Chapter 1 of 6

Chapter 1

『あばよ、芝よ、金杉よ。』

子供の頃、一緒に遊んでいた町の子達と別れる時、よく私達は歌のように節をつけて、こういった。

私は麹町の富士見町で育った。芝といえば――金杉といえば――大変遠いところのような気がした。

『あばよ、芝よ、金杉よ。』

今でも、この一句を口ずさむと、まだ電灯のなかった、薄暗い、寂しい、人通りの少ない、山の手の昔の夕暮が思い出される。

その芝というところと私が関係を持つようになったのは、三田の慶応義塾へ通うようになってからであった。

私が下町の放浪生活をやっている時代であった。新佃島の海水館という下宿に、ただ一人で寝起をしていた頃、或日、永井荷風君から電話がかかって来た。森鴎外先生が慶応義塾の文科の顧問になられたについて、自分も三田へ教えに行くことになったが、君にも出てもらいたいという先生のおことばだから、宜しくたのむというのである。

私は帝大の課程こそおえていたが、学校の教師になろうなどという考えは毛頭なかったし、またなれるという自信もなかった。併し、鴎外先生のおいいつけだというのがうれしくて、直ぐと承知してしまった。

それから、一週に二時間ずつ三田の文科へ劇文学の講義をしに行くことになった。尤も、教務からは何の講義をしろという命令もなかったのである。時間表には、いつもただ「英文学」と書いてあった。

慶応義塾へは、それからずうっと――その間に、向うから休ませられたり、こっちから休んだりしたことはあったが――兎に角、大震火災の年まで通い続けた。

慶応義塾の生活では、なんといっても、ヴィッカアス時代が、一番なつかしい。ヴィッカアス時代というのは、今の大ホオルの後にあるヴィッカアスと称えられる小さな独立会館が、文科の教室になっていた時代のことである。

多分昔いたヴィッカアスという外人教授の舎宅か何かであったのだろう。二階建の旧式な洋館で階上階下とも部屋は四つ位しかなかった。二階は三つの部屋が教室にあてられて、他の一つが物置きになっていた――私はこの部屋に、三田文学の返品がむごたらしく荒縄に縛られて、山のように積まれていたのを覚えている。それから、のん気な学生が袴をここに投り込んで置いて、学校まで着流しで来ては、よくここでこそ/\袴をはいているのを見た。

階下は部屋の一つが職員の食堂にあてられ、他の一つが学生の小さな集会場になっていた。他の部屋はコック部屋にでもなっていたのだろうか、記憶が甚だぼんやりしている。

その時分の文科の学生は誠に少なかった。小さな部屋で膝と膝を突き合わせて、教師も生徒もなしに、懇談をする、というような状態だった。

或時、博文館の「太陽」が募集して、私が選をした懸賞脚本の話をしていると、一人の学生がおど/\しながら、その選にはいった脚本の一つは、実は自分のだとふるえ声でいった。それが今の久保田万太郎だった。

或時、一人の学生が芝浦の料理屋から教室で講義をしている私のところへ、車夫に手紙を持たせて、講義なぞは好い加減にして早く飲みに来いといってよこした。その学生が今の佐藤春夫だった。

Chapter 1 of 6