Chapter 1 of 4

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麻雀殺人事件

海野十三

それは、目下売出しの青年探偵、帆村荘六にとって、諦めようとしても、どうにも諦められない彼一生の大醜態だった。

帆村探偵ともあろうものが、ヒョイと立って手を伸ばせば届くような間近かに、何時間も坐っていた殺人犯人をノメノメと逮捕し損ったのだった。いや、それどころではない、帆村探偵は、直ぐ鼻の先で演じられていた殺人事件に、始めから終いまで一向気がつかなかったのだというのだから口惜しがるのも全く無理ではなかった。

「勝負ごとに凝るのは、これだから良くないて……」

彼はいまだにそれを繰返しては、チェッと舌を打っているところを見ると、余程忘れられないものらしい。彼が殺人事件とは気づかず、ぼんやり眺めていたという其の場の次第は、およそ次にのべるようなものだった。

*   *   *

それは蒸し暑い真夏の夜のことだった。

大東京のホルモンを皆よせあつめて来たかのような精力的な新開地、わが新宿街は、さながら油鍋のなかで煮られているような暑さだった。その暑さのなかを、新宿の向うに続いたA町B町C町などの郊外住宅地に住んでいる若い人達が、押しあったりぶつかり合ったりしながら、ペーブメントの上を歩いていた。郊外住宅も案外涼しくないものと見える。

帆村探偵は、ペーブメントの道を横に切れて、大きいビルディングとビルディングの間の狭い路を入ると、突当りに「麻雀」と書いた美しい電気看板のあがっている家の扉を押して入った。彼は暑さにもめげず大変いい機嫌だった。というのもその前夜で、永らくひっかかっていた某大事件を片付けてしまったその肩の軽さと、久しぶりの非番を味う喜びとで、子供のように、はしゃいでいた。三年こっち病みつきの麻雀を、今夜は思う存分闘わしてみようと思った。

「あ、こりゃ大変だ」

と帆村は、麻雀倶楽部の競技室のカーテンを開くと、同時に叫んだ。この暑いのに、文字通り立錐の余地のない満員だった。

「いらっしゃいまし。今日は土曜の晩なもんで、こう混んでんのよ、センセーッ」

麻雀ガールの豊ちゃんが、鼻の頭に噴きだした玉のような汗を、クシャクシャになった手帛で拭き拭き、そう云った。

「先生――は、よして貰いたいね、豊ちゃん。あの星尾信一郎氏は本当の先生なのに、あいつのことは、シンチャン、シンチャーンってね……」

「いけないワ先生」と豊ちゃんは、真紅に耳朶を染めながらそれを抑えた。「いま星尾さん、いらしっているのよ。そんなこと聞えたら、あたし、困っちゃうワ」

「困るこたァ無いじゃないか、豊っぺさん」と帆村はますます上機嫌に饒舌った。「こんなことは、聞えた方が目的は早く叶うよ。それとも僕、本当にシンチャンに言ってやろうか。豊ちゃんが実は昔風のなんとか煩いをしていますが、先生の御意見はいかがでしょうッてね。だけど僕のことをセンセといいませんて誓ってくれなきゃ、僕やってやらんぜ」

「そんなんないわ」

「豊ちゃん、記録ーゥ」と叫ぶものがある。

「ハーイ、唯今」とそれには答え、それから帆村の方に向き、低い声で言った。

「あのシンチャンのお仲間、今日もお昼からきて特別室でやってなさるのよ。帆村さんも、あっちへいらっしゃらない」

特別室というのは広間の隣りにある長細い別室で、ここには割合にゆっくり麻雀卓子が四台並べてあり、椅子にしても牌にしてもかなり上等のものを選んであり、卓子布子に、白絹をつかっているという贅沢さだった。帆村が入ってみると、どの台にも客がいた。一番窓際の卓子に、豊ちゃんの云った「例のお仲間」の四人が、一つの卓子を囲んで、競技に夢中になっていた。帆村は側らの長椅子に身を凭せて、しばらく席が明くのを待っていなければならなかった。彼は見るともなしに、「例のお仲間」の方に顔を向けていた。

「こんなに蒸し蒸しするのも太陽の黒点のせいだよ」と一番、入口のカーテンに近いところに背を向けて腰を下ろしている理科大学の星尾助教授が言って、麻雀の牌をガチャガチャと、かきまわした。

「太陽の黒点なんか蹴っとばせ、てえんだ。――やあ、いいものを引っぱってきた」と機嫌のよいのは、仲間の一人で、星尾助教授の対門にいる慶応ボーイで水泳選手をやっている松山虎夫だった。

「今日は、ちっともいいのが来ないわ」と松山の左手に坐っていた川丘みどりが、真紅に濡れているような唇をギュッと曲げて慨いた。そして象牙のように真白で艶々しい二の腕をのばして牌を一つ捨てた。

「それで和がりだ」と叫んで、自分の手を開けてみせたのは、「豆シャン」と綽名のある美少年園部壽一だった。少年といっても彼は大学の建築科二年だから、仲間の男の中では一番若かったが、川丘みどりは十九だったからこれよりは兄さんだった。

「園部さん、窓をあけてよ、暑いわ」みどりが「お狐さん」と綽名されているすこし上り気味の腫れ瞼をもった眼を、苦しそうにあげて云った。一番隅っこに居た園部は、立って窓をカタカタと上げた。強い風が窓からサッと吹き流れてきた。

ちょうど其の時、卓子の一つが明いたので、帆村はその仲間に入れて貰って競技を始めた。その席は、例のお仲間の卓子を正面に見るようなところだったので、彼は牌を握る合間合間に顔をあげて、星尾助教授の手の内を後からみたり、川丘みどりの真白な襟足のあたりを盗み視して万更でない気持になっていた。

それから帆村は、だんだんと競技に引き入れられて行ったので、例のお仲間連中の行動を一から十まで観察するわけには行かなかったが、あとから考えると、次に述べるようなことが、気にならないこともなかった。

第一は、麻雀ガールの豊ちゃんが入ってきて、星尾助教授の背後によりかかり、永い間積極的な態度をとっていたこと、それに対して星尾は、すこし迷惑らしい態度をしているのを知っておかしかった。

第二は、松山がスポーツ好みで、

「ええいッ」

と大声をあげて場に積んである麻雀牌をひっぱってくることだ。気を付けていると、その度に、彼は麻雀牌の面に刻みつけてあるしるしをギュッと強く撫でまわした。それがために、拇指の腹が痛くなりはしないかと思われた。これは彼の悪い癖である。

第三は、星尾助教授が、大きい和がりに躍りあがって喜んだ拍子に、隣りの園部の湯呑茶碗をひっくりかえしてしまったことだ。大騒ぎになって牌をどかせるやら、濡れたところを拭くやら、新しい卓子布を持ってこさせて、四人が四隅をひっぱって、鋲で卓子へとめるやら、うるさいことであった。一度は、

「吁ッ、痛ッ!」

と松山が大声で叫んだので、みると、指の尖端を口中に入れて舐めていた。なにか乱暴なことをやったものらしい。それを誰かが野次ったものらしくドッと笑声がわきあがったが、どうしたものか、其後一座は、たいへん静かであった。

「どうかしたの、みどりさん。どんな気持なんですか、ええ?」

園部が、その対門にいるみどりを頓狂な声で呼ぶのをきいて、帆村は何とは知らずハッとした。顔をあげてみると、どうしたというのだろう、川丘みどりの顔色が真蒼だった。常から透きとおるように白かった皮膚から、血の気がすっかり引いてしまって、まるで板硝子を重ねておいて、それを覗きこんだような感じがした。園部は、これも青くないとは云えない顔色に、憂るわしげに眉をひそめて、みどりの顔色をのぞきこんでいる。

「早く医者にみて貰いなさい、僕、すぐ呼んできたげるから……」と園部は、心配で心配でいても立っても居られないという様子だった。

「みどりさん、気分でも悪いのかい」

星尾助教授も競技の手を休めて言った。

「いいのよウ、直ぐなおるわよ」

「だけど、……そりゃ診て貰った方がいいですよ、ね、ね」と園部は今にも馳け出しそうな姿勢をするのであった。帆村は思いあたるところがあった。例の仲間のうちで、川丘みどりをスポーツ・マンの松山虎夫と、星尾助教授とで張り合っているという世間公知のかたわら、園部も実はみどりを恋しているのだという噂はチラリと聞きこんだことがあったが、それはどうやら本当らしい。

「お、お、おれは」と其の時まで独り黙っていた松山が苦しそうに呻いた。「おれは頭が痛い。眩暈がする。少し休みたい、ウウ」

そう云うと、彼は立ちあがり、フラフラと室を出ていった。

「いやに病人ばやりだな」と星尾が呟いて、意味なく笑った。

一本歯の抜けたような松山の空席が、帆村の眼に或る厭な気持をよびおこさしめた。それは不吉な風景である。折角こうして探偵たる気持をわすれて麻雀を打ち、のうのうとした気分になっている筈の彼の心は、いつの間にか掻き乱されているのを感ぜずには居られなかった。四人の面子が坐っている筈の麻雀卓から、一人が立って便所に行ったりすることは、よくあることではないか。それに自分は何故、こんなことを気にしているのだろう。だが、ふりかえって此の倶楽部にきたときからのちのことを考えてみるのに、自分は競技に夢中になりたいと思っていながら、実際は隣の卓子の様子ばかりを気にしていたではないか。彼は、この室に入って来た最初に、川丘みどりが、便所に立ったらしく一度席をあけたのを思い出した。しかしそのときは別になんとも怪しむ気にはならなかったのであった。それに今はどうして、気になるのであろうか。空席は同じ一つだが、今の場合は、みどりが気分のわるい様子で、ふさいでいるのが気になるのではあるまいか。若しそうだとすると、或いは自分も、本気でみどりを恋してるのかしら――園部や、星尾や、松山などと同じように。

松山といえば、どうして彼は帰ってこないのであろう。なぜに川丘みどりが真蒼になってから、急に松山も頭が痛むなどと病気になったのであろうか。果して松山は病気なのかしら。帆村の脳髄のうちには、何時の間にやら、さまざまの疑問が湧いているのに気がついた。いや、これは浅間しい探偵という職業意識である。今夜は仕事を忘れて、ただ麻雀を打っているのではないか。つまらんことは考えまい。――

そのうちに、取りのこされていた星尾と園部とみどりの三人は、もう勝負を争うことをあきらめたものか、卓子を離れて、この室を出て行った。帆村探偵は、ようやく安易な気持になって、競技に夢中になることができたのであった。

帆村探偵の卓子も、それから三十分ほどして、勝負が終った。最後の風に、莫迦あたりを取った彼は、二回戦で合計三千点ばかりを稼ぎ、鳥渡いい気持になった。卓子を離れるときに、あたりを見廻すと、どの卓子もすでに客は帰ったあとで、白い真四角の布の上に彩さまざまの牌が、いぎたなく散らばっていた。時計を出してみると、もう十一時をすこし廻っていた。

隣りの広間にも客はもう疎らだった。豊ちゃんが、睡そうな顔をして、近所の商店の番頭さんのお相手をしていた。

「豊ちゃん、さよなら」

「さよなら、センセ――じゃなかったホーさん」

「みんな、もう帰っちゃったかい」と、聞かでもよいことを帆村はつい訊いてしまった。

「お嬢さんに、園部さんにシンチャンは、今帰るからって帰ったばかりよ。松山さんだけ奥に寝ている筈よ」

「ナニ、松山さんは本当に病気だったのか」

と帆村は、意外だという面持をした。

「あら、どうして? 気分がとても悪いんですって。お医者を呼びましょうかって、先刻きいたんだけど、いらないって仰有ったのよ。シンチャン達、しばらく見ていなすったんですけれど、もう遅くなったし、帰るからあとを頼むって帰っちゃったんですわ」

「そりゃ、すこし薄情だな」

「だってシンチャン達、遠いのよ。松山さんだけは、直ぐそこだから、そいでもいいのよウ」

と豊ッぺは、シンチャン達の郊外生活に同情ある弁明をこころみた。

「じゃ、僕、みてってやろうかな」

帆村探偵は、傍の小扉をあけて、小さな階段をコトコトと下って行った。下り切ったところが狭い廊下になっていて、そこにだだっ広い室がある。そこは、この建物にいる皆の寝室だった。障子を開いてみると、果してそこに寝床が一つ敷いてあった。頭が痛いというのに、松山は頭から夜具をひっかぶって寝ていた。

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