Kembali
雪之丞変化
Table of Contents
雪之丞変化
三上於菟吉
Reading Settings
Ukuran font
18px
Tema
Terang
Gelap
Sepia
Pelindung mata
Spasi baris
Mode baca
Terjemahan Pagera AI
Asli Public Domain
Chapter 10 of 280

一

脇田一松斎道場は、森閑としていた。

丁度、昼間の稽古が済んで、夜稽古は、まだ始まらぬのであろう。

雪之丞が訪うと、直ぐに、書斎に通された。武芸者の居間に似合わず、三方は本箱で一杯で、床には、高雅、狩野派の山水なぞが掛けられている。

それを背にして、一松斎は、桐の机に坐っていた。年の頃は、四十前後――。頭髪を打っ返しにして、鼠紬の小袖、茶がかった袴をはいて、しずかに坐ったところは、少しも武張ったところがない。殊更、その風貌は、眉が美しく、鼻梁が通り、口元が優しく緊っているので、どちらかというと、業態には応わしからぬ位、みやびてさえ見える。

一松斎は、敷居外にひれ伏した雪之丞を、眺めると、微笑を含んで、

「そなたが、江戸に下られた噂は、瓦版でも読んでいた。いやもう、大変な評判で、嬉しく思う。さあこれへ進まれるがよい」

雪之丞は、燭台の光に、半面を照されている旧師の顔を、なつかし気に仰いで、一礼すると、机の前ににじり寄った。

「一別以来、もう四年だ。日頃から、逢いとう思っていたが――」

「わたくしも、先生のお姿を一日とて、思い浮べ上げぬことはござりませんでしたが――。でも、今度は滞りなく江戸下りが出来まして、お目にかかられ、かように嬉しいことはござりませぬ。それに、ただ今道すがら、八幡さまにお詣りいたしますと、孤軒老師にはからず御対面。文武の両師にいちどきにお目にかかれましたも、神さまのお引き合せと、嬉しゅうてなりませぬ」

「ほお、孤軒先生に?」

と、一松斎はいくらか、吃驚したように、

「それは珍しい。かのお方も、御出府なされていようとは、存じよらなかった」

「何しろ八幡さま御境内で、売卜をなされておりますようで、すっかり、驚かされてしまいました」

「相変らず、意表に出でた暮しをなされているな!」

一松斎は笑って、

「あれ程のお方になると、並の生活は、なさりかねると見えるの」

そう言う彼も、依然として、独身生活を続けていると見えて、茶菓をはこんで来るのも、内弟子らしい少年だった。

「拙者の方は、例によって、竹刀ばかり持ち続けているが、どうもまだ、山林に隠れる程の覚悟も決まらぬよ。慰めは酒だ。そう申せば、只今は、灘の上酒を頂いたそうで、何よりだ」

それから一松斎は、満更、芸道にも昏からぬ言葉で、江戸顔見世の狂言のことなど、訊ねるのだったが、ふと、やや鋭い、しかし、静かさを失わぬ目つきで、雪之丞を見詰めると、

「よい折だ。今夜は、そなたに、拙者としてまず第一番の、贈り物をして遣わそう」

雪之丞は、師を見詰めた。

「外でもないが、拙者幼年の頃より、独立自発、心肝を砕いて、どうやら編み出した流儀の、奥義を譲ろう」

雪之丞は、一松斎の言葉を聴くと、のけ反るばかりに驚愕した。

「え? わたくしに、御奥義を、お譲り下されると仰有るので?」

一松斎は、微笑していた。

「如何にも、その時がまいったようだ」

Chapter 10 of 280
|