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哀しき父
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哀しき父
葛西善蔵
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翻訳 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 4 of 6

四

いつか、梅雨前のじめ/\した、そして窒息させるやうに氣紛れに照りつけるやうな、日が來てゐた。

彼は此頃午後からきまつたやうに出る不快な熱の爲めに、終日閉ぢこもつて、堪へ難い氣分の腐蝕と不安とになやまされて居る。寢たり起きたりして、喘ぐやうな一日々々を送つてゐるのであつた。

陰氣な、晝も夜も笑聲ひとつ聞えないやうな家である。が、濕つぽい匂ひの泌みこんだ同じやうに汚ならしい六つ七つの室は、みんなふさがつてゐた。おとなしい貧乏な學生達と、彼の隣室には、若い夫婦者とむかひ合つた室には無職の豫備士官がはひつてゐた。そしていつも執拗に子供のことや、暗い瞑想に耽つてぐづ/\と日を送つてゐる彼には、最初この家の陰氣で靜かなのが却つて氣安く感じられたのであつたが、それもだん/\と暗い、なやましい壓迫に變つてゐるのであつた。

豫備士官は三十二三の、北國から出て來たばかりの人であつた。終日まつたく日のさゝない暗い室にとぢこもつてゐて、何をしてるのとも想像がつかなかつた。大きな不恰好な髮の薄い頭をして、訛音のひどい言葉でブツ/\と女中に何か云つてることもあつた。時々汚ない服裝の、ひとのおかみさんとも見える若い女が訪ねて來ることがあつたが、それが近所の安淫賣だつたと云ふことが、後になつて無口の女中から漏らされてゐた。

それがつい……まだ幾日も經つてゐないのであつた。ある朝女中が聲をひそめて「腸がねぢれたんださうですよ……」と軍人の三四日床に就き切りであることを話してゐた。それから一兩日も經つた夕方、吊臺が玄關前につけられて、そして病院にかつぎこまれて、手術をして、丁度八日目に死んだのである。腸の閉鎖と、惡性の梅毒に脊髓をもをかされてゐたのであつた。

また隣室の若い細君は、力無く見ひらいた眼の美しい、透き通るやうな青白い顏をして、彼がこの家へ來てから幾んど起きてゐた日がないやうであつた。細君孝行な若い勤め人の夫は、朝早く出て晩遲く歸るのであつたが、朝晩に何かといたはつてゐるのが手に取るやうに聞えるのであつた。細君の輕い咳音もまじつて、コソ/\と一晩中語りあかしてゐるやうなこともあつた。

彼は此頃の自分の健康と思ひ合はして、拂ひ退けやうのない不吉な不安なかんがへになやまされてゐる。病人の絶えない家のやうにも思はれるのであつた。裏は低い崖になつて、その上が墓地の藪になつてゐるが、この家の地所もやはり寺の所有なのであつた。ワクの朽つた赤土の崖下の蓋のない堀井戸から、ガタ/\とポンプで汲み揚げられるやうになつてゐて、その上が寺の湯殿になつてゐた。若い女の笑ひ聲なども漏れてゐることがあつた。そして崖上の暗い藪におつかぶされてゐるこの家では、もう、いやに目まぐるしい手足を動して襲つて來る斑らの黒い大きな藪蚊が、朝夕にふえて行くのであつた。

彼は飮みつけない強い酒を呷つて、それでやう/\不定な睡眠をとることにしてゐる。そして病的に過敏になつた彼の神經は、そこらを嗅ぎるやうに閃めき動いて、女中を通して、自分のこの室にも病人がゐて、それが彼のはひる少し前に不治の身體になつて歸郷したのだと云ふことや、こゝの主人も丁度昨年の今頃亡くなつたのだと云ふことなど、斷片的にきゝ出し得たのであつた。

彼は毎晩いやな重苦しい夢になやまされた。

……彼の子供は裸體になつてゐた。ムク/\と堅く肥え太つて、腹部が健康さうにゆるやかな線に波打つてゐる。そして彼にはいつか二三人の弟妹が出來てゐるのであつた。室は廣くあけ放してあつて、青々とした疊は涼しさうに見える。そこには子供の祖父も、祖母も弟妹もゐるのだが、みんなはゴロ/\寢ころんでゐる。唯彼ひとりが、ムク/\と堅く肥え太つて、ゆるやかに張つたお腹を突き出して、非常に意張つた姿勢をして、手を振つて大股に室の中を歩いてゐるのであつた。

ふと、ペラ/\な黒紋附を着た若い男がはひつて來て、坐つて何か云つてるやうであつた。すると子供は歩くのを止めて、ちよつと突立つて、

「さうか。それではお前はおれの抱へ醫者になるか――」斯う、萬事を呑込んでゐるやうな鷹揚な態度で云ふのであつた。それを傍から見てゐた父は、わが子のその態度やものゝ云ひぷりに、覺えず微笑させられたのである。……

それが夢なのである。彼には幾日かその夢の場の印象がはつきりと浮かべられてゐた。それは非常に大きなユーモアのやうにも考へられるのである。また子供といふものの如何にさかんなる矜りに生きて居るかと云ふことを思はしめるのである。それからまた、辛うじて醫藥によつて支へられてゐた彼の父の三十幾年と云ふ短い生涯から彼自身の健康状態から考へて、子供の未來に、暗い運命の陰影を豫想しないわけに行かないのであつた。

Chapter 4 of 6
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