Kembali
四谷、赤坂
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四谷、赤坂
宮島資夫
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Tema
Terang
Gelap
Sepia
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Terjemahan Pagera AI
Asli Public Domain
Chapter 5 of 6

津の守附近

私は先日四谷廻りをした時、伊勢虎の二階でT君とその事を語り合った。この坂を少し下って行くと、右側に木立が繁っていた。木立の下には名ばかりの茶店があった。茶店の下が崖で、不動尊の像か何かあった下の竹の筒から、細い滝が落ちていた。津の守の滝といった。その辺り一帯は、今も残る通りの凹地であって、底には池があった。周囲の崖には昼も暗い程大木が矗々と茂っていた。夏は赤く水の濁った池で子供が泳いだ。巡回の巡査が時々廻って来て子供を叱る。『お廻り来い、裸で来い、こっちで罰金とってやる』悪たれ口をついて、子供達は裸で逃げ出した所である。秋になると、崖ぶちの恐ろしく高い木に、藤豆のような大きな平たい莢の実が生った、簪玉位な真紅の美しい実のなる木もあった。クルミもあった。私達はよくそれを拾いに来たが、夕方近くなると恐ろしくなるような所だった。それに荒木町よりの崖のところには、誰かの家で幽閉した気狂の部屋があって、終日鳥のような声を出して怒鳴るのが、崖や木立に気味悪くこだました。余り英語を勉強して気狂になったという話だった。

この池の辺には芝居小屋の建ったこともあった。焼けたのか潰れたのか、色々に小屋が変った。時折は角力もかかった。天一の手品もあった。一度は大女、というのがやって来て、太い声を出して、丼で水を呑んで、男のようにしこを踏んで見せたりしたが、銭湯で遂にかの女は男であることを発見されて、警察へ引っ張られて、見世物はおじゃんとなったことなどもあった。

津の守坂の下に水車小舎があった。往来から見える凹みの下で、水車がぎい/\廻っていた。暗い家だったが、水車の水は、池の水が廻って来るという話だった。水車小舎について左の方、河童坂の下を通って、現在の刑務所に行く。谷町通りにはまだ、水田があった。秋の夕方、家の庭で空を仰いでいると、雁やその他の渡り鳥が、その方面から飛んで来るので、子供の私はあの辺に雁や鴨は巣喰っているものと信じていた。

津の守の坂下、右手の方は昔は蓮池と称えた。私は蓮を見た記憶はないが、恐らく池はあったであろう。

夕方になると、士官学校の校庭から、『わ――っ』という喚声がわき上って、谷一つへだてた、北伊賀町のあたりへ響いて来た。

生徒が食後の運動だったそうである。寂しい町に、前後の連絡もなく、『わ――っ』と上がって、それ切り消える響き、夏は夏らしく、冬は冬らしい感じを与えた。

水田のあった谷町を通り、牛込余丁町の方へ抜けるとこには、大きな竹藪と赤土の崖があった。晩春、つつじの咲く頃、小学校の運動会は、大久保のつつじ園に開かれた。今考えると戸山ヶ原の附近であろう。富士山の形をした山のあるつつじ園で、私達は駈けっこをした。晴れた空と咲き誇ったつつじと、競技場の紅白の幕が、今もなお明るく鮮かに私の記憶に残っているのを見ると、当時の子供は、全く薄暗い世界で生活していた感じが、しみ/″\する。団子坂の菊も、東京の人間の記憶から亡びた事を、浩祐氏によって語られて、私は亡びたつつじ園を一層強く回想した。『津の守にも、今は随分待合や芸妓家がふえたらしいが、僕の子供の時分には、四谷には芸妓家が二軒だった』とその晩T君に私は語った。が、しかもその二軒が、一軒は小学校の門前に一軒は校庭の垣根の後ろにあったのだから変である。三日月お蝶という、額に傷のある女が、学校用品店の隣の御神灯を下げた家から出て来たり、運動場の隅に立ってると、おさらいの三味線の音が聞こえてくるなどは、今日ならば必ず教育上の問題として、区会の議題位にはなったであろう。

Chapter 5 of 6
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