一
脇田一松斎道場は、森閑としていた。
丁度、昼間の稽古が済んで、夜稽古は、まだ始まらぬのであろう。
雪之丞が訪うと、直ぐに、書斎に通された。武芸者の居間に似合わず、三方は本箱で一杯で、床には、高雅、狩野派の山水なぞが掛けられている。
それを背にして、一松斎は、桐の机に坐っていた。年の頃は、四十前後――。頭髪を打っ返しにして、鼠紬の小袖、茶がかった袴をはいて、しずかに坐ったところは、少しも武張ったところがない。殊更、その風貌は、眉が美しく、鼻梁が通り、口元が優しく緊っているので、どちらかというと、業態には応わしからぬ位、みやびてさえ見える。
一松斎は、敷居外にひれ伏した雪之丞を、眺めると、微笑を含んで、
「そなたが、江戸に下られた噂は、瓦版でも読んでいた。いやもう、大変な評判で、嬉しく思う。さあこれへ進まれるがよい」
雪之丞は、燭台の光に、半面を照されている旧師の顔を、なつかし気に仰いで、一礼すると、机の前ににじり寄った。
「一別以来、もう四年だ。日頃から、逢いとう思っていたが――」
「わたくしも、先生のお姿を一日とて、思い浮べ上げぬことはござりませんでしたが――。でも、今度は滞りなく江戸下りが出来まして、お目にかかられ、かように嬉しいことはござりませぬ。それに、ただ今道すがら、八幡さまにお詣りいたしますと、孤軒老師にはからず御対面。文武の両師にいちどきにお目にかかれましたも、神さまのお引き合せと、嬉しゅうてなりませぬ」
「ほお、孤軒先生に?」
と、一松斎はいくらか、吃驚したように、
「それは珍しい。かのお方も、御出府なされていようとは、存じよらなかった」
「何しろ八幡さま御境内で、売卜をなされておりますようで、すっかり、驚かされてしまいました」
「相変らず、意表に出でた暮しをなされているな!」
一松斎は笑って、
「あれ程のお方になると、並の生活は、なさりかねると見えるの」
そう言う彼も、依然として、独身生活を続けていると見えて、茶菓をはこんで来るのも、内弟子らしい少年だった。
「拙者の方は、例によって、竹刀ばかり持ち続けているが、どうもまだ、山林に隠れる程の覚悟も決まらぬよ。慰めは酒だ。そう申せば、只今は、灘の上酒を頂いたそうで、何よりだ」
それから一松斎は、満更、芸道にも昏からぬ言葉で、江戸顔見世の狂言のことなど、訊ねるのだったが、ふと、やや鋭い、しかし、静かさを失わぬ目つきで、雪之丞を見詰めると、
「よい折だ。今夜は、そなたに、拙者としてまず第一番の、贈り物をして遣わそう」
雪之丞は、師を見詰めた。
「外でもないが、拙者幼年の頃より、独立自発、心肝を砕いて、どうやら編み出した流儀の、奥義を譲ろう」
雪之丞は、一松斎の言葉を聴くと、のけ反るばかりに驚愕した。
「え? わたくしに、御奥義を、お譲り下されると仰有るので?」
一松斎は、微笑していた。
「如何にも、その時がまいったようだ」