十
「与太坊、父爺は何事もねえよ。」と、池の真中から声を懸けて、おやじは小屋の中を覗こうともせず、爪さきは小波を浴ぶるばかり沈んだ筏を棹さして、この時また中空から白い翼を飜して、ひらひらと落して来て、水に姿を宿したと思うと、向うへ飛んで、鴎の去った方へ、すらすらと流して行く。
これは弥六といって、与吉の父翁が年来の友達で、孝行な児が仕事をしながら、病人を案じて居るのを知って居るから、例として毎日今時分通りがかりにその消息を伝えるのである。与吉は安堵して又仕事にかかった。
(父親は何事もないが、何故魚を喰べないのだろう。左様だ、刺身は一寸だめしで、鱠はぶつぶつ切だ、魚の煮たのは、食べると肉がからみついたまま頭に繋って、骨が残る、彼の皿の中の死骸に何うして箸がつけられようといって身震をする、まったくだ。そして魚ばかりではない、柳の葉も食切ると痛むのだ、)と思い思い、又この偉大なる樟の殆ど神聖に感じらるるばかりな巨材を仰ぐ。
高い屋根は、森閑として日中薄暗い中に、ほのぼのと見える材木から又ぱらぱらと、ぱらぱらと、其処ともなく、鋸の屑が溢れて落ちるのを、思わず耳を澄まして聞いた。中央の木目から渦いて出るのが、池の小波のひたひたと寄する音の中に、隣の納屋の石を切る響に交って、繁った葉と葉が擦合うようで、たとえば時雨の降るようで、又無数の山蟻が谷の中を歩行く跫音のようである。
与吉はとみこうみて、肩のあたり、胸のあたり、膝の上、跪いてる足の間に落溜った、堆い、木屑の積ったのを、樟の血でないかと思ってゾッとした。
今までその上について暖だった膝頭が冷々とする、身体が濡れはせぬかと疑って、彼処此処袖襟を手で拊いて見た。仕事最中、こんな心持のしたことは始めてである。
与吉は、一人谷のドン底に居るようで、心細くなったから、見透かす如く日の光を仰いだ。薄い光線が屋根板の合目から洩れて、幽かに樟に映ったが、巨大なるこの材木は唯単に三尺角のみのものではなかった。
与吉は天日を蔽う、葉の茂った五抱もあろうという幹に注連縄を張った樟の大樹の根に、恰も山の端と思う処に、しッきりなく降りかかる翠の葉の中に、落ちて落ち重なる葉の上に、あたりは真暗な処に、虫よりも小な身体で、この大木の恰もその注連縄の下あたりに鋸を突さして居るのに心着いて、恍惚として目をったが、気が遠くなるようだから、鋸を抜こうとすると、支えて、堅く食入って、微かにも動かぬので、はッと思うと、谷々、峰々、一陣轟! と渡る風の音に吃驚して、数千仞の谷底へ、真倒に落ちたと思って、小屋の中から転がり出した。
「大変だ、大変だ。」
「あれ! お聞き、」と涙声で、枕も上らぬ寝床の上の露草の、がッくりとして仰向けの淋い素顔に紅を含んだ、白い頬に、蒼みのさした、うつくしい、妹の、ばさばさした天神髷の崩れたのに、浅黄の手絡が解けかかって、透通るように真白で細い頸を、膝の上に抱いて、抱占めながら、頬摺していった。お品が片手にはしっかりと前刻の手紙を握って居る。
「ねえ、ねえ、お聞きよ、あれ、柳ちゃん――柳ちゃん――しっかりおし。お手紙にも、そこらの材木に枝葉がさかえるようなことがあったら、夫婦に成って遣るッて書いてあるじゃあないか。
親の為だって、何だって、一旦他の人に身をお任せだもの、道理だよ。お前、お前、それで気を落したんだけれど、命をかけて願ったものを、お前、それまでに思うものを、柳ちゃん、何だってお見捨てなさるものかね、解ったかい、あれ、あれをお聞きよ。もう可いよ。大丈夫だよ。願は叶ったよ。」
「大変だ、大変だ、材木が化けたんだぜ、小屋の材木に葉が茂った、大変だ、枝が出来た。」
と普請小屋、材木納屋の前で叫び足らず、与吉は狂気の如く大声で、この家の前をも呼わって歩行いたのである。
「ね、ね、柳ちゃん――柳ちゃん――」
うっとりと、目を開いて、ハヤ色の褪せた唇に微笑んで頷いた。人に血を吸われたあわれな者の、将に死なんとする耳に、与吉は福音を伝えたのである、この与吉のようなものでなければ、実際また恁る福音は伝えられなかったのであろう。
●図書カード