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本庄恒夫と辰馬久は篠突く雨の中を夢中で逃げた。体を二つにへし折り、風に追われながら、夜の市街をひた走りに走った。その時、一緒に馳けていた辰馬久が、ふいと身を転して横町へ折れた。続いて曲ろうとした途端、本庄は行手の暗がりから、ぬッと出て来た大男が、辰馬の後を飛ぶ如く追跡するのを見た。
「危い! 捕りやしないか?」
ぎょッとして思わず心で叫びながら、立ち縮んだ。辰馬に誘われ、初めて行ってみた賭場に運悪く手入れがあって、二人は命からがらここまで落ちのびて来たのである。
今夜に限って、どうしたものか円タクはどれもどれも客が乗っていて、空車には一度もぶツからなかった。
もうこうなっちゃ仕方がない、どんなに夜が更けようと、ずぶ濡れになろうと、いよいよ小山まで徒歩いて帰らなくてはならない、と思っている処へ、有難い事に、一台の空車が通りかかった。朦朧ランプに照らされた空車の二字が目に入った刹那、本庄は救われたような喜びに我を忘れて合図の手を高くさし挙げ、停るのを待ち兼ねて、
「小山まで、――西小山だ!」と云うなりハンドルに右手をかけて、飛び乗った。
「あッ!」
忽ち何かに躓いて前へのめった。その拍子にぐにゃりと柔かいが、しかし弾力のあるあたかも護謨の如きものの上に、両掌と膝頭とを突いたのだった。
「何だろう?」
手探りでそッと撫で廻してみると、異様な感じがする。冷ッこいがすべすべした、まるで人肌だ。
生憎ルームの電燈が消えているので、車内は暗くって、硝子窓から、時折さし込む街燈の灯も、シートの下までは届かなかった。
「君、ちょっと、電気を点けてくれないか」
運転手は答えない。風雨に声を奪われて、聞えないものと見える。
「チョッ」
本庄は舌打ちしながらポケットを探り、マッチを擦った。と同時に、彼はマッチを放り出し、シートの上に尻餅をついてしまった。
人形? いや人だ、若い女だ。しかもそれが死んでいるのだ。余りの驚愕に全身凍ったようになって、叫び声すら咽喉を出なかった。ただ、はッと思っただけだった。次の瞬間には眼がくらくらとして、何も分らなくなった。体は妙に硬直って身動きさえ自由にならないのに、膝頭だけががくがくと震えて起ち上る力さえぬけてしまった。血生臭い香がプンと鼻をうつ。
軈て、少しく気が落ち付いてくると、恐いもの見度さに、もう一度マッチを擦って、蹲踞み込み、今度はようく見た。
やっと十二三位だろうか、立派な服装をした少女だった。顔は伏せているのではっきり分らないが、ウェーヴした断髪が襟足に乱れかかって、何とも云えぬ美しさだ。桃色のドレスの肩から流れ出ている血汐は、細そりした白蝋のような腕を伝わり、赤い一筋の線を描きながら、白いゴム・マットの上に滴り落ちて、窪んだ処へ溜っている。抱き起してみようと思って、そッと体に手を触れたら、ぬらぬらとした赤いものが、ベットリと掌に着いた。掌ばかりではない、よく見ると、ズボンの膝にも、ワイシャツの袖口にも血がねばりついている。血だらけだ。
本庄は考えた。これを人が見たとしたら、どう思うだろう。足許には死んだ女が転がっている、その傍には血に染んだ、ずぶ濡れの男が蹲っている、しかも興奮して――、となるとどうしたって、俺は有力なる容疑者、という恰好だ。馬鹿々々しい、こんな係り合いになっちゃ、それこそ大変だ。
彼は急に空恐しくなって、逃げ出そうと思った。走っている車から飛び降りる積りで、扉に手を掛けた、が、また考え直して止めてしまった。
崩折れるように腰を下すと、ほうッと大きな溜息を吐いて、思わず心に呟いた。俺の知った事ッちゃないんだ。ただ、この円タクに乗り合せたというだけじゃないか、犯罪直後に運悪く乗った、それだけの事だ。嫌疑がかかったっていいじゃないか、逃げ出す必要がどこにあるんだ。
それよりもだ。死美人と合乗りして深夜の街路を走る。こんな珍らしい廻り合せがめったにあるもんじゃない。この幸運をむざむざと見捨てて、逃げ出そうなんて、――勿体ない! 何という愚かな考えを起したものだろう、と、彼の異常な好奇心はそろそろと頭を擡げてきた。
そうなるともう怖しいとも何とも思わなかった、むしろ与えられたこの絶好の機会を利用して、充分に日頃の猟奇的満足を得ようとさえ思うのであった。
その時、屍体が少し動いたように見えた。続いて、弱い、溜息に似た声を出した。
「オヤ、蘇生ったのかな」
本庄は慌てて唇に手をやった。慥かにまだ息がある。手首を握ってみると、最初は殆ど分らないほど微かだった脈が、段々はっきりと指先に触れてきた。どうやら温味も戻って来るようだ。
「まだ、死んじゃいなかったんだ!」
有難い! 息を吹き返したとなると益々面白いことになりそうだ。
運転手が何も知らないのを幸に、この少女を彼は自分のアパートへ連れて行こうと決心した。そうして介抱してやることが、また発見者たる者の義務ででもあるように思われる。
彼は少女を前にして考えた。運転手に知れないように運び出すとしたら、どういう方法を執ったものだろうか、下手をやって感付かれたら事だぞ、きっと警察へ訴えようと云い出すに定っている、警察に。――冗談じゃない、そんな馬鹿な事が出来るものか。やッと逃げて来たばかりじゃないか。――
しかし、全然気付かれないという方法はあるまい。人間一人を担ぎ出すのに、いかに小さな女だって、容易な事ではない。と彼は頻りにそれについて頭を悩ませていた。
車が花柳界の近くを通っている時、見番の灯を見て、ふとある名案を思いついた、そこで小山アパートまで乗り着けずに、途中で車を停めさせて、
「あすこの見番で、――これを崩して来てくれ」
と云って、運転手に五円札を渡し、
「生憎、細かいのがなくって。――」と故意と独言のように附加えて云った。
運転手が札を手にして、雨の中を馳け出して行くのを見定めてから、本庄は死んだ蛇のようにぐったりとなっている少女を抱き上げた。小柄だが持ち重りがして、小脇に抱えているのはなかなか骨が折れる。気が急くので肩に引っ担いで歩いた。泥濘に靴が吸いついたり、辷べったりしながら、漸ッとの思いでアパートの階段に辿り着き、自分の部屋まで運んで、取り敢えず壁際のベッドの上に横え、始めて電気の下で少女の顔を見た。
何という可愛らしさだろう、まるで眠っている西洋人形だ、細面で、頤から首筋へかけての皮膚が滑べこそうで、東洋人には珍らしい濁りのない白さだ。睫毛に覆われた眼は切れが長いらしく、開いたらどんなに美しかろう、本庄は思わず低い歎声をもらして見惚れてしまった。
可哀想に、――彼女の洋服は胸から肩へかけて、血のりで肌にねばり着いている。鋭利な短剣か何かで、グザと突刺したのだろうが、酷いことをしたもんだ、こんな天使のような少女を傷つけるなんて。――この出血の工合ではよほどの重傷を負うているに相違いないが、どこに傷口があるのかはよく分らなかった、多分左の肩辺りらしいので、とにかくそこへ自分の半をふわりとかけてやった。
微かな呼吸はしているのだが、少女はなかなか意識を取り戻さない。少し心配になってきた。
「医者を招ばなくっちゃ、いけないかなあ」と思った。幸い今年医科を卒業したばかりの親友が、近所に引越して来たのを思い出した。
「そうだ。彼奴に頼もう」そう気が付くと慌てて外へ出た。外へ出てから先刻の円タクの事を思い出したが、もう車はどこにも見えなかった。彼は雨に濡れながら、逸散に馳け出した。
ぐっすり眠込んでいる友人を叩き起して、
「君、危篤の病人なんだ。直ぐ来てくれないか?」
「危篤だって? 誰が?」と蒲団から首だけ出して、眼を閉ぶったまま、眠むそうな声で訊いた。
「誰でもいい。そんな事は後で話す」
「患者は男か? 女か? 俺や、夜中に叩き起されることを思うと、医者になるのを止めッちゃいたくなるよ」
友人は渋々起きたが、よく眠っていたところを起されたので、頗る不機嫌だった。
「後で委しい事は云うよ。まあ、早く来て診てくれ。こうやっているうちにも、――手遅れになって、死んじまってるかも知れないんだ」
「君は非常に興奮してるね、――俺やちッとも知らなかったよ。君にそんな女があるたあ」
「俺の女じゃない」
「人の女を夜中に引張り込むのは怪しからんな」
「止せ。そんなくだらない事ッちゃないんだ。人一人の生命だ。冗談じゃない」
雨は小降りになったが、北風が少し寒かった。本庄は先に立って大跨で飛ぶように歩いた。
アパートの階段を馳け上り、自分の部屋に飛び込んで見ると驚いた。ベッドに寝ていたはずの重傷人は煙のように消え去っている。が、夢でない証拠には、真紅の花を撒き散らしたように、シーツの上に血の跡が点々と残っていた。
驚いたのはそればかりではない。室内は勿論、戸棚から本箱から悉く引掻き廻され、抽斗という抽斗は全部開け放しになっている。書類はあっちこっちに飛び散り、床の上に転がされてあるインキ壺からは、黒いインキが毒々しく流れ出して、床を汚している。本庄が出かけた後に何者かが忍び入り、家探しをした上に、少女を浚って去ったに違いない、それにしてもこの部屋の荒しようはどうだろう。足の踏み場もない。奮然として棒立ちになっているのを見て、友人は嘲笑を唇に浮べて云った。
「怖しく散らかしたもんだな。――して、その危篤の女はどこに秘してあるんだね?」
彼はむッとして、ぶッきら棒に答えた。
「畜生! ご覧の通り逃げちゃった!」
「一体これやどうしたッてんだ? 泥棒が入ったんじゃないか? 金があるもんだから。――」
「金なんかあるもんか」と云ったが、今日は月給日だった。ふだんなら机の抽斗に入れておくのだが、運よく持って出掛けたので助かった。
「だって君、泥棒に入られるなんて、景気がいいじゃないか」
本庄は苦笑して答えなかった。
「よく注意して調べて見給え。きっと、何か盗まれてるぞ。帰りがけに俺が交番に寄って、話しといてやろう。一応訴え出ておいた方がいいぜ」
彼は慌ててそれを制止した。
「大丈夫だ。盗まれるようなものは何もありゃしないんだから、放っといてくれ。面倒だから、――だがな、こうめちゃめちゃに掻き廻されちゃ、後片附が大変だなあ」
「引越しだと思いやいいやな。ところで、――と、もう俺の用事はなくなったって訳だね。じゃ、帰るよ」
大きな欠伸をしながら、友人が立ち去るのを見送ってから、本庄はもう一度戸棚の中へ首を突込んで見た。ベッドの下をも覗いて見た。もし仮りにだ、自然に意識を取り戻し、この意外な場所に彼女が、彼女自身を発見したら、必ず逃げようとするに違いない、が、あの重体では歩けまいから、この室のどこかに隠れているのではあるまいかと思ったのだが。――
「してみると、やはり、浚われたのかなあ」
彼は失望した。そうして理もなくむしゃくしゃと腹が立って、運転手に渡した五円紙幣までが忌々しくなった。――だが、あの半死の少女を浚って行く泥棒もあるまいじゃないか。これは普通の泥棒ではない、きっと何か計画んでいるんだろう。殊によると今夜の行動を最初から見ていて、僕の弱点に附け込み、金品を強請ろうというのかも知れない。しかし、それにしても少し変だ。強迫するとしたらば、何故少女を浚って去った? その理由が分らない。
だが、一体あの血だらけの少女は何者だろう? 服装も立派だった、容貌にもどこか犯し難い気品があった、高貴の人である事は一目で分かる。これには確かに何か深い仔細があるに相違ない。犯罪の裏面に潜む秘密、それを探ってみたら、嘸ぞ面白い事だろう。
彼はベッドの端に腰かけて、考え続けているうちに疲労れてきて、その儘ごろりと横になった、血の着いたシーツを取り代えるのももう億劫だった、が、寝てみるとまた妙に頭が冴えて眠つかれなかった。