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泡鳴五部作 05 憑き物
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泡鳴五部作 05 憑き物
岩野泡鳴
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翻訳 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 4 of 19

四

蝦夷富士の稱ある後志羊蹄山、マクカリヌプリが麓まで眞ツ白になつたのは、二三日前のことだ。札幌市外に遠く見える山々も、もう、いつのまにか一面に白くなつた。そして市街にもけふは初雪が來るだらうといふ十月二十八日――伊藤公横死の號外を見てから三日目、義雄の激動した演説の日から二日目の午前だ。

「田村が氣違ひになつた」と云ふ評判を却つてこちらからあざ笑つて返却した義雄ではあるが、激動後の反動の爲めか、段々に氣拔けが増して、自分ながらぼんやりしてしまつた。そして、お鳥に對する冷淡の度も増しただけ、あたまにも亦取りとめがなくなつた。

「ああ、僕は疲れ切つたのだ!」義雄が爐ばたに倒れて斯う叫んだ時、渠は自分の元氣も精神をもあの敷島のからだに吸ひ取られてゐたのではないかと思つた。

「兎に角」と、お鳥はただ心配さうに、「醫者に見てもろたらえいぢやないか?」

「馬鹿! おれは醫者の樣な草根木皮で左右出來る人間ぢやア無い。」

然しお鳥は、氣を利かしたつもりで、ひそかに自分の掛りの副院長に相談し、見ただけの容態を云つて、同病院で精神病受け持ちの醫者に、それとなく、診察に來て貰つた。

すると、義雄はそれを感づいて、直ぐさま追ひ歸した。

氣の毒さうにして送つて出たお鳥は、宿の玄關のところで、「大丈夫でしようか」と云つた。

「大丈夫でしよう――さう心配するにやア及ぶまい。」

「さうでしようか?」

「おれをまだ氣違ひだと思つてる、ね――馬鹿!」

「でも、目の色までこの頃は變な色だ。」

「これは、ね、實は、あの女郎の恨みかも知れない。」

「へん」と、馬鹿にしたやうに横を向く。

「然し、あいつとも別れた。お前とも亦別れるのだらうが、心配するな――お前の病氣だけは直してやる。」

「早う直して貰はんでは困るぢやないか、――この雪が降り出さうとする時節にもなつて――若しこの旅で二人とも病氣にでもなつたら?」

「二人が病氣になれば、どうせ、その結果はどツちからも無理心中、さ。」

「では、一緒に死のか?」お鳥は斯う云つて、微笑しながら、坐わつてる義雄のからだに自分のからだを押し付けた。

「死なう」と、渠も冗談に答へて、かの女を優しく見つめながら、「お前の白い肌を人に渡すのは惜しい。」

お鳥は自分の病氣に就いてその當初のやうにはやき/\訴へないが、自分で思ひ出すたんびに痛さうな顏をする。そして、もう、診察時間だからと云つて、病院へ歸つた。

義雄は獨り机に兩肱をつき、ぼんやりと、がらす窓から、狹い範圍の空を仰いでゐる。空は低く灰色に曇つて、今にも雪が降り出しさうだ。それが丁度、渠がこれまでに通過して來た、そしてまた今でもそこに落ちることがある疑惑の世界の色の樣だ。

その灰色の空に壓迫されて、隣りの物置き小屋の低い家屋が見える。それがまたどうも自分自身の姿の樣に見える。その屋根を越えて、一本の立ち木の葉は落ちて、枝ばかりのが見える。ふと、義雄は氣がつくと、その木の枝にまたがせて、漬け殘りらしい大根が、一束ね、懸けられたまま、寒さうにしなびてゐる。

「あの大根の仲間はどこへ行つたらう?」かう渠は自問して、「井桁樓の廊下に並んでゐたやうな潰け樽の中だ」と、自答した。そして香の物のにほひと燒きもろこしのにほひとが義雄の神經に同時に復活して來る。そして最も人間らしく起つた聯想は、敷島がどうしてゐるだらうと云ふに始まり、あのイタヤ樹下のもろこし老爺――きのふは氣づかなかつたが――は、まだゐるか知らん? もう一度、あの、札幌を代表する百姓馬子等の呼び賣り姿を見たい。今一度、鐵工場の鐵の響きを聽きたい。かう考へて來ると、渠は市中を散歩して見たくなつて、銘仙の袷に銘仙の羽織のまま出かかつたが、どうも寒過ぎる樣な氣がするから、例の乘馬用にした洋服に着かへた。

燒け跡に、また新築中であつた北海道聽の建て物は、いつのまにか出來あがつてゐた。そこを通り拔け、灰色の寒風にインバネスの袖を吹かれながら、氷峰の社のそばの四つ角へ行く。

槲やナラの葉の、赤い色が褪せて、乾反り葉になつてしまつてから、やうやく色づくのだと云はれるイタヤもみぢも、その一と角に既に眞ツ赤に紅葉してゐる。然し、そのもとに店を出して、いい臭ひをさせた燒きもろこしの老爺の見馴れた顏は、どこへ行つたか、影さへも見えない。そのにほひが、義雄の初めて札幌並びに北海道に親しむ一つの手づるであつたのに――

且、そのすぢ向ふの鐵工場の柳の青い枝に對照して、義雄が常に見慣れた赤塗りの機關釜も、どこへ持つて行つたか、跡かたもない。

義雄はなつかしい思ひ出中の知己を二つも見失つたのに失望した。そして開墾者等が野生の樹木を殆ど全く切り去つた跡の市中を、かの植ゑ殘されて誰れもそのありかを知らないと云ふ桐の山でも探檢するかの樣な鼻息で、ただわけもなく歩きまはつた。

然しなつかしい曉きもろこしのにほひはどこにもしなかつたばかりでなく、カイベツの出盛りにはカイベツ。林檎、もろこしの盛りには林檎、もろこし。ココア、くるみの季にはココア、くるみ。漬け大根の節には漬け大根、の樣な物を馬の脊に載せて呼び歩く百姓馬子等の影も、もう、見ることの出來ない季節である。

義雄は、あの百姓馬子等は速かに變遷するこの地の季節をこの市街に送り込む神ではなかつたかと思ふ。それに離れたのは、義雄が曾て信じてゐた耶蘇教の神を棄てた當時の樣な心持ちだ。正義、博愛、平和、文明などいふ外形ばかり美しい幻影が破れた樣に、渠の空想してゐた札幌市中の樹影の美觀が滅してしまつた。

そして、枝葉の枯れ落ちた木の樣に、自分は赤裸々の自分だといふ感じにもどつて、大通り散策地の故黒田伯の銅像の前を横切る時、忍びに忍んでゐた灰色のおほ空から、今年初めての白い物がおほきな花がたになつてぽと/\と落ちて來た。そして、見る/\、義雄の歸りさきを遮ぎつて、一間さきが見えないほどに降り出した。

*    *    *

お鳥はまた義雄の下宿へ來て、留守居のつもりでか、ほどき物をしてゐた。義雄が東京で買つてやつたセルの衣物を被布に仕立て直して呉れいと云つてたのだが、それの半ばほどいてあつたのは全くほどいてしまつて、今や洗ひ古して色の褪めたぼろ衣物を解いてゐるところであつた。その少しづつほどけたのを奇麗に延ばし重ねてゐたところへ義雄が歸つて來たのだ。

「どこへ行てたの」と、かの女が出向へた時、義雄はインバネスの雪を拂ひながら、

「愉快ぢやアないか、このおほ雪は?」

「愉快どころか、かう寒うなつて!」かの女は自分の衣物の用意が足りないのを暗に訴へたやうだ。

義雄はインバネスをかの女に渡し、また洋服の雪を拂ひ、靴の編みあげを解いて、あがつて來た。

「氣分は、もう、直つたの?」かの女はこちらの後ろへ來て、「聲の調子までちごたやうだ。」

「‥‥‥‥」別に答へはしないで、渠が室に這入ると、絲屑や解き物で殆ど一杯にちらかつてゐるのを見つけた。かの女がそれをかたづけるのを暫らく立つて見てゐた。そして、破れたり、色が褪めたりして、餘り見ツともよくないぼろ切れにかの女が手をつけた時、義雄は何だかぷんと寢小便のにほひを思ひ出して、殆ど忘れてゐた妻とその度々生んだ子供といふ物を聯想した。そして、お鳥も何だか所帶じみて來たやうなのをあざけるつもりで、冗談ににツこり笑つて、姙娠を假定して、

「お若いのに、もう、おしめの用意が出來ます、ね。」

「ふン」と、お鳥はあまえた鼻聲を出し、額に皺を寄せ、立ちあがつて、義雄を見つめながら、渠を捉へて二三度力づよくゆり動かした。「そんなこと云ふと、聽かん!」

Chapter 4 of 19
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