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しかし、こうして打解けているのは表向きで、二人の魂はかえってしだいに遠ざかっていくのではないか、というような寂しい思いが林之助の胸に湧いた。口では何とも思っていないと言うものの、向島の一件はまだ自分の胸の奥にわだかまっている。お絹もお里のことを忘れたのではあるまい。たがいの胸に思うことを抱いていながら、それを押し隠して美しく附き合っている、それがすでに他人行儀ではあるまいか。たがいの思うことを遠慮なく言い合って、泣いたり笑ったりした昔の方が林之助はいっそ懐かしいように偲ばれた。打解けていながらだんだん離れてゆくような寂しい心持ち、それを林之助は我ながらどうすることも出来なかった。どうしてこんな心持ちになったのか、それも自分には判らなかった。
お絹の胸にも不安のかたまりが鉛のように重く沈んでいる。おとといの晩の気まぐれは自分でも深く後悔している。自分の男は林之助のほかにないという事がつくづく思い沁みた。殊にきのうの煩らいから、彼女は急に気が弱くなった。
医者にも大事にしろと言われたが、けさから身体に悪寒がして、胸のあたりが痛んでならなかった。咳をするたびに、あばらへ強くひびいて切なかった。彼女はからだの悩みの重なるに連れて、いよいよ林之助が恋しくなった。
それにつけても、向島の一件を林之助が案外手軽く聞き流しているのが不安であった。お花やお若のおしゃべりが何を言ったか知れたものではない。それを林之助はどう聞いたか、なんと思っているのか、なまじ、何も言わずに打解けた様子を見せているだけに、心の奥底が知れなかった。
お絹も林之助もこうした別々の心をもちながら、日の暮れる頃まで仲よく話した。あまり長く起きていては悪かろうと、お絹を寝かして林之助はそっと帰った。
「姐さんに気をつけておくれよ」と、林之助はお君に頼んで路地を出た。
暗い雨の音が、傘をたたいて、本所七不思議の狸でも化けて出そうな夕暮れであった。薄ら寂しくなった林之助は、これから屋敷へ帰って余りうまくもない惣菜を食うよりも、途中でなにかあったかいものでも食って行こうかと思った。お絹が起きていれば無論いっしょに食うつもりであったが、病人の枕もとに坐って自分ひとりで食う気にもなれないので、彼はそのまま出て来たのであった。お絹の家にいる時にたびたび食いに行ったことがあるので、林之助は近所の軍鶏屋へはいった。
彼は一人でちびりちびりと酒を飲んだ。
十
その晩の四つ(十時)過ぎに、林之助は屋敷へ帰った。
「どうも遅くなって済まないね」
門番のおやじに挨拶して、彼は自分の部屋にはいった。うすら寒い雨の夜をあるいて来て、内へはいると急に酒の酔いが発したらしく、彼はかっかとほてる頬をおさえて自分の小さい机の上にしばらく俯伏していた。それからしずかに起ちあがって、戸棚から蒲団と衾をひき出した。彼は蒲団の上に坐り直して今夜のことを考えた。
彼は両国の軍鶏屋で一人さびしく飲んでいた。しだいに酔いがまわって来るに連れて、彼はお里のことをふと思い出した。雨の降る日にでも遊びに来てくれとささやかれた甘い言葉を、又しても思い出した。きょうの雨で花火はお流れになって、列び茶屋も大抵休んでいることを彼はさっき見て知っているので、お里は家にいるに相違ないと思った。
「これから行って見ようかしら」
林之助はふらふらとそんな気にもなった。お絹の影が彼の頭から消されたのではなかったが、酔っている彼は、なに、かまうものかと大胆に構えた。単にお里の家へ寄って来るだけのことならば、別に子細もない筈だと彼は自分で理屈をこしらえてしまった。勘定をすませて表へ出ると、秋の日はもう暮れ切って、雨戸を半分ひき寄せてある町屋の灯の影が暗い往来を淡く照らしていた。雨は相変らず、むせぶようにびしょびしょと降っていた。彼は傘をかたむけて外神田まで濡れて行った。
このあいだの晩お里に教えられた通りに、横町の酒屋の狭い裏へはいると、右側に小さい二階家があって、格子と台所とが列んでいた。林之助はそっと格子をあけると、内では鈴の付いた鋏を置く音がきこえて、入口の障子がさらりとあいた。うす暗い行燈の灯の影をうしろにしているので、出て来た人の顔はこっちによく見えなかったが、「あら」と可愛らしい女の声が彼女であることを林之助はすぐ覚った。お里はいそいそとして、この若い侍を内へ招じ入れた。二階家といっても、俗にいう行燈建で、上下ともにひと間ずつしかないらしく、階下の六畳には古いながらもよく拭き込んだ長火鉢を据えて、茶箪笥が行儀よく列んでいた。小さい神棚には燈明の灯が微かにゆらめいていた。
「こんな穢いところで……」と、お里は恥かしそうに言い訳をしながら、綴じくっていた小切れを片付けて薄い座蒲団を出した。林之助は長火鉢の前に坐らせられた。お里は茶をいれて、振出しの箱のなかから金平糖などを出した。
「それでもよくいらして下さいましたね」
お里は嬉しそうに言った。おふくろは近所に百万遍があって、あかりが点くとすぐに出て行ったから、四つ過ぎでなければ帰るまいとのことであった。
相手が迷惑そうな顔を見せないので、林之助も腰を落ち着けてゆっくりと話しはじめた。しかしこういう家へふらりと遊びに来て、先方の茶や菓子を食って唯べらべらとしゃべっているほどの野暮でもないので、林之助は鮓でも取ろうと言った。ついでに酒を買って貰いたいといって、幾らかの銀を出した。
「降るのに気の毒だね」
「なに、隣りの子に頼みますから」
隣りの女の子に使いをたのんで、お里は鉄瓶の下に炭をついだ。小降りにはなったらしいが、雨はまだしょぼしょぼと降っていた。百万遍の鉦らしいのが雨の中にきれぎれに聞えた。
「秋の雨はなんだか陰気で寂しゅうございます」と、お里は錦絵の花魁を貼ったうしろの壁を見かえりながら言った。
自分はいったい陰気な質であるが、こういう日にはなんだか引き入れられるように気が滅入って、自然に悲しくなるなどと話した。きょうの花火がお流れになって、お前ばかりでない、みんなも陰気な顔をしているだろうなどと、林之助も言った。話はだんだんに暗い方へ糸を引かれて行って、このあいだの晩の続き話のように、お里は自分の頼りない身の上を語り出した。親ひとり子ひとりでほかには力になってくれる身寄りもないと、彼女は訴えるように言った。殊に母は病身であるから、いつどんな悲しいことが落ちかかって来るかも知れないなどと、心細いように言った。
話はいよいよ沈んで行った。
うす暗い心持ちでお絹の家を出た林之助は、ここで又こんな滅入った話を聞かされるのは辛かった。彼は陽気に冗談の一つも言って見たかった。店にいる時もおとなしいという評判の娘ではあるが、自分と二人ぎりの場合はいよいよおとなしい、むしろ陰気なくらいに沈んでいるのが、林之助にはなんだか物足らなかった。しかし、いかにおとなしいと言っても、もともとが水茶屋の女である以上、ひと通りのお世辞や冗談ぐらいが言えないのではない。それが自分に対してはいつもまじめ過ぎるほど堅気らしく附き合っているのは、さすがに通り一遍の客とも思っていないのであろうかというような、一種のうぬぼれも林之助をそそのかした。又そればかりでなく、心の弱い彼としては、こうした涙の多い話はうわの空で聞き流していることは出来なかった。彼は次第にその話の底の方まで引き入れられて、おのずと涙を誘い出された。
そのうちに鮓が来た。お里はすぐに燗の支度をした。自分はちっとも飲めないと言ったが、それでも無理に二、三度は猪口を受取った。林之助も飲んだ。酒の酔いが若い二人を誘って、だんだんに明るい華やかな方へ連れ出した。林之助も軽い冗談をいった。お里も袂を口に掩いながら笑った。彼女はもう酔ったといって、夢見る人のようにうっとりとしていたが、雨の音がざっとまた強くなったので、お里は縁側へ出て、まばらに閉めてあった雨戸をばたばたと閉め切ってしまった。林之助も起って手伝ってやった。
「どうも済みません」
「なあに、ここの家へお婿に来たんだから」と、林之助はお里の肩を軽くゆすって笑った。
どこかで雨漏りがするらしく、天井の裏でときどきにしずくの落ちる音がほとほとと聞えるのも寂しかった。紙のすすけた行燈の灯は陰ったようにぼんやりと暗かった。二人はしばらく黙って火鉢の前にむき合っていた。
四つ少し前に林之助は帰ったが、阿母はそれまで帰って来なかった。今夜も林之助は幾らか包んで置いて帰った。
林之助は蒲団の上で、これだけのことをそれからそれへと繰り返して考えた。お里と自分とは、もう切り放すことのできない羇絆が結び付けられたことを観念すると同時に、彼は言い知れぬ悔みと悩みとにひしひしと責めつけられた。こういう場合に大抵の人が試みるように、彼もそれを酒の科にかずけて、自分の重荷を軽くしようと努めた。しかしそんな卑怯なことで、自分の胸が安まろうとはさすがに思われなかった。
「おれは意気地がないな」と、彼は枕をつかんで自分をあざけった。
自分のふるい友達のなかには三人五人の堅気の女をだまして振り捨てた者もあった。吉原の女郎を欺して住み替えさせて、その金で芸者と駈落ちをした者もあった。しかし、自分はゆく先きざきで恋をあさって歩くような人間ではなかった。あとにもさきにもたった一度お絹と恋に落ちて、その罠から抜け出すことができないで、今ももがいているではないか。それがまた別の新しい罠にかかって、更に首を絞められてどうするのか。彼はつくづく今夜のおのれを悔まずにはいられなかった。そうして、あまりに正直に生まれ過ぎたおのれを歯がゆく思わずにはいられなかった。宵に軍鶏屋を出たときの勇気と大胆とは、今の林之助の頭からは吹き消したように消え失せていた。
「こうなればお絹を捨てるか、お里にそむくか」
二つに一つに決めてしまわなければ、彼は一日も安心していられないように思われた。両手に桃桜などという洒落れた詞は、林之助にはいっさい不通用であった。彼は桃か桜か、そのひと枝を大事に守っていなければ気が済まなかった。ものすごい蛇の眼を恐れていながらも、まったくお絹を見捨て得なかったのも、こうした正直な心のわずらいであった。世間普通の人の眼から見たらば、多寡が蛇つかいの女と水茶屋の女と、そんな女の二人や三人がなんだと言うかも知れない。それができないのを林之助はくやしく思った。腑甲斐なく思った。意気地なしだとも思った。彼はそこに自分の美しい魂を見いだし得ないで、かえって自分の馬鹿正直さが情けないようにも思われてならなかった。
それでも彼はやはりその美しい魂に支配されていた。どちらかの女に対して自分の罪を詫びて、あきらかに一人を捨てて一人を取ろうと決心した。しかも、これまでの行きがかりから言うと、彼はどうしてもお絹を裏切ることはできなかった。お絹の呪いも怖ろしかった。
「なぜ今夜お里を訪ねたろう」
どう思い直しても、彼は今夜のおのれを悔まずにはいられなかった。彼の涙は枕の上にはらはらとこぼれた。
彼はまぼろしのように眼の前にあらわれて来たお里のおとなしやかな顔にむかって、手をあわせて幾たびか詫びた。
彼を安らかに眠らすまいとするように、雨は大きい屋根の瓦を夜通し流れて、軒の大樋に溢れるような音を立てていた。
十一
それから三日ばかりは御用繁多で、林之助は屋敷を出られなかった。九月にはいって晴れた空がつづいた。きょうは夕方から深川に発句の運座があるので、まずお絹の病気を見舞って、それから深川へまわろうと、彼は午さがりに屋敷をぬけ出した。
往来の人はみな袷を着ていた。林之助も新しい袷を着た。澄み切った青い空に秋の風が高く吹いて、屋敷町には赤とんぼの群れが目まぐるしいほどに飛び違っていた。鷹匠が鷹を据えて通るのも、やがて冬の近づくのを思わせた。町へ出ると、草鞋を吊るした木戸番小屋で鰯を買っているのが見えた。
柳橋の袂で林之助は友達に逢った。彼はやはり浅草の或る旗本屋敷の中小姓を勤めている男で、これも今夜の発句の会へ出る一人であった。彼は梶田弥太郎といって、林之助よりも三つばかり年長であった。