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ひとりすまう
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ひとりすまう
織田作之助
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翻訳 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 3 of 4

3

その夜が明けて朝食前。明日子が湯に行った隙に轡川はぼくの部屋に来て、未だ寝床の中にはいっているぼくの枕下に坐ると、にこにこしながら、

「あなたは非常に魅力のある風貌をもっている。明日子がそう言ってましたよ」といった。ぼくは表情に困った。というのは、明日子にそういわれていることが些か嬉しくもあり、又照れたのだが、轡川が明日子の事など言い出したのはどういうつもりだろうと、考えると、うっかりした表情も出来まいと思ったからなのだ。それでなるべく苦い顔をする様にしていると、彼は、

「いや、ぼくは昨日一日ですっかりあなたに惚れこんでしまいましたよ。尊敬といってもいい位です。一つぼくの友達になってくれませんか」と言った。ぼくは悪い気はしなかった。いったい年上の大学生に尊敬されるなどとはくすぐったい話だが、くだらぬことには一般に一高や三高などという所謂秀才の集るといわれている学校の生徒は、学校の名を鼻にかける傾向があるもので、その時も相手が私立大学の学生であってみれば、三高の生徒であるぼくが尊敬されるのも不思議ではないというつまらぬ虚栄心が働いていたのだろう、ぼくはすっかりやに下って了って、

「ぼくらは既に友達じゃありませんか」と言った。そしてぼくらは学生らしい所謂感激に満ちた、歯の浮く様な儀礼を暫くかわしていたが、轡川は突然、真剣な顔付きになったかと思うと、

「実は、明日子のことだけど、明日子はあなたにどんなこと話したんですか。ぼくのこと何か言ったでしょう。ぼくらは友達同志だから、卒直にありのままをきかせてくれませんか」と言うのだ。ぼくは失敗った、と思った。彼が友達になってくれとか、尊敬するとか言ったのはそれをきくためだったのだ、そう言えば、昨日彼がぼくに親切にしたり媚びる様な態度を見せたりしたのもこのことの予備行動ではなかろうか、そうぼくは思ったのだ。ぼくは無性に腹が立つので、まるで彼の顔にぶっつける様な調子で、

「あの女はあなたを嫌いだって言ってましたよ。あなたはあの女の身体を暴力で自由にしたのでしょう?」といって寝床の上に坐りこんだ。そういう言葉の効果は随分どぎついものなので、ぼくは彼の顔から眼を外らさずには居られなかったが、顔を見なくても彼の狼狽する表情がはっきりと想像されてそれを愉しんでいた。すると彼のひどく急きこんだ調子の声が来た。

「それを信じて、信じてるんですね。あなたは……」

信ずるのかと言われてみると、一途に信じこんでいたことが分る。だがそう言われても勿論信じている心は動かなかった。しかし彼は、やがて意外なことをいい出した。自分は明日子を辱めたのでは無い。むしろ誘惑されたのは自分の方だ。明日子は夫が病気で寝ている時も家に出入する夫の教え子の学生たちと遊びまわっていたのだ。自分はそれを苦々しく思っていた位だ。――そう彼は言った。そんな事があるものか、と思ったが、真正面から反対するのもいかにも芸の無いことなので、ぼくは、

「苦々しく思っているのに何故誘惑されたのです」と遠廻わしに反撥した。彼は黙りこんでしまった。何か言いそうなものだと待っていたが無駄だった。そうなると、ぼくが一言なかるべからず、と思ったのだが、さて何を言ったものかと考えながら、結局自分が今言った言葉にひきずられて、

「苦々しく思っていて誘惑されるということはあり得ることでしょうね。反感がかえって惹きつけさせてしまうという風に。また、浮気な女には誰も眼をつけるものだし……」と言った。それではまるで轡川の弁護をしている様なものであって、ぼくの意にそぐわないこと甚しかったが、そんなことを言い出したのは、そういう知ったか振りなことを言ってみたい虚栄心からだったのだろう。尊敬していると言われたことが未だ快く頭の中に残っていたのだ。

「そうです。そうです。巧いことを言った、あなたは」と轡川はひどく感心したという調子で言ったので、ぼくはすっかり良い気持になってしまった。それで自然ぼくの心は自分自身の言った言葉にごまかされてしまい、轡川の言葉を信ずる方向に傾いて来て、明日子を覆うていたベエールが次第にとれ始め、明日子は単に男を求める浮気女に過ぎないのではないかと思われて来た。ぼくは彼女が轡川に辱しめられた後も関係を続けて来たことを、明瞭には分らなかったが漠然と何か女というものの「弱さ」からではなかろうかと考え、自然、「拷問」という言葉を連想したのだったが、その瞬間、健康そのものの如き轡川の身体を見て、はっと何もかも分った様な気がし、もはやそういう言葉はぼくの心の中で単なる「享楽」という言葉に置き換えられてしまった。だが、それにしても明日子は何の為めにあんな風にぼくに話さねばならなかったのか、そんな疑問は矢張り残っていた。と、轡川は、明日子が様々な男と怪しい関係があった例をひどく興奮した調子で話した揚句、

「今にあなたも誘惑されますよ」と言った。なるほどとぼくは思った。明日子があんな風にぼくに言ったのは、ぼくの同情をひいてぼくを誘惑するためだったのか、そう思って、

「誘惑なんかされませんよ」と言うと、轡川は、

「そうですかね。いったいあなたは明日子をどうお考えですか」と問うて来た。ぼくは彼の顔にひどく満足そうな表情を見たと思った。すると、突然はっと、してやられたと言う考えが、頭にひらめいた。此の男はぼくを明日子から遠ざけようとして、明日子の事を悪く言ってるのだ、そう言えば昨日からの此の男の行動は総てその事から説明されるではないか、彼がぼくに示した度を過ぎた様な好意も、結局好意を売りつけて、その恩義を感じたぼくが明日子に近づくことを思い止まる様にさせる為のものではなかったか、そう思うと、ぼくはいい気になって轡川の策略にのって来たことが腹立たしくてならなかった。だが、もはやそうと気が付いた以上、轡川にうまく乗せられてやればいいと思ったので、

「ぼくはあの女は嫌いです」と言った。そして、そう言う腹の底で、轡川にのせられたのは残念ではあるが、轡川の言葉は嘘言であり明日子は矢張り彼の言う様な女ではないと思えることが些か嬉しかった。

丁度その時、明日子が湯から戻って来た。ぼくはばつが悪くて弱った。何より困ったのは、轡川の前で、嫌いですと言った以上、どうしても明日子に他所々々しくしなければならなかったことである。そういうぼくの態度を明日子はどう思ったのであろうか、あるいはそういう態度を見て、自分が嫌われていると思い、そのために一層ぼくに心を惹かれたのであろうか、ぼくが照れてしまうほどいそいそとぼくの機嫌をとり、ぼくに意味あり気な秋波を送っている様に見えた。それは轡川の眼に余るほどだとぼくは思ったが、しかし轡川は平然としていた。恐らくぼくがそういう明日子の態度に素気なく反撥していたからであろうとぼくは思った。素気なく反撥したのは、とにかく轡川の手前その必要があったからであるが、しかし、それは必要に迫られてというより、むしろその時のぼくの気持としては自然であった。何故ならそういう明日子の態度をみると、あるいは明日子は矢張り轡川の言った通り浮気な女でなかろうか、ぼくを誘惑しようとしているのではないかと思われ、いやな気がしたからである。しかし、このいやな気持は明日子を嫌悪するというよりも、その時明日子をそういう風に思わねばならぬことが又もやぼくが轡川の言を正しいとしなければならぬことになるので、そういうぼくの計算の間違いを認めることがいやだったのである。ぼくがその時彼女を嫌悪していたのだったら、恐らく、次に述べる様なことは起らなかっただろう。

それは、自分自身でも驚いてしまったほど意外なことなのだが、その夕方、轡川が莨を買いに行くと言って部屋を出て行った時、廊下で明日子と肩を並べながら海をみていたぼくは、ふと、明日子の白い首筋を見ると、あっという間にその首筋に手をかけて顔を傾かせ、接唇してしまった。歯の音がカチカチと鳴った。それは瞬間の内に終った。二人は離れた。ぼくは自分の唇を手でぬぐった。ぼくは何故そういう事をしたのか明瞭に自分に説明することは出来ない。何故接唇したかなどとは要するにくだらない問いで、結局接唇したかったから接唇したのだろうと思う。強いて言うならば、その時ぼくには明日子が轡川の言う様に浮気な女であるかどうか、ということをその行為で試してみようという気持が心の奥底にあった。その試みという目的が、ぼくの行為の自己弁解にもなるので多少ともぼくのその乱暴な行為を実行する為の勇気を与えたと言えないことはない。だが、そんな試みなどと言うものは何にもならなかった。

ぼくは只呆然としてしまった。滑稽なことには身体が痙攣している様にブルブル震えてならなかった。生れて始めての経験であるから、無理もないことだが幾分醜態だった。ぼくはシャックリの出た人が気まり悪がる様に、身体の震えていることを気まり悪がった。ぼくは明日子に魅力を感じて、そうして生れて始めての接唇をしたのだから陶酔の感覚があると思った筈だのに、むしろ不快な気持だった。震えているという醜態のためだった。しかし又、明日子がぼくにそのことを許したのである以上明日子を浮気な女と認めねばならぬと思った為でもあった。だが正直に言って、ぼくは無我夢中だったので、明日子が喜んでそれを許したのかどうかは分らなかったのだ。接唇後も彼女の顔を正視することも出来ず、彼女の言った言葉も聴えなかった位だが、とにかくその時ぼくはそう決めてしまったのだ。むしろ不快な位だったので、接唇の陶酔とはこんなものかと情なく思った。それで、そのことから多少とも喜びを感ずるには、ぼくは自分は非常に大胆なことをやってのけた、彼女は浮気な女であろうとなかろうと、とにかく接唇を許す位自分を愛している、という自尊心の満足を思い出す必要があった。そして、ぼくは轡川の顔をふっと思い浮べると、轡川はぼくを明日子から遠ざけようとして種々の策略を弄したけれど結局勝ったのはぼくではないか、と始めてほのぼのとした喜びを感ずることが出来た。

ぼくらはお互いに顔をそむけたまま終始黙々としていたが、恐らく五分程経った頃だろう、轡川が部屋に戻って来た。そしてぼくの顔をみるなり、

「逃げようたって駄目ですよ」と言った。

ぼくはハッとして、何を言い出すのかと固唾をのんだ。ぼくは何か彼に見すかされたと思ったのだ。彼は手にぶら下げている紙包をひらくと、小さな瓶をとり出して、

「さあ、之をのみなさい。石油です。随分探して買って来たんです」と言いながら懐から盞をとり出し、それにドロドロと瓶の液を注いだ。

「そんなもの飲んでは駄目ですよ」と明日子が言った。すると、轡川は、

「あなたは黙ってるんだ」と明日子に言い、そしてぼくの方を向くと、

「のみますね。怖くないでしょう?」と、盞をぼくの手に渡した。ぼくは一口にぐっとのんでしまった。生臭いにおいがプンとして、はき気を催しそうだった。ぼくがそれをのんだのは、「怖くないでしょう?」という轡川の言葉をきいたからだった。ぼくは最初彼が石油を取り出した時は、恐らく彼はその朝ぼくが彼女を嫌いだと言った言葉や、その後のぼくの彼女への態度から考えて、あるいはぼくが彼の肩をもって彼女の迷信だという説に反対して石油をのむかも知れないと思い、彼女の鼻を明かす積りで買って来たのだろうと思った。だとすれば、彼の思惑通りにしてやる必要がある筈だと思った。それは朝以来のぼくの態度の続きとして必要であるし、又、今先ぼくが明日子に接唇したということはとにかく彼には済まないと思える行為であったから、その償いとしても彼を喜ばす必要がある。そう思ったのだが、しかし、明日子にそんなものを飲むなといわれてみれば、とにかく今接唇したばかりの彼女の意に空しくそむくことも出来なかった。だが又、彼の意気込みの激しさはただならぬものがあったから、あるいは彼は部屋にはいって来た時ぼくらの容子を見て、何か疑わしく思ったのではなかろうかと思われて、それでは矢張りその疑いを晴らす為に飲む可きだとも思った。それにしても、夜更けの海辺で明日子を見て自殺者と思ったことが結局石油をのむ破目になったのかと思うと、情無かった。後で考えて後悔するだろうと思うと、躊躇された。しかし、「怖くないでしょう」といわれてみると、もう何も考えなかったのだ。怖くないことを示すという自尊心が、ぼくをして生臭い石油をまるで毒薬をのむ様な悲壮な表情で飲ませてしまったのだ。

Chapter 3 of 4
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