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日の果て
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日の果て
梅崎春生
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翻訳 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 4 of 8

4

彼は顔に日光の直射を受け岩角によりかかり、背後に近づく高城伍長の軍靴の裏金が岩角にふれてかつかつ鳴る音を聞きながら、暫く歩を止めて佇んだ。跫音はだんだん近づいて来る。彼は振り返った。高城の顔色が、驚くほど蒼かった。

「お疲れになったのですか。中尉殿」

彼はじっと高城を見据えながら、今朝のことを考えつづけていた。隊長の半白の頭を見おろして立っていた時、彼は不意に悲哀の感じが瞬間であったが胸一ぱいになっていたのである。あの気持は何だろう。隊長を気の毒に思ったのではない。彼はゆっくりした口調で高城に話しかけた。

「今朝隊長から花田を殺せと言われた。誰か下士官をつれて行けと言うので、お前をつれて来た」

今朝、医務室で待っているとき、高城は室の外で兵隊を殴っていた。昨夜の彼の報告ぶりは変によそよそしく冷たかったが、あれは心の中でどんなことを考えていたのだろう。稚い正義観でそれがあるとするならば――しかし彼は高城の若々しい頬や色艶の良い腕首を眺め廻した。高城の澄んだ瞳がじっと彼の言葉を待っている。彼はかさぶたを一気に剥ぐような苛烈な快よさを感じながら、一言ずつ力をこめて言った。

「おれはこれきり、原隊に帰らないつもりだ。――花田にあうかあわないか判らん。おれは東海岸に行く」

「中尉殿」さえぎるように高城は叫んだ。顔が見る見る赤くなって来た。「中尉殿。それはいけません」

宇治はその叫びを冷たく黙殺しながら、岩角に身体をもっと押しつけるようにした。

「お前は逃げたければ俺と一緒にこい。逃げるのが厭なら、かえれ」

高城の顔から急に血の気が引いた。岩角に靴を鳴らし後にすざりながら、青く燃えるような眼で宇治をにらんだ。宇治は表情を微塵も動かさず、じっとその動作を凝視した。暫く沈黙がつづいた。日の光が背に熱かった。突然高城があえぐような声で叫んだ。

「私は帰ります」

「よし、帰れ」

宇治は叩きつけるようにさけんだ。高城は両踵をそろえて宇治に挙手の敬礼をした。挙げた手がぶるぶる慄えた。宇治も視線を外らさず一寸片掌を上げた。高城はむこうをむくと崖縁の道を歩き出した。笑いがそのまま宇治の頬に凍りついた。右手が腰に行き、そろそろと拳銃を抜き出した。崖は一本道である。高城は一度も振り返らず、肩が小刻みに揺れながら遠ざかって行く。陽炎のようなものが立つのか像はゆらゆらする。岩角に銃身を乗せ、宇治は身体を曲げて岩によりかかった。片眼を閉じて頬を岩肌にあて、指を撃鉄にかけた。照星の彼方に高城の姿が小さく揺れる。あと三十秒もすれば角を曲るだろう。今撃鉄を引けば必ず当る。腕に自信はあった。打つぞ、と彼は思った。が頬に貼りついた笑いが急に消えて、彼は何か重いものに堪えるような顔付になって頭を上げた。拳銃を力無く下におろした。その時高城は角を曲ったらしく急に見えなくなった。曲る時一寸此方に振りむいたらしい。しかしそれも判然しなかった。宇治はふしぎな表情を浮べたまま、じっとそこに立っていた。

暫く経った。彼は頭を強く振るとのろのろと歩き出した。顔色は依然として悪かったが唇を堅く結び眼付が険しくなったのが、かえって生気が出たように見えた。逃亡の意志を自分一人に秘めて置かず、相手が高城にしろ吐き出してしまったので、気分はむしろ楽になったようであった。今朝隊長が、誰か射撃のうまい下士官を連れて行けと言った時、宇治は直ぐ高城のことを憶った。高城が射撃がうまいかどうか彼は知らない。が、すぐ高城のことが頭に来たのは何故だろう。宇治はその時はっきりと逃亡の決意をかためていたのだ。だから最も逃亡に加担しやすい下士官を選ぶべきであった。それにも拘らず彼は高城をえらんでしまった。昨夜の高城が報告する時の表情が頭にしつこく残っていたのだ。それは冷たく感情を殺した顔だった。宇治には判っている。高城は上官である花田を憎んでいるのだ。女と逃げて帰らぬ花田に、まことに通俗的な怒りを感じているのだ。そして高城を選んだというのも、宇治は自分の逃亡に対する通俗的な非難と言わば対決したかったのだ。

宇治は欝々とうなだれて方途もなく無茶苦茶に歩いた。道は再び密林に入った。逃亡の意志を打明ければ、高城の取るべき途は、宇治と共に逃げるか、宇治に背いて帰るか、あるいは宇治を射殺するか、此の三つしかない。宇治は此の最後の場合を考えていた。(その時俺は高城を射つか黙って射たれるか、どちらを取るだろう?)彼はその事を考えたとき何故か疼くような快感を苦痛と一緒に感じていた。が、実際には高城は彼に背いて途を戻って行ったのだ。三時間もすれば原隊にたどり着くだろう。そして隊長に報告するだろう。そうすればあの人の好い隊長は激怒して追手をむけるだろう。それはすぐ頭に来た。だから高城を射殺しようと思ったのだ。しかしとうとう射たなかった。何故射たなかったのか。一度も振り返ろうとしなかった彼の疑いを持たぬ心が宇治を打ったのではない。宇治は賭けをしたかったのだ。更に追手が来る。宇治は自分の逃亡に対する外からの圧迫があればある程、反撥して自分の正当さを確かめ得るだろう。それが確かめたかったのだ。人知れず、難破を予感して船倉から逃れ出る鼠のように逃げたくはなかった。善いにしろ悪いにしろ邪魔物を押し分けて逃げたかった。抵抗を感ずることによって自らの行為を確かめたかったのだ。指で傷口を押し拡げることによって、傷の深さを確かめるように。――

三十分ばかり黙って宇治はあれこれと考え悩みながら歩いた。やがて道に沿った小部落らしいものが見えて来た。ニッパの屋根が樹々の間から見え隠れしたと思うと、道の曲りに沿って四五軒の汚い小屋が不規則な形で集っているのが宇治の視線に止った。荒れた感じなので久しく無人であることが一目で判った。宇治は肩を落しながら何となく其処に入って行った。籾を搗くきねが二三本床に転がっているばかりで柱ももはや朽ち始めていた。酢に似た匂いがうっすらと四辺に立ちこめていた。湿った地面を踏んで横手に廻ると、其処は羊歯の乱れ茂る間に傾き立った小屋であった。屋根から裂け下ったニッパの古葉の隙間から、その小屋の床に、何か黒い形のものが横たわっているらしい。思わずぎょっと右手で拳銃を押えながら、宇治は目を凝らして近づいた。それは日本の兵隊であるらしかった。

ぼろぼろになった襯衣をまとい、足を長く伸ばしてあおむけに横たわっていた。宇治が近づく気配を感じたものか物うげに頸を動かしたが、その顔には驚きとか喜びとかの感情は全く無かった。頬骨の出た色の黒い兵である。気がつけば胸の上に組み合された両手はほとんど肉が落ちて、筋だけが針金のように浮き上っている。枕許に水筒と食べかけのバイヤバスが萎びて転がっていた。どんよりした視線で宇治の姿を眺めている。痴呆めいた視線であったが、その眼すらも暗い影に隈どられていた。床に片足をかけながら宇治は暫く冷たい眼付でその男を眺めていた。片足に力を入れて床の上にあがった。柱と床がいやな音を立てて軋んだ。

「お前は何か」

男のぼんやりした表情は変らなかった。宇治は更に声を大きくして再び同じ問いを繰り返した。低いうつろな声が、ゆるゆるした調子で男の口から洩れて出た。

「病気であります」

宇治はかさねて所属部隊を聞いた。何か答えるらしかったが、判然としないまま男はだるそうに眼を閉じた。瞼を閉じながら胸に組んだ掌を僅か動かして、これは比較的はっきりした声音で言った。

「も一人いるのです。奥に」

宇治がそれについて視線を動かすと、ニッパの半壁を隔てて奥にも一つ部屋があるらしく、そこは樹々の梢が低く垂れているのか蒼黒く澱んだ色であった。その床にも黒くひとつの物体が横たわっていた。宇治はそちらに近づいて行った。近づくとそれもやはり兵隊であったが、宇治はぎょっとして立ちすくんだ。その男の顔から頭にかけておびただしく蝿がたかっていたのである。

(死んでいるのか?)

立ったままじっと見つめていると、床に垂れた手が極めてゆるやかに動き、そして顔のあたりに近づき、微かに蝿を追う仕草をした。蝿はぱっと飛び立ちぶんぶんなきながら、そしてそこらを飛び廻ったり柱に止ったりした。まだ死んでいるのではなかった。顔は刻んだように頬骨が立ち、ほとんど土の色であった。伸ばした脚にゲエトルがゆるみ、処々にぶざまな凹みを見せていた。生きているうちから蝿はたかるのか。宇治は口の中ににがく唾がたまるのを意識しながら眼をそむけた。男の顔には再び蝿が戻って止り始めるらしかった。所属を離れた兵隊、ことに見失った兵隊がこのように密林をさまよっているうちに飢餓のためあちこちに倒れて行くものらしかった。規律が僅かでも保たれているのは本隊付近ばかりで、それを一寸外れると此の漠々たる密林の中には、支柱を失った兵たちが修羅のように青ざめてさまよい歩くらしかった。その事は部下の兵などから聞き知っていたけれども、まのあたりに見た此の光景は、ある予感を伴って、宇治に堪え難く重くかぶさって来た。宇治はもとの部屋に戻って来ると柱によりかかり、大きく息をついた。その時気がついたのだが、奥の部屋からは既に屍臭に似た臭いが立ち始めていたのだ。疲労が肩に重かった。背骨の芯がズキズキと痛んだ。身体の節々がしびれるようであったが、その癖身体の内側が変に熱っぽかった。柱によったまま宇治はしずかに目を閉じた。

今朝の出発時の、逃亡の新鮮な意図が次第に重苦しい不快なものに変って来ているのを彼は感じた。今朝はまだ氷を力まかせに踏み破るような切ない喜びがあった。久しく欝屈したものが出口を見つけてほとばしるような気持であった。サンホセに入って一箇月間、絶えず求めていた逃亡の機会を、今朝はじめてはっきり掴んだと思ったのだが、あるいはそれが錯覚ではなかったか。昨夜高城の報告を聞いたとき、花田の現在の在り様が俄かに鮮かな感じで彼の眼底に浮んで来た。彼はその時重く静かな亢奮が湧き上って来るのを感じていた。その亢奮が心の底で逃亡という言葉と結びついたのは何時だろう。昨夜はいろいろな事を考え、長いこと眠れなかった。今朝当番兵の佐伯が彼を呼びに来た時すぐ彼は、それは花田の追討の命令であるだろうということを直覚していたのだ。

高城が戻ってしまってから暫く緊張していた心が、今になってくずれ始めて来た。

第一に彼には道が判らなかった。果して此の道をたどればインタアルに着けるものか、それも判らぬまま消えがちの途を無茶苦茶にあるいてここまで来た。そして今此の小屋に居る。このまま途を踏み迷うとすれば、あるいは此処にいる兵隊と同じ運命をたどることになるのかも知れなかった。糧食とても一日分しか持たぬ。歩いているうちに腹が減り、そして食を求めるすべがなければ、やはり力つきて道端に横たわり死を待つ外はないのだ。しかし此の道がインタアルへの道に間違い無ければ、――その時はまもなく追手が宇治に追い付くだろう。

(あの時、高城を射殺すればよかったのだ。おれは何をためらったのだろう?)

宇治は激しく舌打ちして眼を開いた。追手が来るという不安が次第にはっきりした形をとって胸の中に今拡がり始めたのである。しかしそれは今更思い悩んでも始まらぬことであった。小屋を出てすぐ歩き出さねばならない。危険が迫っている。かり立てられるような気持の半面、何か図太いものが身体の芯をじっと掴んではなさなかった。

善いにしろ悪いにしろ、と彼は立ったままぼんやり考えた。独楽のように、力尽きてたおれるまでは一所懸命廻っていなければならぬ!

突然、跫音が聞えた。びくっとして宇治は身構えた。

表の小屋の間を縫い、跫音は横手の濡れた地面に廻って来るらしい。宇治は注意深く耳をすましながら、右手で拳銃の銃把を握り、安全装置を外した。此処らは特に林相が深いので、梢洩る光線も海底のように青かった。空気を押し分けるように暗い人影があらわれて来た。宇治は驚いたような声を立てた。

「高城、ではないか」

宇治はしかし拳銃を握ったまま警戒の姿勢を動かさなかった。だんだん近づいて来る。高城伍長であった。宇治が立つ床のへりの直ぐそばに来て立ち止った。そして宇治を見上げた。宇治は黙って高城を見下していた。もともと色の白い高城の顔が、光線の具合で青く透き通るようだった。宇治を見上げたその長い切れ眼に、涙がいっぱいたたえられているのを宇治ははっきり見た。そう言えば近づいて来る時の高城の姿は、ほとんどよろめくようだった。疲労の極にある人のような衰えが高城の表情に漲っていた。何か言おうとして、そして言葉にならなかった。頬がびくびくと痙攣した、涙の玉が瞼から離れて頬に一筋辷り落ちた。宇治は身構えた姿勢を次第に旧に戻しながら、鼻筋にふとつんと突き上げるものを感じていた。しかしそれも瞬間のことで、彼は変に不機嫌な表情を作り、そして床の上の男を振り返った。男が何か言ったのだ。

Chapter 4 of 8
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