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ジスレリの『文海奇観』に、禁獄された人が絃を鼓する事数日にして鼠と蜘蛛が夥しく出で来り、その人を囲んで聴きおりさて弾じやむと各退いた。さて毎度弾ずるごとに大入り故、獄吏に請いて猫を隠し置き、音楽で鼠を集めて夢中になって感心しいる処を掩殺させたとある。鼠や蜘蛛がそれほど音楽を好むかは知らぬが、列子やダーウィンが言い、米国のトローが実試した通り、もと諸動物は害心なき人を懼れず、追い追い慣れて近づき遊ぶ。その内に物が心なくしてする事も、目が動けば酒食を得るとて呪し、燈に丁字頭が立つと銭を儲けるとて拝し、鵲が噪げば行人至るとて餌をやり、蜘蛛が集まれば百事嘉ぶとてこれを放つ、瑞は宝なり、信なり。天宝を以て信となし、人の徳に応ず。故に瑞応という。天命なければ宝信なし、力を以て取るべからざるなりと、陸賈が樊に語った通り(『西京雑記』三)、己れの力を量らずひたすら僥倖を冀うが人情だ。漢の魏豹、唐の李、いずれもその妻妾は天子に幸せられて天子を生み皇太后となった(『※余叢考』四一)。文化十一年春、大阪北の新地の茶屋振舞へ、さる蔵屋敷の留守居が往った。その従僕茶屋の台所にいると、有名な妓女が来て二階へ上らんとして笄を落した。従僕拾うて渡すと芸子憚り様と言いざまその僕の手とともに握って戴き取った。田舎育ちの者かかる美女に手を握られた嬉しさ心魂に徹し、屋敷へ帰っても片時も忘れず。女郎と違い小金で芸子を受け出し得ず、人の花と詠めさせんよりはと無分別を起し、曾根崎の途中でその女を一刀に斬り殺し麦飯屋の簀の子下に隠れたが、翌夕腹へって這い出で食を乞う所を召し捕られた(『伝奇作書』初篇上)。行き合いバッタリ、何処の誰とも知らぬ者が笄を拾いくれた嬉しさに手を握ったのを、心あっての事と己惚れて大事を仕出かしたは、馬鹿気の骨頂たるようだが、妻妾が貴相ありと聞いて謀反したり、鼠が恩を報いるの、鼠を供養すれば大黒様が礼を授くるのと信ずるのも皆同様の己惚れで、力を以て取るべからざる物を取ろうとする愚かな事じゃ。
大黒天の事は石橋臥波君の『宝船と七福神』てふ小冊に詳述されたから、今なるべく鼠に関する事どもとかの小冊に見えぬ事どもを述べよう。皆人の知るごとくこの神が始めて著われたのは、唐の義浄法師の『南海寄帰内法伝』に由る。義浄は今(大正十三年)より千二百五十三年前、咸享二年三十七歳でインドに往き在留二十五年で帰った時、奉仏兼大婬で高名な則天武后親ら上東門外に迎えたほどの傑僧で、『寄帰内法伝』は法師がかの地で目撃した所を記した、法螺抜きの真実譚だ。石橋君の著にはその大黒様の所を抄出したままで誤字も多少あれば、今は本書から引こう。いわく、また西方諸大寺皆食厨の柱側あるいは大庫の門前に木を彫りて二、三尺の形を表わし神王となす。その状坐して金嚢を把り、かえって小牀に踞し、一脚地に垂る。毎に油を以て拭い、黒色形を為し、莫訶歌羅(マハーカーラ、大神王の義)という。すなわち大黒神なり。古代相承していわく、これ大天(ヒンズー教のシワ大神)の部属で、性三宝を愛し、五衆を護持し、損耗なからしむ。求むる者情に称う。ただ食時に至り厨家ごとに香火を薦むれば、あらゆる飲食随って前に列すと。すなわち大黒神は今もインドで大陽相を以て表わして盛んに崇拝するシワの眷属ながら、仏法を敬し、僧衆を護り、祈れば好いたものを授ける、台所で香火を供えて願えば、たちまち飲食を下さるというのだ。さてこの辺から義浄はただ聞いたままを記すという断わり書きがあって、かつて釈尊大涅槃処へ建てた大寺はいつも百余人の僧を食わせいたところ、不意に五百人押し掛けたので大いに困った。ところが寺男の老母がこんな事はいつもある、心配するなというたまま多く香火を燃し、盛んに祭食を陳列して大黒神に向い、仏涅槃の霊蹟を拝みに多勢の僧がやって参った、何卒十分に飲食させて不足のないようにと祈り、さて一同を坐せしめ、寺の常食を与うると食物が殖えて皆々食い足ったので、揃うて大黒天神の力を称讃したとある。すこぶる怪しい話だが、今の坊主連と異なり、その頃の出家はいずれも信心厚く、行儀も良かったから、事に慣れた老婆の言を信じ切って、百人前の食物が五倍六倍に殖えた事と思い定めて、食って不足を感じなかったものだろう。寺の住職の妻を大黒というも専ら台所を司って大黒神同様僧どもに腹を減らさせないからで、頃日『大毎』紙へ出た大正老人の「史家の茶話」に『梅花無尽蔵』三上を引いて、足利義尚将軍の時、既に僧の妻を大黒と呼んだと証した。いわく、長享二年十一月二十八日、宿房の大黒を招き、晨盤を侑む。その体蛮のごとし、戯れに詩を作りていわく、〈宿房の大黒晨炊を侑む、合に若耶渓の女の眉を掃くべきに、好在忘心一点もなし、服はただ布にして語は蛮夷なり〉。意味はよく判らないがその頃はや夷子、大黒を対称しただけは判る。高田与清は『松屋筆記』七五に大黒の槌袋に関し『無尽蔵』巻四を引きながら、巻三の僧の妻を大黒という事は気付かなんだものか。
永禄二年公家藤原某作てふ『塵塚物語』巻三に卜部兼倶説として、大黒というはもと大国主の命なり、大己貴と連族にて昔天下を経営したもう神なり。大己貴と同じく天下を運りたもう時、かの大国主袋のようなる物を身に随えてその中へ旅産を入れて廻国せらるるに、その入れ物の中の糧を用い尽しぬればまた自然に満てり。それに依って後世に福神といいて尊むはこの謂れなりと云々。しかしてその後弘法大師かの大国の文字を改めて大黒と書きたまいけるとなりと記す。大黒天は大国主命を仏化したという説は足利氏の代に既にあったので、『古事記』に大国主の兄弟八十神各稲羽の八上姫を婚せんと出で立つに、大国主に袋を負わせて従者として往った話あり。本居宣長その賤役たるを言い、事功の人に後るる者を今も袋持ちというと述べた。海外にもマオリ人は背に食物を負うを賤民とす(一八七二年パリ板、ワイツとゲルランドの『未開民人類学』六巻三四五頁)。大国主も糧袋を負うたと見え、大黒神も飲食不尽の金嚢を持った所が似ているから、大国主の袋をも不尽の袋と見て二神を合一したのだ。
次は槌だ。『譚海』一二に、日光山には走り大黒というあり、信受の者懈怠の心あらば走り失せてその家に座さず、殊に霊験ある事多し、これは往古中禅寺に大なる鼠出て諸経を食い敗り害をなせし事ありしに、その鼠を追いたりしかば下野の足緒まで逃げたり。鼠の足に緒を付けて捕えて死にたるよりそこを足緒というとぞ、足緒は足尾なり。さて死にたる鼠の骸に墨を塗りて押す時はそのまま大黒天の像になりたり。それより日光山にこの鼠の死にたる骸を重宝して納め置き、今に走り大黒とて押し出す御影なりと記す。一昨年某大臣、孟子がいわゆる大王色を好んで百姓とともにせんとの仁心より頼まれた惚れ薬の原料を採りに中禅寺湖へ往った時、篤とこの大黒を拝もうと心掛けて滞在して米屋旅館に、岩田梅とて芳紀二十三歳の丸ぼちゃクルクル猫目の仲居頭あり。嬋娟たる花の顔ばせ、耳の穴をくじりて一笑すれば天井から鼠が落ち、鬢のほつれを掻き立てて枕のとがを憾めば二階から人が落ちる。南方先生その何やらのふちから溢るるばかりの大愛敬に鼠色の涎を垂らして、生処を尋ねると、足尾の的尾の料理屋の娘というから十分素養もあるだろう、どうか一緒に走り大黒、身は桑門となるまでも生身の大黒天と崇め奉らんと企つる内、唐穴になって下山しとうとう走り大黒を拝まなんだ。全く惚れ薬取りが惚れ薬に中毒したのだ。その節集古会員上松蓊君も同行したから彼女の尤物たる事は同君が保証する、あの辺へ往ったら尋ねやってくれたまえ。
右の『譚海』の文に拠れば鼠が神になって大黒天と現じたようだが、『滑稽雑談』二一には、大黒天神は厨家豊穣の神なるが故に、世人鼠の来って家厨の飲食倉庫の器用を損ずるをこの神に祈る時、十月の亥の日を例として子の月なる十一月の子の日を(祭りに)用ゆるなるべしと記す。『梅津長者物語』には鼠三郎、野らねの藤太等の賊が長者の宅を襲うと、大黒真先に打って出で打ち出の小槌で賊魁を打ち殺す事あり。これでは大黒時に鼠や賊を制止誅戮し、槌は殺伐の具となって居る。
槌はいかにも大黒の附き物で、繁昌をこの神に祈って鼠屋また槌屋と家号したのがある。京で名高い柄糸を売る鼠屋に紛らわして栗鼠屋と名乗る店が出た事あり(宝永六年板『子孫大黒柱』四)。伊勢の御笥作り内人土屋氏は昔槌屋と称え、豪富なりしを悪み数十人囲み壊りに掛かりかえって敗北した時、荒木田守武の狂歌に「宇治武者は千人ありとも炮烙の槌一つにはかなはざりけり」、蛆虫を宇治武者にいい做したのだ(石崎文雅『郷談』)。それから娼家には殊に槌屋の家号多く、例せば宝永七年板『御入部伽羅女』四に、大阪新町太夫の品評が、槌屋理兵衛方に及んで「したるい目付き掃部さま、これが槌屋の大黒なり」と、この娼を家の大黒柱に比べおる。四壁庵の『忘れ残り』上巻に、吉原江戸町三丁目佐野槌屋の抱え遊女黛、美貌無双孝心篤く、父母の年忌に廓中そのほか出入りの者まで行平鍋を一つずつ施したり、「わがかづく多くの鍋を施して、万治この方にる者ぞなき」とほめある。これらよりもずっと著われたは安永二年菅専助作『傾城恋飛脚』で全国に知れ渡り、「忠兵衛は上方者で二分残し」とよまれた亀屋の亭主をしくじらせた北の新地槌屋の抱え梅川じゃ。
槌は只今藁を打ったり土を砕いたり専ら農工の具で、大高源吾が吉良邸の門を破ったり、弁慶が七つ道具に備えたりくらいは芝居で見及ぶが、専用の武器とは見えず。
だが昔大分地方の鼠の岩屋等の強賊、皇命に従わざりしを景行天皇ツバキの槌を猛卒に持たせ誅殺した事あり(『書紀』七)、この木は今も犬殺しも用い身に極めて痛く当る。『史記』には槌を以て朱亥が晋鄙を殺し、劉長が審食其を殺した事あり。北欧の雷神トール百戦百勝するに三の兵宝あり。まず山を撃たば火が出る大槌、名はムジョルニルで、トールこれを以て山と霜の大鬼を殺し、また無数の鬼属を誅した。次は身に巻けば神勇二倍する帯で、第三には大槌を執る時の手袋だ(マレーの『北欧考古編』ボーンス文庫本四一七頁)。わが邦でも時代の変遷に伴うて兵器に興廃あり。砲術盛んならぬ世には槍を貴び、何人槍付けたら鼈甲柄の槍を許すとか、本多平八の蜻蜒切りなど名器も多く出で、『昭代記』に加藤忠広封を奪われた時、清正伝来の槍を堂の礎にあて折って武威の竭きたるを示したとある。槍より先は刀剣で剣の巻など名刀の威徳を述べて、これさえあれば天下治まるように言いおり、また弓矢を武威の表徴のごとく言った。支那でも兵器の神威を説いたもので、越王泰阿の剣を揮えば敵の三軍破れて流血千里といい、湛盧の剣は呉王の無道を悪んで去って楚に往ったといい、漢高祖が白蛇を斬った剣は晋の時自ら庫の屋を穿って火災を遁れ飛び去った由(『淵鑑類函』二二三)。漢より晋までこの剣を皇帝の象徴と尊んだらしい。カンボジアでも伝来の金剣を盗まば王となり、これなくば太子も王たるを得ず(『真臘風土記』)。支那で将軍出征に斧鉞を賜うとあるは三代の時これを以て人を斬ったからで、『詩経』に武王鉞(マサカリ)を執ればその軍に抗する者なかったとある。上古の人が遺した石製の斧や槌は雷斧、雷槌など欧亜通称して、神が用いた武器と心得、神の表徴とした。博物館でしばしば見る通り、中には斧とも槌とも判らぬ間の子的の物も多い。王充の『論衡』に、漢代に雷神を画くに槌で連鼓を撃つものとしたとあれば、その頃既に雷槌という名はあったのだ。古ギリシアローマともにかかる石器を神物とし、今日西アフリカにおけるごとく、石斧に誓うた言をローマ人は決して違えず。契約に背いた者あれば祝官石斧を牲豕に投げ付けて、弁財天また槌を持つらしい。『大方等大集経』二二には、過去九十一劫毘婆尸仏の時、曠野菩薩誓願して鬼神を受けて悪鬼を治す。金剛槌の呪の力を以て一切悪鬼をして四姓に悪を為す能わざらしむ。『一切如来大秘密王微妙大曼拏羅経』一には、一切悪および驚怖障難を除くに普光印と槌印を用ゆべしとある。槌を勇猛の象徴としたほど見るべし。仏教外にはエトルリアの地獄王キャルンは槌を持つ。本邦にも善相公と同臥した侍童の頭を疫鬼に槌で打たれ病み出し、染殿后を犯した鬼が赤褌に槌をさしいたといい、支那の区純ちゅう人は槌で鼠を打ったという(一八六九年板、トザーの『土耳其高地探究記』二巻三三〇頁。『政事要略』七〇。『今昔物語』二〇の七。『捜神後記』下)。いずれも槌がもと凶器たり、今も凶器たり得るを証する。(大正十五年九月八日記。蒙昧の民がいかに斧を重宝な物とし、これを羨んだかは、一八七六年板ギルの『南太平洋の神誌および歌謡』二七三頁註をみて知るべし。)ジュピテル大神、この通り違約者を雷で打てと唱えた。北欧では誓約に雷神トールの大槌ムジョルニルの名を援いてした。それが今日競売の約束固めに槌で案を打つ訳である(一九一一年板ブリンケンベルグの『雷の兵器』六一頁)。