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困ったように番頭はいったが、
「だって……だって、いい話ですよこいつァ、番頭さん。さすがに……さすがに次郎公はあっしの忰だ。ウム、いい、じつにいい話だ」
「ちっともいい話じゃありゃしない」
いよいよ番頭困ってしまって、
「見ておくんなさい、何しろその悪戯を」
再び金箱を傾けるようにして突き付けると、未だ満面に笑をたたえながら圓太郎、器用にこしらえられている給金の包みを手に取って、ひとつひとつ感心したように眺めていたが、やがてズーッと自分の前の畳の上へ並べてみて尚もしきりに眺め廻しているうち、にわかに何か不審でならないもののようにキョトンとした目をパチパチしだした、とおもううち大発見でもしたかのようにやがてその目はサッと喜びにかがやきだした、ばかりかしばらく大きな掌の上へのせて重みを計っていた「圓太郎御師様」と書いた分と「小圓太様」と書いた分とを世にも恭しく押し頂いて、
「偉い!」
吃驚するような大きな声でこういうと、
「ウーム、うそにもせよ俺の分と手前の分だけ他の人よりいい給金をこしらえやがるなんて、ああ人間はこういきてえ。偉え、次郎公偉え偉え、たしかに偉えぞ、オーイ番頭さん」
しゃくるようにすぐ目の前の黒い長い顔を見上げて、
「ねえ、もし、うちの次郎公は不都合どころか、日本一の親孝行者ですぜ」
……そうものが分らなくなっちゃ始末がわるい。とうとう今度は番頭がキュッと両手でお腹をかかえて、転げるようにいつ迄もいつ迄も笑いだした。同時に最前から我慢していた中番頭も手代も小僧たちも、果ては次郎吉までがいっしょになってゲラゲラゲラゲラ笑いだした。
早いお花見の目鬘を売る爺さんが一人、不思議そうに店の中を覗き込みながら通り過ぎていった。
今度こそ圓太郎は次郎吉を元の小圓太にさせてやりたくてならなかったが、やっぱり手厳しく女房に反対された。玄正の反対もまた絶対だった。
拠所なく西黒門町の青物屋八百春へ奉公にだしてやった。
二日……三日……四日。
何事もなかった。
五日目の夕方になると、だしぬけに寝た間も忘れない寄席の一番太鼓がドロドロドロンとすぐ八百春の後のほうで鳴りはじめた。つづいて大太鼓小太鼓入りみだれて賑やかに二番太鼓が囃されてきた。
「親方あれは」
慈姑の泥を洗っていた手をやめて次郎吉は訊ねた。
「ウム。裏の牡丹亭って貸席だ。ときどき三日か五日、チャチな寄席に早替りする。今夜は何か素人の落語家がかかるらしい」
神棚へお燈明を上げていた親方が後向きのまんま、いった。そういううちも、四丁目の三味線太鼓早間に賑々しく地囃子が、水銀いろをした暮春の夕闇をかき乱すように聞こえてくる。
「……」
呼吸を奪われてしまいそうな物恋しさだった。物悲しさだった、甘い寄りどころない遣瀬なさでもまたあった。烈しくそれは次郎吉の五体を揺ってきた。否、五体の隅々果て果てまでを、切なく悩ましく揺り動かしてきた。極度のやる方なさに苛まれながら、しかも一面そこには不思議と恍惚たる快感が伴われていた。泣きじゃくりながら、シッカリ抱擁し合っている恋びと同士――それにも似ているかもしれなかった、あたかもこのいまの心持は。
絶えて久しい心のふるさと寄席への郷愁――全身全魂が、まるで南蛮渡りの秘薬の匂いでも嗅がされたよう、うれしく、悲しく、ただぼんやりと憑かれたように媚れてきてしまっていた。
「……」
ボーッと夢見心地に包まれながら次郎吉は、そのままフラフラフラフラ薄闇の彼方へ迷いでていった。夢中で黒塀について曲った。
「シャーイ……シャーイ……」
赤と青と提灯の灯が揺れ、拙い字で天狗連らしいちぐはぐな落語家の名前が、汚れた庵看板の中にでかでかと書かれてあった。まだお客は一人もつっかけていないらしかった。
でも提灯の灯も庵の中の芸人の名前も何にも次郎吉には見えなかった。ただシャーイシャーイというあの聞き馴れた声ばかりが大きくなつかしく聞こえてきた。恋びとの声にも似て、それはキューッと胸許を嬉しく苦しく掻きみだし、また締めつけてきた。
「……」
黙ってスーッと入っていった。そのまんま正面にひろがっている大きな段梯子をカタカタ上がっていこうとした。
「オ、オイ兄ちゃん下駄々々、下駄ッたら、困るよ兄ちゃん、そんな下駄のまんまで上がられちゃ」
背中からけたたましい下足番の声が追い駈けてきた。
「……」
やっぱり黙ったまんま後戻りして黙って下駄をぬいだ。そのまんま黙って上がっていこうとした。
「オ、オイ木戸銭々々々」
またけたたましい下足番の声が追い駈けてきた。
「……」
三たび黙って後戻りすると、シッカリ両手に掴んでいたものを、ポンと下足番の前へ突き出してひらいた。
コロコロコロ。
異様な青黄いものがたちまち土間へころがった。
慈姑だった。最前の。
今度かえってくるようだったら、もう阿母さんはお前を家へ置きません、いいえ阿父さんが何とおっしゃっても。頼むからお前辛抱しておくれね。
泣いて、こう母親に意見されて、その次の日、次郎吉は練塀小路の肴屋魚鉄へ奉公にやられた。四十ちかいガチャ鉄と仇名される赤ら顔で大男のそこの主人は、三度の飯より喧嘩が好きで、一日にいっぺん往来で撲り合いをしないとお飯が美味しくたべられない男だった。左右の腕へ上り龍下り龍の刺青をした見るから喧嘩早そうな見てくれで、どこでも喧嘩をしなかったときは血が騒いでならないとて手鉤を持ってきては商売物の大鮪や大平目の胴体へ、所嫌わず滅多やたらにそいつをぶち込んだ。何条もって耐るべき大切の商売物、肉は崩れ、骨は飛び、一瞬にしてめちゃめちゃになってしまうのだったが、こうでもしなけりゃ俺夜っぴて寝られねえものと平気で空嘯いていた。
それほどの乱暴な男だったから、二十代の血気盛りの奉公人たちがみんな訳もなくチリチリしていた。そこへ次郎吉は奉公にやられたのだった。選りに選ってここなら大丈夫と、内々、母親が主人の気ッ風を探っておいてよこしたのだろう、さすがに次郎吉も今度ばかりは大人しく辛抱した。いや、せざるを得なかった。目のあたり見るガチャ鉄の蛮勇には歯が立たず、強そうな朋輩たちがでろれん祭文のような鍛えた塩辛声でガチャ鉄から頭ごなしに怒鳴り付けられているのを見ると、いっぺんでピリピリふるえ上がってしまったのだった。
……今度ばかりは寄席のことなどおもいだしている暇など許されなかった。黙々と、身を粉にして働いた。ひたすらにただひたすらに牛馬のように働いているよりなかった、朝早の買出しの手伝いに、店の細々とした出入りに。
ひと月……ふた月……いつか祭月がきのうと過ぎ、暦の上の秋が立った。遠く見える明神さまの大銀杏がそろそろ黄いろいものを見せはじめてきた。
「やっとお前さん、次郎吉今度は辛抱したようだよ、いいところへやった、やっぱり親方がやかましいからだねえ。どんなにか玄正も喜ぶだろう、きっと、きっとあの子、今度はものになるよ」
ある晩嬉しそうにおすみがこういって晩酌のお銚子を取り上げたが、
「ウム……ウム……」
接穂なく肯いているばかりの圓太郎だった。口へ運ぶ盃のお酒が苦そうだった。で、一、二杯、口にふくんですぐ下へ置いてしまった。柄にもなく神妙な顔をして寂しくはしごの下の早いに聴き入っていた。
……では今度こそ次郎吉は辛抱したのだろうか、母親の喜ぶように。
否――否――どういたしまして――。
親方恐しさの、ただジーッと辛抱しているより他に手がなくて、不本意ながら住み付いていたばかりなのだ。そのほかの何がどうあるものだろう。
日ごろ人情噺や講釈で聴いている侠気な江戸っ子の肴屋気質は随分嬉しいものとして、イザ現実にこういう人にぶつかってみるとやっぱり生粋の芸人暮らしとはてんからくい違うものがあった。講釈で大好きなあの一心太助も実録ではしょせんがこうか、宵越の金持たぬが自慢の江戸っ子の肴屋さんとはいえ、心の奥のまた奥では儲かる、儲からないを大専とする人たち、つまりいってみればハッキリとした「商人」だった。
こちらは元々芸が好きなればこそなった芸人でいい呼吸にその芸がやれ、そこにいるだけのお客様がドーッと喜んでくれたら、その嬉しさは天にも上るもの以上で、あべこべにこっちの懐中からいくらか出してバラまいてやったとて毫末も差し支えないというような嬉しい気ッ風が骨身にまで侵み込んでしまっている次郎吉のようなものにとって、この儲かるとか、儲からないとかということは自分にとっては全くあまりにも風馬牛過ぎる「世界」だった。
その自分にとって血でも肉でも骨でもない「世界」へと、いま次郎吉はしきりと進軍を強いられている。進軍どころかぐんぐん強行軍をつづけられている。
やがての駄目は、必定だった。
ただいつの日それがやってくるか、早いか、晩いか、ただ現在のところでは次郎吉はガチャ鉄親方恐しさのみで、セッセと働いているというだけのことだった。
つまりもうひとついってみれば青い美しい水の中でこそとこしなえに生き永らうべき「自分」という動物を、無理から陸へ引っ張り上げて、ここを先途と働かせている現在だった。
これはいつか――いつかとんでもないことになる、ならずにはいない。
ああ俺、いまに鉄親方の手鉤をこの横ッ腹へぶち込まれるかもしれない。
つくづくその日が恐しかった。その日の景色をおもって次郎吉は、ひたすら自分の心臓を真っ青にしていた。
さすがに手鉤はぶち込まれなかったが、憂えていた日は思いのほか早くやってきた。心に染まない仕事ばかり、朝に晩に何ヶ月というもの精魂を傾けていたせいか、次郎吉の胸の中にはいつしかラムネの玉のようなしこりができはじめた。そうして一日一日と膨らんでいった。やがてそれが身体全体くらいの大きさにといえば話が嘘になる、宝珠の玉くらいの大きさになって心をグイグイ締め付けてきたのだった。お月見の前の晩あたりからわけの分らない熱がではじめて、ドッと次郎吉は寝込んでしまった。
枕も上がらない大病。幾日経ってもよくなっていく気配がなかった。ばかりか、だんだん悪くなっていった。
気荒のガチャ鉄も病人に打ち込む手鉤はなかった。ばかりかたいへん心配してある日、釣台で次郎吉を湯島までかえしてよこした。
「どうしてそうお前は駄目なのじゃ、今度は辛抱してくれるかとおもえばまたこのように……。古えより一人出家をすれば九族天に生ずるというが、その九族に憂いのみ抱かすればのう、少しはお前後生のほども恐しいとは……」
翌日の午下り、話を聞いて駈けつけてきた玄正は、薄汚れた鼠いろの衣の袖をかき合わせながら秋晴れの天神様の女坂のクッキリと見える明るい裏二階に寝かされている次郎吉の枕許にピタリと坐って太い眉をしかめた。ギロッとした目が愁いを含めて、よほどの高熱なのだろう杏いろに上気している次郎吉の双の頬を、心許なげにみつめていた。天神さまの神楽囃子がのどかにのどかに聞こえてきている。
「……」
ややしばらく仰向けにジーッと目を閉じたまま義兄の言葉に聞き入っていた次郎吉は、やがてクリッとした両眼を見ひらくと、
「つまらないんでさ。その日その日が私ァつまらなくてつまらなくて仕方がないんでさ。だからこんな病気になんかなっちまうんでさあ」
悲しく不貞腐れてといおうにはあまりにもキッパリと、
「エエいまだから皆正直にいっちまいますよ、ねえ兄さん。ほんとにこればかりはいくら兄さんになぐられても叩かれてもどうにもならないことなんだけれど、この私という人間は好きなことのほか一切何もかもしたくないんでさ。またいくらやったって無駄だとおもうんだ。ねえ、ねえ、あなたもそうおもいませんかね、ほんとに」
いいながらもさらにまた一段とその決意を深めていくような様子だった。
「……ウーム……」
あまりにもほんとうの心の底を隠すところなく告げられて、さすがに玄正は一瞬、言句に詰まってしまった。
「……ウーム……」
もういっぺんまた唸って、
「ではお前……」