸ッた者があると思召せ」

「アラ喰ッて懸りはしませんワ」

「喰ッて懸らなくッてサ……私はもうもう腹が立て腹が立て堪らなかッたけれども、何してもこの通り気が弱いシ、それに先には文三という荒神様が附てるからとても叶う事ちゃア無いとおもって、虫を殺ろして噤黙てましたがネ……」

「アラあんな虚言ばッかり言ッて」

「虚言じゃないワ真実だワ……マなんぼなんだッて呆れ返るじゃ有りませんか。ネー貴君、何処の国にか他人の肩を持ッてサ、シシババの世話をしてくれた現在の親に喰ッて懸るという者が有るもんですかネ。ネー本田さん、そうじゃア有りませんか。ギャット産れてからこれまでにするにア仇や疎かな事じゃア有りません。子を持てば七十五度泣くというけれども、この娘の事てはこれまで何百度泣たか知れやアしない。そんなにして養育て貰ッても露程も有難いと思ッてないそうで、この頃じゃ一口いう二口目にゃ速ぐ悪たれ口だ。マなんたら因果でこんな邪見な子を持ッたかと思うとシミジミ悲しくなりますワ」

「人が黙ッていれば好気になってあんな事を言ッて、余りだから宜ワ。私は三歳の小児じゃないから親の恩位は知ていますワ。知ていますけれども条理……」

「アアモウ解ッた解ッた、何にも宣うナ。よろしいヨ、解ッたヨ」

ト昇は憤然と成ッて饒舌り懸けたお勢の火の手を手頸で煽り消して、さてお政に向い、

「しかし叔母さん、此奴は一番失策ッたネ、平生の粋にも似合わないなされ方、チトお恨みだ。マア考えて御覧じろ、内海といじり合いが有ッて見ればネ、ソレ……という訳が有るからお勢さんも黙ッては見ていられないやアネ、アハハハハ」

ト相手のない高笑い。お勢は額で昇を睨めたまま何とも言わぬ、お政も苦笑いをした而已でこれも黙然、些と席がしらけた趣き。

「それは戯談だがネ、全体叔母さん余り慾が深過るヨ、お勢さんの様なこんな上出来な娘を持ちながら……」

「なにが上出来なもんですか……」

「イヤ上出来サ。上出来でないと思うなら、まず世間の娘子を御覧なさい。お勢さん位の年恰好でこんなに縹致がよくッて見ると、学問や何かは其方退けで是非色狂いとか何とか碌な真似はしたがらぬものだけれども、お勢さんはさすがは叔母さんの仕込みだけ有ッて、縹致は好くッても品行は方正で、曾て浮気らしい真似をした事はなく、唯一心に勉強してお出でなさるから漢学は勿論出来るシ、英学も……今何を稽古してお出でなさる」

「『ナショナル』の『フォース』に列国史に……」

「フウ、『ナショナル』の『フォース』、『ナショナル』の『フォース』と言えば、なかなか難しい書物だ、男子でも読ない者は幾程も有る。それを芳紀も若くッてかつ婦人の身でいながら稽古してお出でなさる、感心な者だ。だからこの近辺じゃアこう言やア失敬のようだけれども、鳶が鷹とはあの事だと言ッて評判していますゼ。ソレ御覧、色狂いして親の顔に泥を塗ッても仕様がないところを、お勢さんが出来が宜いばっかりに叔母さんまで人に羨まれる。ネ、何も足腰按るばかりが孝行じゃアない、親を人に善く言わせるのも孝行サ。だから全体なら叔母さんは喜んでいなくッちゃアならぬところを、それをまだ不足に思ッてとやこういうのは慾サ、慾が深過ぎるのサ」

「ナニ些とばかりなら人様に悪く言われても宜からもう些し優しくしてくれると宜だけれども、邪慳で親を親臭いとも思ッていないから悪くッて成りゃアしません」

ト眼を細くして娘の方を顧視る。こういう眺め方も有るものと見える。

「喜び叙にもう一ツ喜んで下さい。我輩今日一等進みました」

「エ」

トお政は此方を振向き、吃驚した様子で暫らく昇の顔を目守めて、

「御結構が有ッたの……ヘエエー……それはマア何してもお芽出度御座いました」

ト鄭重に一礼して、さて改めて頭を振揚げ、

「ヘー御結構が有ッたの……」

お勢もまた昇が「御結構が有ッた」と聞くと等しく吃驚した顔色をして些し顔を※らめた。咄々怪事もあるもので。

「一等お上なすッたと言うと、月給は」

「僅五円違いサ」

「オヤ五円違いだッて結構ですワ。こうッ今までが三十円だッたから五円殖えて……」

「何ですネー母親さん、他人の収入を……」

「マアサ五円殖えて三十五円、結構ですワ、結構でなくッてサ。貴君どうして今時高利貸したッて月三十五円取ろうと言うなア容易な事ちゃア有りませんヨ……三十五円……どうしても働らき者は違ッたもんだネー。だからこの娘とも常不断そう言ッてます事サ、アノー本田さんは何だと、内の文三や何かとは違ッてまだ若くッてお出でなさるけれども、利口で気働らきが有ッて、如才が無くッて……」

「談話も艶消しにして貰たいネ」

「艶じゃア無い、真個にサ。如才が無くッてお世辞がよくッて男振も好けれども、唯物喰いの悪いのが可惜瑜に疵だッて、オホホホホ」

「アハハハハ、貧乏人の質で上げ下げが怖ろしい」

「それはそうと、孰れ御結構振舞いが有りましょうネ。新富かネ、但しは市村かネ」

「何処へなりとも、但し負ぶで」

「オヤそれは難有くも何ともないこと」

トまた口を揃えて高笑い。

「それは戯談だがネ、芝居はマア芝居として、どうです、明後日団子坂へ菊見という奴は」

「菊見、さようさネ、菊見にも依りけりサ。犬川じゃア、マア願い下げだネ」

「其処にはまた異な寸法も有ろうサ」

「笹の雪じゃアないかネ」

「まさか」

「真個に往きましょうか」

「お出でなさいお出でなさい」

「お勢、お前もお出ででないか」

「菊見に」

「アア」

お勢は生得の出遊き好き、下地は好きなり御意はよし、菊見の催頗る妙だが、オイソレというも不見識と思ッたか、手弱く辞退して直ちに同意してしまう。十分ばかりを経て昇が立帰ッた跡で、お政は独言のように、

「真個に本田さんは感心なもんだナ、未だ年齢も若いのに三十五円月給取るように成んなすった。それから思うと内の文三なんざア盆暗の意久地なしだッちゃアない、二十三にも成ッて親を養すどこか自分の居所立所にさえ迷惑てるんだ。なんぼ何だッて愛想が尽きらア」

「だけれども本田さんは学問は出来ないようだワ」

「フム学問々々とお言いだけれども、立身出世すればこそ学問だ。居所立所に迷惑くようじゃア、些とばかし書物が読めたッてねっから難有味がない」

「それは不運だから仕様がないワ」

トいう娘の顔をお政は熟々目守めて、

「お勢、真個にお前は文三と何にも約束した覚えはないかえ。エ、有るなら有ると言ておしまい、隠立をすると却てお前の為にならないヨ」

「またあんな事を言ッて……昨日あれ程そんな覚えは無いと言ッたのが母親さんには未だ解らないの、エ、まだ解らないの」

「チョッ、また始まッた。覚えが無いなら無いで好やアネ、何にもそんなに熱くならなくッたッて」

「だッて人をお疑りだものヲ」

暫らく談話が断絶れる、母親も娘も何か思案顔。

「母親さん、明後日は何を衣て行こうネ」

「何なりとも」

「エート、下着は何時ものアレにしてト、それから上着は何衣にしようかしら、やッぱり何時もの黄八丈にして置こうかしら……」

「もう一ツのお召縮緬の方にお為ヨ、彼方がお前にゃア似合うヨ」

「デモあれは品が悪いものヲ」

「品が悪いてッたッて」

「アアこんな時にア洋服が有ると好のだけれどもナ……」

「働き者を亭主に持ッて、洋服なとなんなと拵えて貰うのサ」

トいう母親の顔をお勢はジット目守めて不審顔。

第二編

第七回 団子坂の観菊 上

日曜日は近頃に無い天下晴れ、風も穏かで塵も起たず、暦を繰て見れば、旧暦で菊月初旬という十一月二日の事ゆえ、物観遊山には持て来いと云う日和。

園田一家の者は朝から観菊行の支度とりどり。晴衣の亘長を気にしてのお勢のじれこみがお政の肝癪と成て、廻りの髪結の来ようの遅いのがお鍋の落度となり、究竟は万古の茶瓶が生れも付かぬ欠口になるやら、架棚の擂鉢が独手に駈出すやら、ヤッサモッサ捏返している所へ生憎な来客、しかも名打の長尻で、アノ只今から団子坂へ参ろうと存じて、という言葉にまで力瘤を入れて見ても、まや薬ほども利かず、平気で済まして便々とお神輿を据えていられる。そのじれッたさ、もどかしさ。それでも宜くしたもので、案じるより産むが易く、客もその内に帰れば髪結も来る、ソコデ、ソレ支度も調い、十一時頃には家内も漸く静まッて、折節には高笑がするようになッた。

文三は拓落失路の人、仲々以て観菊などという空は無い。それに昇は花で言えば今を春辺と咲誇る桜の身、此方は日蔭の枯尾花、到頭楯突く事が出来ぬ位なら打たせられに行くでも無いと、境界に随れて僻みを起し、一昨日昇に誘引た時既にキッパリ辞ッて行かぬと決心したからは、人が騒ごうが騒ぐまいが隣家の疝気で関繋のない噺、ズット澄していられそうなもののさて居られぬ。嬉しそうに人のそわつくを見るに付け聞くに付け、またしても昨日の我が憶出されて、五月雨頃の空と湿める、嘆息もする、面白くも無い。

ヤ面白からぬ。文三には昨日お勢が「貴君もお出なさるか」ト尋ねた時、行かぬと答えたら、「ヘーそうですか」ト平気で澄まして落着払ッていたのが面白からぬ。文三の心持では、成ろう事なら、行けと勧めて貰いたかッた。それでも尚お強情を張ッて行かなければ、「貴君と御一所でなきゃア私も罷しましょう」とか何とか言て貰いたかッた……

「シカシこりゃア嫉妬じゃアない……」

と不図何か憶出して我と我に分疏を言て見たが、まだ何処かくすぐられるようで……不安心で。

行くも厭なり留まるも厭なりで、気がムシャクシャとして肝癪が起る。誰と云て取留めた相手は無いが腹が立つ。何か火急の要事が有るようでまた無いようで、無いようでまた有るようで、立てもいられず坐てもいられず、どうしてもこうしても落着かれない。

落着かれぬままに文三がチト読書でもしたら紛れようかと、書函の書物を手当放題に取出して読みかけて見たが、いッかな争な紛れる事でない。小むずかしい面相をして書物と疾視競したところはまず宜たが、開巻第一章の一行目を反覆読過して見ても、更にその意義を解し得ない。その癖下坐舗でのお勢の笑声は意地悪くも善く聞えて、一回聞けば則ち耳の洞の主人と成ッて、暫らくは立去らぬ。舌鼓を打ちながら文三が腹立しそうに書物を擲却して、腹立しそうに机に靠着ッて、腹立しそうに頬杖を杖き、腹立しそうに何処ともなく凝視めて……フトまた起直ッて、蘇生ッたような顔色をして、

「モシ罷めになッたら……」

ト取外して言いかけて倏忽ハッと心附き、周章て口を鉗んで、吃驚して、狼狽して、遂に憤然となッて、「畜生」と言いざま拳を振挙げて我と我を威して見たが、悪戯な虫奴は心の底でまだ……やはり……

シカシ生憎故障も無かッたと見えて昇は一時頃に参ッた。今日は故意と日本服で、茶の糸織の一ツ小袖に黒七子の羽織、帯も何か乙なもので、相変らず立とした服飾。梯子段を踏轟かして上ッて来て、挨拶をもせずに突如まず大胡坐。我鼻を視るのかと怪しまれる程の下眼を遣ッて文三の顔を視ながら、

「どうした、土左的宜しくという顔色だぜ」

「些し頭痛がするから」

「そうか、尼御台に油を取られたのでもなかッたか、アハハハハ」

チョイと云う事からしてまず気に障わる。文三も怫然とはしたが、其処は内気だけに何とも言わなかった。

「どうだ、どうしても往かんか」

「まずよそう」

「剛情だな……ゴジョウだからお出なさいよじゃ無いか、アハハハ。ト独りで笑うほかまず仕様が無い、何を云ッても先様にゃお通じなしだ、アハハハ」

戯言とも附かず罵詈とも附かぬ曖昧なお饒舌に暫らく時刻を移していると、忽ち梯子段の下にお勢の声がして、

「本田さん」

「何です」

「アノ車が参りましたから、よろしくば」

「出懸けましょう」

Chapter 8 of 23
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