第五章
ハロルドの怪我は幸い深刻じゃなかった。あの怪物が死の間際にくり出したハサミ攻撃で軽い脳しんとうを起こしたものの、現地医者のうまい処置と、ハイジの献身的な看護のおかげで急速に回復した。
意識を取り戻した時、総督邸の涼しい部屋に横たわり、ハイジがぴったり付き添っていた。少し体が重く疲れていたが、それ以外は極めて調子が良い。船長の行動を切に知りたかったが、気づかざるをえないのは女の魅力、黒い瞳でやさしく熱くハロルドを見ていた。
ハイジがハロルドの額に冷たい手を置いて、心地よい言葉をささやいた。
「あ、よくなりましたね。とても嬉しいわ」
ハロルドがハイジの小さい手を自分の唇に引き寄せた時、誰よりも愛らしく思えた。
「思い出した。怪獣に襲われたんだ。そのあとのことは何も覚えていない」
ハイジがかいつまんで説明した内容は、船長が鋼線の設置に成功したとか、ドロマイト弾で相当量の岩を除去したとか、沈島本来の地肌や、財宝を破壊しなかったことなどだ。
ハイジが懇願するようなまなざしで言った。
「これ以上関わらないと約束してくださいね。とても怖かったわ。何事も起こらないでほしい」
明らかに最後の言葉には愛情がこもっている。それを聞いて手の震えを感じた。あの黒い瞳で心をかき乱されたのはこれが初めてじゃないし、何回もこのメキシコ美人を大切な人と思い、バラ色の夢を見た。心臓の鼓動が早くなり、湧き上がる愛の気持を口走った。
「俺が死んだら本当に嘆いたかい」
ハイジのほほがパッと赤くなった。ハイジを引き寄せてかわいい顔をのぞき込むと、目がやさしく輝いた。
「分かってるくせに。南国の女は感情を隠せないのよ。英国の冷たい女とは違うの。あなたが死んだら、私の心臓は破裂するわ。ああ、あんな危ない所には二度と行かないと約束して」
「用心する。でも船長を見捨てられない。財宝は見つけるよ。見つけたら僕のもっと大切なキミと分けよう」
こう言いながら、ハイジを引き寄せてオリーブ色のほほにキスした。
ハイジは意味が分かったが、何も聞かなかった。楽しい日々が過ぎ、ハロルドが再び元気になった。二人はバルコニーの陰でのんびり過ごし、昔話を教え合った。いつの時代どの言語でもおなじみだ。
ハイジはハロルドの胸に体を寄せ、腰を抱かれ、南国の情熱にまかせてキスした。愛が苦しいかのよう。将来を語り合い、誰にも、そうバラドスにも邪魔されず気づかれなかった。
監視尾行するのはこの男だけだ。ハロルドの成功を呪い、ハイジの軽蔑を苦々しく思っているけど、バラドスもあの女が好きだし、機が熟したら仕返しをしてやると誓った。
ハイジが繰り返し言った。
「バラドスに気をつけて。あなたが潜る時は私も立ち会って悪さをしないか見張ります。皆さん同様に装置は分かりますし、忠実な味方のオブレディと一緒に悪事を見張ります」
ハロルドが慎重に言った。
「絶対にやらないよ。疑い過ぎだよ」
恋の戯れは楽しかったけど、船長は気に食わず、仕事に戻れとハロルドに命じて、いやおうなく中断させた。ある朝、船長が邸宅へ来て、人手が足らないけれども、沈島を引き上げる重要な局面だと説明した。
ハイジの願いもむなしく、ハロルドが答えた。
「準備できていますけど、そんなに急ぐことはないでしょう。何をなさったのですか」
海岸へ降りながら船長がすべてを説明した。ハイジとドン・ザルバ総督もついて来た。総督は重大作業が行われると聞き、見学を決め込んだ。船長が言った。
「わしは沈島の溶岩を目一杯排除した。これ以上深掘りしたら、地殻を破壊しかねないし、もしかしたら元の地殻は思ったより高い位置かもしれない。わしの計算によれば、沈島はもう浮くはずだし、浮かばぬ理由は考え付かん。ただし、下層にくっついておらず、少しも埋もれていないことが条件だ。周囲の端には砂地が現れ、サンゴ礁も少々露出しておる。実際、健康な歯肉に、大きな中空歯根を差したような状態だ。わしの考えは、海底を這ってドロマイト弾をたっぷり詰め込み、必要な衝撃を与えて、島を浮上させることじゃ」
「うまくいくとお考えですか。逆にサンゴ礁が粉々に吹き飛ばされませんか」
「それはない。前にも言ったように、ドロマイト弾は水平方向にしか作用しないから、言わば歯根だけを折り取るはずだ。一回爆破したら、沈島は確実に浮く」
どうやらハロルドがいない時に、ずいぶん作業したようだ。水中望遠鏡で沈島を見れば、ほとんど石が無くなり、わずか数十センチ残すのみで、本来のサンゴがあちこち露出しており、沈島の形がはっきりと見え、あたかも地図に刻まれているかのようだった。
探検隊にとって幸運にも、ドン・ザルバ総督が古い海図を発見しており、過失島、サンタナ島、散在小島、入り江や湾名など、極めて小さなものまで記されていた。初見のハロルドの為に、船長が海図を見せながら言った。
「大いに役立つぞ。暗号書にどくろと、右向きの矢印があっただろ。人を惑わせるように書かれておるが、手元の古図によれば、陸はロブスターのハサミ形をしており、その間は内陸湾だ。ハサミの先端の名称は地図上でそれぞれ三ツ星点、シュール点だ。暗号書を見ろ、突破口だぞ」
少し間を置いて、ハロルドが言った。
「そのようですね。こう読めます。『三ツ星点から乗って……』おそらくボートでしょう。『ボートに乗ってシュール点へ行け』こっちからあっちへ横断するということです。あとは今のところ意味不明です」
バラドスがひどく意気込んで言った。
「いいですか、水中望遠鏡で見ればはっきり、三ツ星点のサンゴ礁に、深い星型が三つ刻まれています。島が浮上したら、すぐ残りの暗号が探せます。もたもたしている場合じゃないでしょう」
目が輝き、顔が強欲と貪欲で震えていたので、ハイジが嫌悪して顔をそむけた。
早くやりたくて全員うずうずしていたが、午後が過ぎ去りつつあり、その前に降下の準備がもろもろあった。潜水艇に必要なすべてを装備し、ドロマイト三十グラムを積み、船長の計算では地上なら町を破壊する量だが、海中なら沈島を海底に釘づけしている歯根を取り除くに十分だ。探検者たちも必要なものを全部そろえた。そのあと、船長が最後の指示をした。
「ハロルド、科酸管の操作は分かるだろ。もし忘れたのなら、ラリが頼りになる。水中望遠鏡で見ていれば、ドロマイト弾が爆発するのはすぐ分かる。鋼線の下に用意してあるモータに大きなドロマイト薬莢をくっつけて爆破する。沈島の下にじかに置いて、海底で電池をつなぐと、ナイフでニンジンを切るように沈島をはがす事ができる。バラドス、行こうか」
バラドスが真っ青になって聞き返した。
「私ですか。私を連れて行くのですか」
「もちろんだ。ハロルドは病みあがりだし、ラリは問題外だ」
ラリがうれしくなって絶叫した。
「ありがてえ。あっしは悪口いわれて怒らないなんてねえですが、今回は許しまさあ、船長」
船長が憮然としてバラドスに向き直ると、バラドスはかたくなにうつ向き、全員から軽蔑のまなざしを受けた。皆に軽蔑されながらも、依然として動かなかった。
「できません、一緒に行けません」
船長は無駄な議論をする男じゃない。ハロルドに顔を向けると、ハイジが反対したけど、うなずいた。バラドスは依然として拒否して、屈辱にまみれた。ハロルドが、いの一番にハイジに話した。
「行くよ。前より危険はないし、これが最後だろう。ラリ、水着を着せてくれ、忘れ物が無いか見てくれ」
腰ぬけバラドスは悪態をつき、ラリは従い、ハイジは顔面蒼白になり、両手を握りしめた。ハイジは怖れ、女の本能で何か起こりそうと感じ、島が浮き上がったら、海底の二人はこのスペイン人のなすがままだと悟った。
だが、やり方はよく心得ている。忠実なオブレディもいるから、ここに留まって、監視しようと決めた。愛する人や船長に卑怯なことはさせない。
準備が整ったのを見て、船長が短く言った。
「これ以上待てん。潜水艇を下ろせ」
探検者が艇内に入り、今回は鋼線を伝い急降下し、海面からループを描いて降下しない。見物人たちが水中望遠鏡で降下の様子を見ている時、ハイジが不安な気持ちになってハッと気づけば、科酸が金属容器に一滴も流れて行かないじゃないか。
ラリに知らせて蒸留器に継ぎ足させると、ちょっと前に満杯にしたと言う。バラドスを見れば、探検者を熱心に見ている風を装っている。
ハイジが小声で言った。
「二度とやらないで。危な過ぎます」
バラドスが振り向いて、ニヤリ。
「何のことですか。私が何か…」
「分かっているくせに。バラドスさん。確信犯ですね。海底の人に危険だってことは私でもよく分かります。もしこんなことを繰り返したら、あなたがもっと危ないですよ。島には大勢の男どもがいます。もし私が一言いえば、犬ころのようにあなたを打ち殺しますよ、つベこべ言わない。私を怒らせたら怖いですよ」
バラドスはブツブツお詫びを言って立ち去り、ハロルドをこれまで以上に憎んだ。
一方、探検者達は無事に海底に着き、装備を取り出し、その中に配線と電池があり、爆破の為に持参したものであり、配線を持って砂地を横切り、行先は沈島の係留箇所、船長の言葉を借りれば、巨大な中空歯根を健康な歯肉に差したような場所だ。
海底の二人が足下を見れば、サンゴ礁が洞窟を作り、高さは十メートル、枝分かれしている。この薄暗い洞窟で、巨大な影が動くのが見え、時々醜いサメの鼻が突き出て、必殺のドロマイト弾をお見舞いすると、最新大砲を食らい、小魚のようにころりと死んだ。
見たところ、沈島の穴は大きな洞窟になっており、不規則につながっており、二人とも中に入ろうと思わなかった。船長が手話で告げた。
「こいつは予想しなかった。全部の歯根を切断するには沈島の中央部分にドロマイトをしかけねばならんが、その為には一人がそこへ運んで、つまり一キロメートル歩いて往復しなければならない。かのロブスター紳士に間近に出くわす格好の機会だぞ。開けた所なら何も怖くないが」
やっかいなことになった。解決にはどうやら隠獣に出会う危険を冒す以外、手がなさそうだ。最終的に二人並んで入ろうと決まり、大量に持って来たドロマイト弾を左右前面の数メートルごとにぶっ放した。
用心が必要なようだ。だって進むにつれ想像も出来ない奇妙な怪物がぞろぞろ広い所に逃げてきたからだ。ロブスターはハロルドを瀕死にしたものより少し小さいだけだし、水蛇や、もっと奇妙なものや、ワニの仲間など計り知れない巨大なイモリのようだ。そいつらが危険を感じて出て来た。
十五分後、船長の望む所まで侵入し、ドロマイトを水平な岩台に置いて、電線を取り付け、這って戻り、再び柔らかい光の海中に立った。
「うまくやりましたね。僕は神経質じゃないから、後日、侵入場所と危険場所を知りたいですね。船長は今までこんな異常生物をわんさか見たことがありますか」
ハロルドの指差す方向から、奇妙な海洋生物が一匹ずつ二人の所へ這い出してきた。だが船長は電池に夢中だったので、周りの異変に気がつかなかった。
「爆破する。よく見ろ、今まで見たこともない奇妙なことが起こるぞ。さあ、爆破の威力を見よ」
船長がボタンを押すと、魔法のように沈島が揺れて震え痙攣し、ゆっくりとおごそかに頭上の暗黒の海へ、雲のように浮かんで行った。船長がハロルドの腕を掴み、後へ引いて、叫んだ。
「あっ、しまった、神よ、お助けを。取り残された」
足元に明かりがピカッ、最初は小さかったがだんだん大きくなり、目がくらんだ。あたかも巨大な力で押されたかのように、文字通り光りの方へ引き寄せられ、互いにしがみつき、猛烈な力でぐるぐる回された。
直後、膨大な水と共に、真っ逆さまに空洞へ突っ込み、海底の割れ目を通る様は、巨大筒先から海水を噴出するかのようだった。