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でもしばらく繰り返してやっているうち、だんだんその槌打つ拍子にある種の調子が加わりだした。
カチ、カカカカ、カチン。
カ、カ、カ、カチン。
カチカチカチカチン……。
しかも、それは何か、どこかでたしかにいくたびか聞いたことのある、節面白い調子だった。
カ、カ、カ、カ、カチン。
カチカチカチンチン……ときた。
さらに何べんも繰り返しているうち、
ア、アー、そうか――
はじめて次郎吉は肯いた。破顔一笑せずにはいられなかった。
広小路の本牧亭や神田の小柳や今川橋の染川で、親爺に連れていって貰って聴いたことのある講釈師の修羅場。そのヒラバの張扇の入れ方だったっけ、今この自分の槌の入れようは。
いいなあヒラバ、勇ましくって。
思わずゴクリと生唾を飲み干すと次郎吉は、表に人通りのないのを幸いに、改めて小声で石の空板を叩きはじめた。
カチン――まず咳一咳、ひとつ叩いた、こう講釈師らしく胸を反らして。
「さてもその日の謙信は……」
やがて滔々と読みはじめた。大好きな「川中島合戦」の一節だった。元よりうろおぼえの口から出任せではあったけれど。
カチン、カチン。
「……紺糸龍胴の鎧、白木綿に梵字を認めたる行者衣を鎧の上に投げかけられ、三尺の青竹を手元を直に切り……」
カチカチカチン。
「尖頭斜に削ぎて采配の代りに持たれ、天下開けて、十九刎の兜の内に行者頭巾に鉢銑入ったるを頭に頂き……」
カチリ、カチカチン。
「……越後国頸城郡林泉寺村真日山林泉寺に馬頭観音と祭られたる法性月毛の十寸六寸にあまる名馬に打ち跨り……」
カチカチカチカチン。
一段と声張り上げて、
「黒鞣革の手綱を山形に通して後方に廻して鎧の上帯に結びつけ、しずしずと乗り出したり……」
カカカカカカカチン。
いつか石の稽古なんかそっちのけに、ここを先途と暁闇の川中島さして上杉謙信入道を、堂々と進軍させていた。声ももう小声ではなく、いつしか仕事場の低い天井へ破れるような大音になっていた。
……しかも両軍の戦いがたけなわとなると、修羅場読む次郎吉の声もいよいよ大きく、汗ばむほどに握りしめた手の槌は前後左右へ乱れ飛んだり矣。
カチカチカチカチカカチカチ。
「謙信タタタタと馬を二十間あまり乗り下げて置き、再び馬に勢いつけて」
カチン、カチリカチカチ。
「パッパッパと進み寄り、長光の太刀にてエイとばかりに切ってかかる」
カチ、カチャン。
「心得たりと武田左典廐信繁、これを受け止めた、また馬を乗り下げた謙信が馬勢を付けて進みきたりヤッ、ヤッ、ヤーッ」
カチャカチャ、カチャーン。
とたんにハッキリ手応えあってゲソッと何かの剥がれ落ちるような音響がした。とたんにツツツツ薄白いものが目の前をよぎって、ブスッと地べたへもろにささった。
「……何だろう……」
何気なく振り返ってみて、
「……」
あまりの驚きで声がでなかった。自分で自分の顔の血の、サーッといっぺんに引いていくことが分った。
ト、とんでもないことをしてしまった。
いまのいまも兄弟子の秀どんがでかけていった明神の万定さん。そこの大切な御註文で、石燈籠といっしょにお届けしなければならない石の狐の片耳を、なんと落っことしてしまったのだ。
「……」
親方は昨夜夜明かしでこいつを彫り上げ、大そう出来がよかったといって上機嫌で最前お歳暮にでていったものを。本能的に地べたへささったその耳を取り上げ、泥を払って元の狐の耳のところへくっつけてみたが、くっつこうはずもなかった。
すぐまたポロリと落ちて元の土の上へ。術もなく傷ついた青白い耳はころがってしまった。
「とんだ……とんだことに……」
恐らくその狐の耳のいろの何十倍も青白くなっていたろう、あるいは紙のように白く白くなり果ててしまっていたかもしれない顔を力なく上げると次郎吉は、未練らしく、もういっぺんまたその狐の片耳を手に取り上げた。そうして無意味に手の中であっちへやったり、こっちへやったりしていた。
どうしよう。
ああ、どうしよう。
でも、今更どう足掻いたとてもがいたとて、しょせんがどういい知恵がでるでもなかった。
おもえばおもうほど、考えれば考えるほど、ゆく手が真暗闇になってしまった。しかもあとからあとから目の前にひろがってくる不安の常闇はまるでとこしなへの日蝕皆既のよう絶えずいや増してゆくばかりだった、まるで烏賊の吹きいだすあの墨のように。
仕方がねえもうこりゃ、どうにもこうにも……。
いいながらもまだ涙をいっぱい溜めた目で、力なく手の中の狐の耳を抱きしめていたが、
「堪忍しとくんなさい親方、お神さん……」
誰もいない奥のほうヘシッカリ両手を合わせると、
「ねえ、ねえ、ごめんなさいほんとに」
心からまたもういっぺんこういって、そのまんまプーイと表へ。後をも見ずに逃げだしてしまった。
そのあと空しく薄暗い土間へ放りだされている石の狐の耳ひとつ。
……表はいつか数え日の暮れがたの暗い氷雨が音立ててさびしくふりだしていた。
その晩おそく石屋から火の玉のようになって談じ込まれた湯島の家では、圓太郎夫婦が平あやまりにあやまったのち、圓太郎がお座敷三つ分稼いだお銭を五、六日して先方へ届け、やっと勘弁して貰った。
「仕様がねえおたんこ茄子だ」
忌々しそうに圓太郎は呟いた。だからいっそのこと芸人にしちまえば……とつい口まで出かかってくるのを、危うく圓太郎は耐えていた。
あくる年の二月、今度は池の端仲町の山城屋という両替屋へ奉公にやられた。
いろいろさまざまのお金の山の中へ身を置かれて、お金の誘惑はプツリともなかったが、端なお鳥目の誘惑の方はしきりだった。といって何も持ちだして買い食いをしようの、悪遊びをしようのというのじゃない。今年十二になる坊っちゃんの書きかけて止めにしてしまった手習草紙があるとすぐそれをもらっては四つに切った。また八つに切った。その紙の中へお店の小銭を適当に掴みだすと、手際よくクルクルと包んではすぐ封じ目を糊で貼った。
そしてその上へ、下座さんと書いた。
圓之助様と書くのもあった。
橘太郎様と書くのもいた。
圓八様ともまた書いた。
さらに勇八様と、圓助様と――みんな落語家時代の同じ楽屋の人たちの芸名だった。
また小圓太様と自分で自分の芸名を書いたものもあった。ほかの人たちのより少し余分のおあしが包まれていた、自分のほうが弟弟子なのに。
一番大きく重い紙包みには、圓太郎御師様と特別に筆太に書かれてあった。即ち、自分の父親の分だった。
くどくもいうとおり次郎吉、決してこれらのお銭をいちいち自分のものにしようのどうしようというのじゃなかったが、ただ、青黒く燻んだお銭を見ると、本能的に小さな紙包みをこしらえてはお銭を包み、その上へ連中の名前があれこれと書きたくなるのだった。
何人分かのを残らず書き上げるともうそれですっかり気がすんでしまう次郎吉は、ことごとくそれらを元の帳場格子の中の銭箱へと放り込んで顧みなかった。
毎晩々々こんなことがつづいた。
十何日目かには金箱の中いっぱい、それぞれの名をしたためた落語家の給金包み――即ちおわりで盛り上がってしまっていた。
「な、何だい、こりゃ」
急に小銭の入用があって開けてみた大番頭さんが、アッと吃驚した。
両替屋稼業が店中の小銭を片ッ端から紙片へ包まれてしまっては始末にわるい、いわんやその上にビラ字擬いで落語家の名がひとつひとつ記されているにおいておや。
「次郎吉の仕業だろう、何だってこんな下らないものをこさえるんだ」
さんざん小っぴどく叱られて恐れ入り、どうやらその晩だけは許されたが、また二、三日して小銭の出し入れを見ていると酒好きが酒屋の前を通ったようにまた次郎吉は、心のどこかがしきりにむず痒くなってきた。しらずしらずにまたお草紙のお古を小さく切り、しらずしらずにまたその中へお銭を包み、しらずしらずにまた落語家の名前を書き、しらずしらずにまたその中の一番重いのへ父圓太郎の名をその次の少し重いのへ自分の芸名を書いては、パタンと金箱の中へ放り込んではしまうことが仕方がなかった。
そのたびみつかっては叱られ、またみつかってはまた叱られ、こうしたことが七日ほどのうちに三度も重なっただろうか、とうとうある日、父親の圓太郎が呼びつけられた。
「エーあの、何ともはや御勘弁を。忰めがあのどんな不都合を働きましたんでござんしょうか。ヘイ、ヘイ、申し訳ござんせんまことに」
もう花もほころびようぽかぽかとした午前、性急で汗っかきの圓太郎は丸顔いっぱいの汗をしきりにこぼれ松葉の手拭で拭きながら、薄暗い山城屋の店先へ腰を下ろした、心の中ではヤレヤレ野郎また何か仕出かしやがったなと店先にちょこなんとかしこまっている次郎吉のほうをチラチラ情なく見やりながら。
「見ておくれ、これ」
苦り切って糸瓜ほど長い黒い顔をした大番頭さんが、金箱のへりへ手を掛け少し傾けるようにして中を見せた。
表の反射で薄明るい金箱の中にはいくつもいくつも何か字の書いてある黒く汚れた紙包みが押し合い、へし合っていた。
「な、何でござんしょう、それ」
解せないもののように圓太郎は丸々とした頸を傾げた。
「お前さん方のほうのお給金、ワリとか何とかいうんだそうだね、その給金なのだこれ、この人がこしらえた……」
「ゲッ」
急にサーッと圓太郎顔いろを変えたかとおもうと、
「ト、とんでもねえ。……じゃじゃ番頭さん、コ、この餓鬼ァお店のお宝を給金にして、ダ、誰かあっしどもの仲間にでも運んでやってたんで」
いいながらツツーと猿臂を伸ばしてちぢかまっている次郎吉の首根っ子をあわや掴まえようとした。
「ま、待った、師匠」
あわてて番頭、遮ると、
「待って……まあ待ってったら圓太郎さん」
「う、うっちゃっといておくんなせえ、いいえこんな……こんな盗人野郎。そ、そこの不忍の池へ叩ッ込んで、む、貉の餌食にでもしてやらなきゃ」
「いい加減におし圓太郎さんてば」
今度はあやうくふきだしそうにさえなりながら番頭、
「人……。不忍の池の中に貉がいるかえ」
「ア、違えねえ、狸だ」
「狸もいないよ水ン中にゃ」
「じゃ何でしょう」
「私に訊く奴がありますかえ」
呆れ返って、
「いおうならお前さんそれも獺だろう」
「ウ、それだ、ソ、その獺の餌食にしなけりゃ、こ、この私の……胸が、胸が……」
またもや次郎吉のほうへのしかかっていこうとする腕へ、ぶら下がるようにつかまって、
「いやだてばそう早合点をしちまっちゃ、お前さん。いいえ……いいえさ、何もそんな大それた、この子がお店のお銭へ手をかけたっていうのじゃない」
「だ、だって現に……現にこの通り番頭さん」
「だからさ、ねえ、だから話はおしまいまで聞いて貰わなけりゃ。いいえ、くどくもいうとおりこの子は決してうちのお宝を泥棒をしたんでも何でもない、ただ寄るとたかるとお店のお銭を、お給金かい、つまりそのお給金の形にこしらえちまっちゃ喜んでるんだ。金箱を開けてみるとあるったけのお銭がみんな紙に包んでお給金になってる。それじゃお前さん、お客様がお見えになってイザ御両替っていうとき、いちいち紙を破いたり何かと手がかかってしまって仕方がない。何べん叱っても叱ってもまたやってしまうんだ。だからそんなお前さん、手のかかる子供を私のところじゃ、とてもお預りしてはとこう……」
「……」
話の途中からだんだん柔和な顔付きを取り戻していっていた圓太郎が、やがてはそもそも嬉し可笑しそうにゲラゲラゲラゲラ笑いだすと、
「エ、そ、そいじゃ……こ、こいつがお店のお銭をしょっちゅうお給金にこしらえちゃ、ただ楽しんでいるってこういうわけなんで。じゃ、つまり盗るんでもない、ただこうこしれえちゃ楽しんでるだけ……こいつァ、こいつァ……」
大きなお腹を両手で押さえるようにして、
「フッハッハッハ、こいつァいいや」
「いやだな。この人は。お前さんがそうそこで喜んでしまっちゃ」