(三)虎と人や他の獣との関係
『大英類典』第十一版巻二十六に「牝虎は二ないし五、六児を一度に産むが三疋が普通だ、その子を愛する事甚だしく最も注意してこれを守る、生れて二年目に早自分で餌を求める、それまで母と一緒に居る、その間母虎の性殊に兇暴で子が乳離れする頃より鹿犢豕等を搏って見せその法を教ゆ、この際牝虎の猛勢惨酷その極に達する、多分子を激して手練を積ましむるためだろう、さて十分殺獲術を究めた上ならでは子と離れぬ、若い虎は老虎より迥かに物多く殺し一度に三、四牛を殺す事あり、老虎は一度に一つより多く殺す事稀で、それも三、四また七日に一度だ」とある。虎が一たび人を啖うとその癖が付く。インドのニルゲリ山間などは虎はあれど人を殺す事至って稀だが家に飼った水牛を害する事しきりだ(リウァース著『トダ人族篇』四三二頁)。このほど死んだワレス氏が六十年前シンガポールに寓した時常に近所を彷徨く虎若干ありて、新開の阿仙薬園に働く支那人を平均日に一人ずつ殺したと『巫来群島篇』第二章に言われた。十七世紀に支那に宣教したナヴワレッテがキリスト教を奉ずる支那人に聞いたは、その頃百また二百虎群を成して広東より海関に至る、旅人百五十人以上隊を組むにあらざれば旅し得ず、これがため僅々数年間に五万人死せりとは大層な話ながらかかる話の行わるるを見て如何に虎害が支那に繁かりしかを察せらるる。また支那の書に馬虎を載す、全く馬同様だが鱗を被り虎の爪あり、性殺を好む、春日川より出でて人畜を捉うと。欧人湖南にこの獣ありと聞き往って精しく捜せしも見出さず全然法螺話だろうという(アストレイ『新編紀行航記全集』巻四、頁三一三)。これは『水経註』に見えた水虎の話を西人が誤聞したのでないか。『本草綱目』虫部や『和漢三才図会』巻四十にも引かれ、わが国の河童だろうという人多いが確かならぬ。エイモニエーの『安南記』にはオラングライー族の村に虎入りて人なり犬なり豕なり一頭でも捉わるると直ぐ村を他処へ移すと見ゆ。一七六九年インドの北西部飢饉し牛多く死し虎常時の食を得ず、ブハワバール市を侵しおよそ四百人を殲し、住民逃げ散じて市ために数年間空虚となったとクルックの『西北印度諸州篇』に見え、次に開化の増進に随い虎が追々減少する事体を述べ居る。虎を狩る法は種々あり、虎自身が触れ動かして捕わるる弾弓や、落ちたら出る事ならぬ穽や木葉に黐塗りて虎に粘き狂うてついに眼が見えぬに至らしむる設計等あるが、欧人インドで虎を狩るには銃を揃え象に乗って撃つのだ。康煕帝自ら虎狩せしを見た西人の記には専ら槍手隊を使うたよう出で居る。遼元の諸朝は主として弓を用いたらしい。『類函』四二九巻に陳氏義興山中に家む、夜虎門に当って大いに吼ゆるを聞き、開き視れば一少艾衣類凋損たれど妍姿傷ねず問うてこれ商人の女母に随い塚に上り寒食を作すところを虎に搏たれ逃げ来た者と知り、見れば見るほど麗しいから陳の妻が能くわが子婦たらんかと問うと諾した。依ってその季子に配す。月を踰えてその父母尋ね来り喜び甚だしく遂に婚姻を為し目けて虎媒といったとある。
虎を殺した者を褒むるは虎棲む国の常法だ。秦の昭襄王の時白虎害を為せしかば能く殺す者を募る、夷人廖仲薬秦精等弩を高楼に伏せて射殺す、王曰く虎四郡を経すべて千二百人を害せり、一朝これを降せる功焉より大なるはなしとて石を刻んで盟を成したと『類函』に『華陽国志』を引いて居るが、かかる猛虎を殺した報酬に石を刻んで盟を成したばかりでは一向詰まらぬ、きっと何物かくれたのじゃろう。一六八三年ヴェネチア版、ヴィンツェンツォ・マリア師の『東方遊記』に西インドコチン王は躬ら重臣輩の見る所で白質黒条の虎を獲るにあらざれば即位するを得ず、この辺の虎に三品あり武功の次第に因ってそれぞれの虎の皮を楯に用い得る、また虎を殺した者は直ちにその鬚と舌を抜き王に献ず、王受け取ってこれを焼きその勇者に武士号を与え金また銀に金を被せたる環中空にして小礫また種子を入れたるを賜う。勇士これを腕に貫けば身動くごとに鳴る事鈴のごとし。かくて虎の尸もしくはその一部を提え諸方を巡遊すれば衆集まり来りてこれを見贈遺多く数日にして富足るとある。これに似た一事を挙げんにアフリカの仏領コンゴー国では蟹(ンカラ)を海の印号とし虎に縁近き豹(ンゴ)を陸の印号としまた王家の印号とす。因って豹を尊ぶ事無類で王族ならではその皮を衣るを得ず、これを猟り殺すに種々の作法あり、例せばデンネットの『フィオート民俗篇』(一八九七年版)十八章に「豹を殺した者あると聞いて吾輩忙いで町へ還った、何故というと豹が殺された時は各町民が思うままに他町民と勝手次第に相掠奪す、殺した人が豹皮を王に献ずる日はその人思い付きのまま町のどの部分でも通り、その間家内にさえなくば何でもかでも押領し得るんだ、さてかの者自身縛られて王前に詣り叮嚀に豹首を布に包み携う、王問う「吾子よ何故汝はこの人(豹)を殺したか」、豹殺し対う「彼は甚だ危険な人で王の民の羊や鶏を夥しく殺しました」、王いわく「吾子よ汝は善くした、それじゃ彼の髯を数え見よ、汝も知る通りすべて三九二十七毛あるはずだ、一つでも足らなんだら汝は孤に布二匹を賠わにゃならぬ」、かの者答う「父よ勘定が合うて二十七毛確かにござります」、王「そんなら注意髯を皆抜け、次に歯と爪と皮もことごとく取って孤の用に立てよ」、豹殺し命のまにまに抜き取り剥ぎ取りおわる、ここにおいて王言う「吾子よ汝は大勇の猟師だから爾後狩に出る時食事を調うる者を欲しいだろ、因ってこの若い嬢子を汝の婢なり妾なりにして取って置け」と聞いて豹殺し腰抜かすばかり悦びながら「父様見やんせ、余りに衣類が弊れているので、とてもこんな結構な品を戴かれません」、王「吾子よ最もな事を吐す、さらばこの衣類を遣わすからそこで着よ」、豹殺し「父様有難くて冥加に余って誠にどうもどうも、しかしこんな尤物に木を斫ってやる人がござらぬ」、王「委細は先刻から承知の介だ、この少童を伴れ去って木を斫らすがよい、またこの人を遣るから鉄砲を持たせ」、豹殺し「父よ今こそ掌を掌って御礼を白します」、そこで王この盛事のために大饗宴を張る」とある。小説ながら『水滸伝』の武行者や黒旋風が虎を殺して村民に大持てなところは宋元時代の風俗を実写したに相違ない。
盗人にも三分の理ありとか、虎はかく人畜を残害するもののそれは「柿食いに来るは烏の道理哉」で、食肉獣の悲しさ他の動物を生食せずば自分の命が立ち往かぬからやむを得ぬ事だ、既に故ハクスレーも人が獣を何の必要なしに残殺するは不道徳を免れぬが虎や熊が牛馬を害したって不道徳でなくて無道徳だと言われたと憶える。閑話休題、虎はまず猛獣中のもっとも大きな物で毛皮美麗貌形雄偉行動また何となく痒序たところから東洋諸邦殊に支那で獣中の王として尊ばれた。『説文』に虎を獣君という、山獣の君たればなり、また山君というと、わが邦で狼を大神と呼び今も熊野でこれを獣の王としまた山の神と称うるごとし。『揚子』に聖人虎別、君子豹別、弁人狸別、狸変ずればすなわち豹、豹変ずればすなわち虎、これは聖人君子弁人を順次虎豹狸に比べたのだ。『管子』に〈虎豹は獣の猛者なり、深林広沢の中に居る、すなわち人その威を畏れてこれを載す、虎豹その幽を去って而して人に近づくすなわち人これを得てその威を易る、故に曰く虎豹幽に託って威載すべきなり〉。熊楠謂うに昔朱隠居して仕えず、閻負涼に使しを以て王猛に比し並称す。秦主苻堅猛を侍中とせし時猛に譲れり、のち猛死し堅南晋に寇せんとす、苻融石越等皆諫めしも独りこれを賛し、にわかに水の敗を致し以て亡国に至れり、これ豈景略(王猛の字)の匹ならんや、処士虚声を盗む何代か人なからんと王阮亭は言った(『池北偶談』巻二)。ちょうど虎豹が林沢におれば威あり、幽棲を去って人に近づくと三文の値もなくなるに似たり、インドでは欧州と等しく獅を獣王とす、仏を獅に比べた文諸経に多い、たとえば隋訳『大集譬喩王経』上にいわく、仏言う舎利弗譬えば須弥山王金色辺あり、もし諸鳥獣その辺に至らば皆同一色いわゆる金色なればすなわち師子獣王と同色なり、諸鳥獣既に師子と同一金色なりといえどもその力勢功徳名称ことごとく師子王と等しからず、またまた師子獣王遊戯するにしきりに無畏吼声を発するごとくならずとて、声聞と独覚が多少如来に似たところあるもその間全く懸隔しいるに喩えある。玄奘が訳した『大毘婆娑論』巻百三に菩薩菩提樹下に修道する所に魔王攻め来る、菩薩念ずらく魔軍鳥形を作し来らば我れ猫狸形を作して敵せん、魔軍猫狸形を作し来らば我れ狗狼形を作して敵せん、魔軍狗狼形を作し来らば豺豹形、豺豹形で来らば虎形、虎形で来ると師子形、師子形で来るなら竜鱗を化作し竜鱗で来たら猛火、猛火で来たら暴雨、暴雨で来たら大蓋を化作してこれに敵せんと、鳥に初まって大蓋に至るその間逓次後者が前者より強い、しかして虎より獅、獅より竜鱗、それから火、次に雨、次に蓋が一番強いとしているが、蓋は鳥に啄き破らるべきものだからこの目次中の最強者が最弱者より弱い事となる。想うに一九などの小説にしばしば繰り返された一話はこの仏語より来たんでないか、いわく猫を畜って名を命んと苦心し猫は猫だから猫と号づく、さて攷うると猫より強いから虎、それよりも強い故竜、竜は雲なくんば行き得ぬ故雲、雨ふれば雲散ずる故雨、それを吹き飛ばす風、風を防ぎ遮る障子、それを噛み破る鼠と段々改称してさて鼠より猫が強いので猫を猫と号づけて最初の名に戻ったと。虎や獅に王威ある由を述べたついでに言い置くは虎の威を仮る狐てふ諺だ、これは江乙が楚王に〈狐虎の威を仮る〉と言った故事で『戦国策』に出ている。『今昔物語集』巻五第二十一語に天竺の山に狐と虎住み、その狐虎の威を仮りて諸獣を恐す、虎行きて狐を責め狐恐れて逃ぐるほどに井に落ちたとありて、弁財天と堅地神の縁起譚だがその出処が解らぬ。芳賀博士の攷証本にも聢と出ておらぬ、多分インドで出来たのでなく江乙の語に拠って支那で作られたものかと思う。
マルコポロ紀行に元世祖将官に位勲の牌を賜い佩用せしむるに、金また銀を鍍した牌に獅の頭を鐫り付けたとあるが、ユールの註に拠るとマルコの書諸所に虎を獅と訛称しあるそうだ。古くより虎賁などいう武官職名もあり、虎符を用いた事もあるから件の牌には虎頭を鐫り付けたのだろう。今日といえどもアフリカで虎と呼ぶは豹でアメリカで虎と呼ぶは旧世界に全くなきジャギュアル、また獅と呼ぶのは同じく東半球に住まぬピューマなるなど猫属の諸獣の性質酷だ相似たる点から名称の混雑は尠なくない。
『戦国策』に人あり係蹄を置きて虎を得たるに、虎怒りてを決って去る、虎の情そのを愛せざるにあらざれど、環寸のを以て七尺の躯を害せざる者は権なりとあって虎の決断を褒め居る。ロメーンスの説に狐が足を係蹄に捉われて危殆と見ると即刻自ら咬み切って逃ぐるは事実だとある。『大英類典』第十一版獅の条を見ると近来獅の性実は卑怯なる由言う人多しとあって、要は人と同じく獅もことごとく勇猛ならず、中には至って臆病な奴もありなんと結論し居る。かかる噂は今に始まったのでなくレオ・アフリカヌスが十六世紀に既に言って居る。モロッコのマグラ市近き野に獅が多いが極めて怯懦で、小児が叱ると狼狽遁げ去る、その辺の大都フェスの諺に口ばかり剛情な怯者を詈って汝はアグラの獅ほど勇なり犢にさえ尾を啖わるべしというとある。虎もこの例で至って臆病なのもあるらしく、前年スヴェン・ヘジン、チベット辺で水を渡る虎の尾を小児に曳かれて何事もなからざりしを見たと何かで読んだ。さらば虎に勝った勇士の内には真の勇士でなくて機会好く怯弱な虎に出逢って迎えざるの誉れを得たのもあるだろう。『瑣語』に周王太子宜臼を虎に啗わさんとした時太子虎を叱ると耳を低れて服したといい、『衝波伝』に孔子山に遊び子路をして水を取らしむ水所にて虎に逢い戦うてその尾を攬りこれを得懐に内れ水を取って還る、さて孔子に問いけるは上士虎を殺す如何、子曰く虎頭を持つ、また中士の作法を問うと耳を捉えると答えた、下士虎を殺さば如何すると問うと、虎の尾を捉えると答えたので子路自分の下士たるを慙じ尾を出して棄てたとある。子路は至って勇ありしと聞くが周王太子などいずれ柔弱な人なるべきに叱られて服した虎はよほど弱腰の生れだったと見える。『朝野僉載』には大酔して崖辺で睡った人の上へ虎が来て嗅ぐと虎鬚がその人の鼻孔に入りハックションと遣った声に驚きその虎が崖から落ちて人に得られたとある。
ローマ帝国の盛時虎を多く畜って闘わしめまた車を牽かせた例もある。今もジャワで虎や犀を闘わす由(ラッツェル『人類史』二)、『管子』に桀王の時女楽三万人虎を市に放ってその驚駭を見て娯んだとあるから、支那にも古くから帝王が畜ったのだろう。
虎が仙人や僧に仕えた話は支那にすこぶる多い。例せば西晋の末天竺より支那に来た博識耆域は渉船を断られて虎に騎って川を渡り、北斉の僧稠は錫杖を以て両虎の交闘を解く、後梁の法聡は坐するところの縄牀の両各々一虎あり、晋安王来りしも進む能わず、聡手を以て頭を按え地に著けその両目を閉ざしめ、王を召し展礼せしむとはなかなか豪い坊主だ。王境内虎災大きを救えと乞うと入定する事須臾にして十七大虎来る、すなわち戒を授け百姓を犯すなからしめた、また弟子に命じ布の故衣で諸虎の頸を繋ぐ、七日経て王また来り斎を設くると諸虎も僧徒と共に至る、食を与え布を解きやるとその後害を成さず、唐の豊干禅師が虎に騎って松門に入ったは名高い談で後趙の竺仏調は山で大雪に会うと虎が窟を譲ってその内に臥さしめ自分は下山した、唐の僖宗の子普聞禅師は山に入って菜なきを憂うると虎が行者に化けてその種子をくれて耕植し得た、南嶽の慧思は山に水なきを患うると二虎あり師を引きて嶺に登り地をいて哮ると虎泉とて素敵な浄水が湧出した、また朝廷から詰問使が来た時二虎石橋を守り吼えてこれを郤けた、『独異志』に劉牧南山野中に果蔬を植えると人多く樹を伐り囿を践む、にわかに二虎来り近づき居り牧を見て尾を揺がす、我を護るつもりかと問うと首を俛せてさようと言う態だった、牧死んで後虎が去ったと『類函』に引いて居る。虎が孝子を恵んだ話は『二十四孝』の内にもあるが、ほかにも宋の朱泰貧乏で百里薪を鬻ぎ母を養う、ある時虎来り泰を負うて去らんとす、泰声をして我は惜しむに足らず母を託する方なしと歎くと虎が放ち去った、里人輩感心して醵金を遣り虎残と名づけた。また楊豊虎に噛まる、十四になる娘が手に刀刃なきに直ちに虎頭を捉えて父の難を救うたとある。予もそんな孝行をして見たいが子孝ならんと欲すれども父母俟たずで、海外留学中に双親とも冥途に往かれたから今さら何ともならぬ。