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この時分に二人で見に行つた館は赤坂帝国館、葵館などがおもで、チャールス・レイあたりのものが記憶に残つている。それから当時の俳優では二人ともフランク・キーナンが好きで、この人の出ている写真はたいがい欠かさず見た。
研究生の中で伊藤が一番親しく交際していた人に淵君というトウ・ダンスのうまい青年がいたが、この人は研究所解散後もよく遊びにきた。その後ずつと音信不通になつているらしいが、今でも伊藤と会うとときどきこの人のうわさが出る。何となく切れあじのよさそうな感じのする人であつた。
それより以前に松竹が研究生たちを歌舞伎の仕出しに使つたことがあつた。伊藤や淵君ももちろん使われた仲間であるが、ある時歌舞伎座で「川中島合戦」をやつたとき雑兵に使われたことがあつた。
そのときの伊藤の話によると、雑兵をやつていて中車の山本勘助に追いこまれるのであるが、中車にカツとにらまれると本当にこわくなつて思わず身がすくむような気がしたそうである。
こんな話は青山の二階へ淵君などが遊びにきたときあたりに聞かされたのではないかと思う。青山の共同生活は半年あまりで解消になつた。伊藤は蒲田へ移り住むことになり私は新宿のほうの親戚へ寄寓することになつたのである。新宿へ移つてから従姉のおともなどをして武蔵野館へよく行つた。
ターザンやキックインをここで見たことを憶えている。当時この館では写真の合間にオーケストラが歌劇の抜萃曲などを必ず一曲演奏することになつていたので、そのころやつと音楽に興味を感じはじめていた私にはそれがたのしみであつた。ここの指揮者は毛谷平吉という人であつた。最近「気まぐれ冠者」という写真を作つてその音楽の吹込みをしたとき大阪から来た楽士の中に混つて毛谷平吉氏がバイオリンを弾いている姿を見かけて、私はむかし懐しい想いをしたことであつたが、同氏の風貌は十数年以前と少しも変つていなかつた。
そうしている間に私は、もつと必死に絵の勉強をする必要を感じてきたのと、死なれては困る友人が郷里で肺病になつて寝ついてしまつたので見舞がてら一まず郷里へ帰る決心をした。
そしてただちにそれを実行した。二十三の年の秋である。それから私は本気に勉強を始めた。勉強に身を打ち込んで始めて私は人生の意味がわかつてきたと同時に、いろいろなものの見方に形がついてきた。それと同時に自分の意見というものが少しずつできて行つた。
そのころから活動写真に対する興味が次第に薄れてきた。自分の生活から活動写真の観賞を全然除外してもさらに苦痛を感じなくなつた。
活動写真にかぎらず、そのほかのもろもろの楽しみを除外することに苦痛を感じなくなつてきた。
ただ、文学から受ける楽しみを除外することだけは最後までできなかつた。
ある夜、私は急に、武者小路氏の「幸福者」という小説を読みたい衝動に駆られた。私は一応この衝動と闘つてみたが遂に勝てなかつた。
せめて一日のばしたいと思つてみたが、それすらもかなわなかつた。
夜ふけの街を古本屋のある町のほうへ急ぎながら私の心の中はくやしさに煮えかえるようであつた。このとき私の心は全く二つに分裂してしまつていた。
「おまえは絵かきではないか。文学が何だ。武者小路が何だ。絵だけで安心ができないのか。何を求めてそんなにがつがつとやせ犬のように、夜までうろつかなければならないのだ」と一つの心は泣きながら叫びつづけた。
それにもかかわらず、一つの心は容赦なく私の身体を動かして古本屋のほうへ追いやつた。
その夜の苦しみは私の一生の悲劇を暗示しているようにみえる。
かくて私は活動写真にはまつたくごぶさたしたままで翌年を迎えた。その年もずつと郷里で絵をかいていたが、五月には肺病の友人が死に、秋になると関東の大震災に驚かされた。
震災の歳の暮れに上京すると、私は初山滋君の住んでいる長崎村が気にいつたので、すぐさま、同君の近所の小さい家を借りて自炊を始めた。
それから三年間、二十七歳の秋まで私はそこで暮したが、この三年間は物質の窮乏に苦しみとおしたので活動写真もほとんど見ていないが、それでも、「罪と罰」、「白痴」、「鉄路の白ばら」をこの間に見た。中でも「罪と罰」をやつたヴィクトル・クマラとかいう人の演技はいまだに強い印象を残している。やはりそのころ池袋の平和館へ何かむしかえしの外国物(「ジゴマ」の再上映?)を見に行つたことがあるが、その折阪妻の「影法師」という写真を見せられた。
この前後数年間に私の見た日本映画はほとんどこの写真一本にすぎない。
こうしているうちに私の生活は一日一日と苦しくなつてきた。二十七の秋にはいよいよ食つて行けなくなつた。絵かきとしての自分を殺すか、人間の自分を殺すか、方法は二つしかなかつた。ちようどそのときやはり同郷の人で絵をやつていた男が、いつしよに松山でおでん屋をやらないかという相談を持ちかけてきた。
金は何とか都合がつくという。死ぬるよりははるかにいい話なので私は喜んで賛成した。
かくて松山の土地に最初のおでん屋が出現した。
このおでん屋は最初は毎日平均二、三十円の売り上げがあつて、うまく行つたが次第にわるくなつてだんだんやつて行けなくなつた。
そのうちいつしよにやつていた友だちが次々と二人ともやめてしまつたので、私は借金といつしよに一番あとに残された。
翌年の夏には困つておでん屋を処分したが、あとにまだ借金が残つた。
かくて私はついにマイナスつきの無一物になつた。そして夏から秋まで、友だちの厄介になつたりしながらぶらぶらしていた。
本来無一物という声がそのころはいつも耳の側で聞えていた。本一冊、銭一銭、もはや自分の所有物というものをこの世の中に見出すことができなかつた。それはさびしいけれどもまことに身も心も軽々としたいい心持ちのものであつた。
いつさいの付属品と装飾を取り去られたのちの正味掛け値なしの自分の姿を冷静に評価する機会を持ち得たことはともかくもありがたいことであつた。
私はけし粒ほどの存在をじつと見つめた。それがいつわりのない自分自身の姿なのであつた。
まことに情ない事実ではあるが、しかしこの発見はやがて私にのんびりとした安心をもたらした。それは、もはやいかなる場合においても自分はこれより小さくはならないし、これより貧しくもならないということがわかつたからであろう。
この付属品なしの自分の姿は、それからのちの私の世界観を正す一つの基準として非常に役立つことになつたのであるが、これらの事実は本稿と直接の関係を持たないからいつさい省略して、さてその年の秋私は伊藤に手紙を出して就職の世話をたのんだ。伊藤とは震災の前年から音信を断つていたので住所もわからない始末である。「京都下加茂日活内」として出したのだから郵便屋さんもあきれたかもしれんが、しかしその手紙は届いたとみえ、伊藤から折返しあたたかい返事がきた。そうしてその十月京都の伊藤の家へ転がりこんだのであるが、その間、つまりおでん屋を開くために松山へ帰つてから、ふたたび松山を去るまでの一年間に私の見た写真が数本ある。
伊藤の「流転」、「忠次旅日記甲州篇」、現代劇で「彼を繞る五人の女」、阪妻の「大義」、右太衛門の「紫頭巾」、片岡千恵蔵の「万華地獄」などである。そうしてそれらの写真によつて、はじめて大河内、岡田時彦、右太衛門、千恵蔵などの諸君の顔を憶えた。
当時大将軍にいた伊藤は私を加えて三人の食客を養つていた。いま千恵プロにいる香川良介、「下郎」の作者中川藤吉の両者と私、それと猫が三匹もいた。
私の志望はこのときはつきりしていなかつた。要するに何とかして自分の力で食えるようになりさえすればよいというのでそれ以外に欲望はなかつた。すると伊藤が脚本を書けといい出した。
脚本など書けといわれたところで、おいそれと書けるものとは思えなかつたが、伊藤がむりに書けというのでしかたなく「花火」というのを書き、またしばらくして「伊達主水」というのを書いた。これはのちに「放浪三昧」と改題した。
伊藤はそれらを見ても別にいいとも悪いともはつきりいわなかつたが大河内君などが遊びにきたとき、私の書いた脚本の筋を話して、「そういう脚本を書く男です」などといつて話していたから、多少は何とか思つているのかなと考えたりした。
そのうち、谷崎十郎という人を主として奈良にプロダクションができたので、伊藤家食客全員はここへ大量輸出をされたから、私も十一月から奈良で自炊生活を始めた。
この伊藤家食客時代にも数種の映画を見ているが、そのおもなるものは伊藤の「下郎」、キング・ヴィダーの「ビッグ・パレード」などであつた。奈良のプロダクションはどうもうまく行かなかつたらしい。私は一カ月ばかり捕手ばかりになつて働いていたが、自動車に乗せられて仕事に行つたことは一度も無かつた。いつも歩かされた。しかし奈良の公園あたりをちよんまげをつけて悠々と歩く気持ちはちよつととぼけていておつなものである。内容はともかくとして形式だけは確かに現代を超越しているのだ。
さすがの樗牛もこの手があることだけは気がつかなかつたにちがいない。
奈良の一カ月間に暇をみて「草鞋」というシナリオを書いた。
のち、監督をやるようになつたとき、第一回に用いたのはこのシナリオである。
奈良のプロダクションは容易に給料をはらつてくれなかつたのでしまいにはみな仕事をやめて、働いた分の給料を待つだけの目的で毎日撮影所へ詰めかけていた。
この間に我々の仲間の若い連中は、何かうまい食物はないかと考えたあげく、鹿を一頭眠らせようという企画を立てた。
さすがの私もこの非合法な案には賛成しかねたので行動隊には加わらなかつたが、いよいよ鹿の肉をあぶる香が聞えてくるという段取りになれば、それから先の行動はどうなつたか、いま考えてもあまり責任は持てない気がする。
若い連中は日本刀の斬れるやつを携えて、何でも二晩か三晩つづけて辻斬りに出かけて行つたが、何度も失敗して遂にあきらめてしまつた。
それでも最後のやつは相当深傷を負わせたらしく、翌朝行つてみたらそこらはたいへんな血であつたそうだ。
十二月の末になるといつしよに自炊していた香川君が台湾ヘ巡業の口ができ、私にもいつしよに行つてみないかという。プロダクションのほうは、もうまつたく見込みがなさそうだし、どう考えても行かないでいる理由が一つもないので私は行くことにした。
台湾巡業は翌年の四月までつづき、その間私は斬られるさむらいや、通行人ばかりになつて舞台の上に身をさらしていたが、演技に関する私の理論はこの間の経験が重要な示唆となつているようである。
台湾巡業中に見た映画は片岡千恵蔵「三日大名」、月形龍之介「道中秘記」、嵐寛寿郎「鬼あざみ」、それから伊藤の「忠次信州血笑篇」など。月形君の写真を見たのはおそらくこのときが最初であろう。格別うまいとは思わなかつたが内輪な芝居で演技にも人がらにも好感が持てた。
台湾から帰途船が瀬戸内海にはいると松の緑など目が覚めるようで、日本はこんなに美しい国だつたのかと驚いた。
伊藤の家へ帰つてみると、もう奈良のプロダクションは消えて跡もなく、そのかわりに日本映画連盟というものが京都双ガ丘に生れ、その中の片岡千恵蔵プロダクションのシナリオ・ライター兼助監督として私がはいることに話が決つていた。
帰るや否や、独立第一回作品のシナリオを一週間くらいで書けという足もとから鳥が立つような話なので私はすくなからずめんくらつたが、それでもとにかく注文の日限に「天下太平記」というものをこねあげて渡したら、大枚百円なりを即金でもらつた。
何しろ台湾巡業中は御難つづきでこづかいもろくにもらえず、文字どおりたばこ一本を奪いあうような生活をつづけてきたので、そのときの百円は実に豪華版であつた。
私はその夜南座へ芝居を見に行き、そこの事務所で百円札を細かくしてもらいながら、その使い道を楽しく胸に描いた。
私の活動写真傍観史はひとまずこれで終る。