夫婦の情
私にとっては、まったく一つの奇蹟であった。長男が生れたのは、終戦後、追放をうけて、だしぬけに空虚閑散な境遇に落ちつき、残る人生について、本気で考えねばならぬような状態に立ちいたったときである。十余年前、『親馬鹿の記』を書いたときの私には、まだ心のゆとりがあり、自嘲的な言葉にも、人生を諷刺するだけの稚気があった。
しかし、今となると、そうではない。自分が追放中に生れたということにも多少の感慨はあったにもせよ、むしろこの世に生をうけた小さな生命に対する愛情の切なさだけが止みがたきものに変っているのである。
それは病躯を支えて、ともかくも此処まで生きのびてきた自分が、もはや青春の仮説の外に遠くはみだしていることを意味する。前述の『親馬鹿の記』の中で、私は次のごとき感慨をもらした。
「前には子供が四つか五つの頃まで、どうにも父親としての決心がつきかねて困っていたが、今となると押しも押されもしない父親である。この分でゆけば子故の闇に迷うという芸当だって、それほど至難ではなさそうである」
このような太平楽を、何の屈託もなしに平然と口にすることのできた自分の浅墓さに私は憤りをかんじないではいられぬ。
この気持を明かにするためには、十六年振りで長男の俵士が生れたときの私の環境がどんなものであったかということを先ず説明しなければならぬ。私は当時(昭和二十三年)伊東に疎開したまま、すでに六七年ちかい年月を過していた。私の胃潰瘍は極度に悪化し、日夜、死の危険におびやかされているとき、だしぬけに時の内閣官房長官西尾末広名儀による追放令書が通達された。
私は、そのことを格別気にしてはいなかった。むしろ、これで、やっとしめくくりがついたという気持が、今まで心の一隅にうごめいていた処理のつかぬ感情を根こそぎに払いのけて、自分でも不思議なほど、どっしりとした落ちつきが、一日ごとに私の生活の上にあらわれていた。
三月下旬だったか、ある日の夕方、私は、私の疎開地である伊東の漁師街に住む鈴木福男という青年の来訪をうけた。雨の日だったことをハッキリおぼえている。彼は私の出てくるニュース映画を街の映画館で見たことを報告に来たのである。
当時の私は、慢性胃潰瘍のために、見るかげもなく痩せおとろえてしまっているし、それがために一日の大半は胃の幽門部に鈍痛をおぼえ、それが、しばらくつづいたと思うと、こんどは濡れ手拭をしぼりあげるような急激な痛みに変ってくる。頬はこけ、眼の下にふかいたるみが出来た上に、皮膚の色はどす黒く濁っていた。鏡を見るごとに味気なさが身に沁みるようである。十六貫あった体重が、やっと十貫そこそこになり、少し風のつよい日に川ぞいの道を歩いていると、うしろから吹きつける風に煽られて身体ぐるみ宙に浮いたまま、二三歩前へよろけてから、やっと踏みとどまる癖がついてしまった。
私は、鈴木君からニュース映画のはなしをきいて、おそらく自分の顔が写真にうつるのもこれが最後であろうと思った。それに、明日になったら妊娠中の女房を入院させようと思って準備していた矢先だったので、私は女房をつれて自分の出てくるニュース映画を見ようという気持になった。いよいよ自分の文学的生涯も、これで幕をとじたというかんじなのである。当時の私には、そういう誇張した感情にも、ぬきさしならぬものがあった。
私は、東京にいる頃からそうだったが、まだ女房と二人で映画を見たということは一ぺんもない。
それが追放令をうけとった直後、自分の出てくるニュース映画を見ようというのであるから感激は一層ふかい。鈴木君が帰ると私たちは傘をさして、ゆっくりゆっくり川ぞいの道を歩きながら街へ出た。女房の腹は、もうあと一週間で出産というところまで来ている。街の産婆たちは、みんな生れるのは女の子にちがいないといっていた。
川ぞいの道を街へはいるまで、私たちは一つの傘の中にはいり、私はうしろから彼女の肩を抱えるようにして歩いた。何となく、うらぶれた思いでもあるが、夫婦の情愛というものをこれほどしみじみとかんじたことはない。
映画館に入ると、私たちはいちばん隅の空席に腰をおろした。戦争前につくられた志賀直哉原作の『赤西蠣太』という時代物が終ったところである。使い古してすりきれたフィルムの動きまでが、うらぶれた自分の姿にふさわしい。
それから、すぐニュース映画がはじまった。最初は宮城前の広場を進駐軍の兵隊が駈け足をしている写真が映り、それが海岸の風景に変ったとき、私が煙草を喫うために下を向いて、マッチに火をつけようとすると、横にいた女房が、
「あっ、丹羽さん」
と早口にいった。慌てて顔をあげた私の眼に、大きな建築の入口の階段らしいところを急ぎ足におりてゆく着物を着た男のうしろ姿が映った。動きが早すぎるので、それが丹羽文雄君だというかんじはしなかったが、画面が変ると、こんどは広い屋敷の庭先きがうつり、スプリングコートを着て帽子をかぶった男の姿が、私の視野をかすめたと見るまに、こんどは広い縁側を前にして机の前に坐っている別の男の姿がうかびあがった。
その男が顔をあげると火野葦平君である。そこへ庭先きから入ってきた男が、縁側に腰をおろし、急いで帽子をとった。それが、自分であると気がついたのはスクリーンの人物の幻像が消え去ってからである。とたんに、トーキーの声が追いかけるようにひびいてきた。「かつて、はなやかなりし彼等も今や追われる身の上となったのであります」
私は暗い観覧席で苦笑いをうかべた。その晩から女房の容態が変ってきた。赤ん坊がうまれることは、もはや絶対の運命である。もし、順調に胎児がうまれたとすれば、男か女かよくわからないにしても、子供が十歳になるときに私は早くも六十である。あと十年、この身体が保てるかどうか。おそらく私は生きてはいまい。私は、ときどき灰色の雲の低く垂れ下った川岸に、ちゃんちゃんこを風に吹かせながら、うしろ向きに立っている子供の姿を幻覚の中にハッキリ見るようになっていた。生命の河である。運命の限界がそこにあり、そのひとすじの河によって遮られた人生の行手には唯、際涯もなくひろがる無があるだけである。