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哀しき父
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哀しき父
葛西善蔵
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翻訳 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 5 of 6

五

久しぶりで郷里の母から手紙があつた。母は彼女の孫をつれて、ひと月餘り山の温泉に行つてて、歸つて來たばかりのところなのである。

彼女は彼女の一粒の子と、一粒の孫とを保護するためにこの世に生れて來、活きてゐるやうな女であつた。そして月に幾度となく彼女の不幸な孫の消息について、こま/″\と書き送りもし、またわが子の我まゝな手紙を讀むことに、慰藉を感じてゐた。

彼等の行つてゐた温泉は、汽車から下りて、谷あひの川に沿うて五六里も馬車に搖られて山にはひるのであつた。温泉の近くには、彼女の信仰してゐる古い山寺があつて、そこの蓴菜の生える池の渚に端錢をうかべて、その沈み具合によつて今年の作柄や運勢が占はれると云ふことが、その地方では一般に信じられてゐた。彼女もまた何十年となく、毎年今頃に參詣することにしてゐて、その占ひを信じてゐるのであつた。

母の手紙では今年の占ひが思はしくないので氣がかりだと云ふこと、互ひに氣をつけるやうにせねばならぬと云ふこと、孫のたいへん元氣であること、そして都合がついたら孫の洋服をひとつ送るやうにと云ふのであつた。孫は洋服を着たいと云つてきかない、そしてお父さんはいやだ、何にも送つてくれないからいやだと云ふのであつた。彼女はそんなことは云ふものでないと孫を叱つてゐる。そして靴と靴下だけは買つてやつたが、洋服は都合して送るやうにと云ふのであつた。

それは朝からのひどい雨の日であつた。彼は寢衣の乾かしやうのないのに困つて、ぼんやりと窓外を眺めて居た。毛蟲はもうよほど大きくなつてゐるのだが、こんな日にはどこかに隱れてゐて姿を見せない、彼は早くこの不吉な家を出て海岸へでも行つて靜養しようと、金の工面を考へてゐたのであつた。

疲れた彼の胸には、母の手紙は重い響であつた。彼は兎に角小箪笥を賣つて、洋服を送つてやることにした。そして、

「……どうか、そんなことを云はさないやうにして下さい。私はあれをたいへんえらい人間にしようと思つて居るのです。私はいろ/\だめなのです……。どうか卑しいことは云はさないやうにして下さい。卑しい心を起させないやうにして下さい。身體さへ丈夫であれば、今のうちは何もいらないのです……」

彼は子供がいつの間にそんなことを云ふまでになつたかを信じられないやうな、また怖ろしいやうな氣持で母への返事を書いた。そして彼がこの正月に苦しい間から書物など賣拂つて送つてやつた、毛糸の足袋や、マントや、玩具の自動車や、繪本や、霜やけの藥などを子供はどんなに悦んで「これもお父さんから、これもお父さんから」と云つて近所の人達に並べて見せたと云ふことや、彼の手紙をお父さんからの手紙と云つて持ち歩くと云ふことなどを思ひ合して、別れてわづか一年足らずに過ぎない子供の現在を想像することの困難を感ずるのであつた。

霧のやうな小雨が都會をかなしく降りこめて居る。彼は夜遲くなつて、疲れて、草の衾にも安息をおもふ旅人のやる瀬ない氣持になつて、電車を下りて暗い場末の下宿へ歸るのであつた。

彼は海岸行きの金をつくる爲に、※書館通ひを始めてゐる。……

彼の胸にも霧のやうな冷たい悲哀が滿ち溢れてゐる。執着と云ふことの際限もないと云ふこと、世の中にはいかに氣に入らぬことの多いかと云ふこと、暗い宿命の影のやうに何處まで避けてもつき纏うて來る生活と云ふこと、また大きな黴菌のやうに彼の心に喰ひ入らうとし、もう喰ひ入つてゐる子供と云ふこと、さう云ふことどもが、流れる霧のやうに、冷たい悲哀を彼の疲れた胸に吹きこむのであつた。彼は幾度か子供の許に歸らうと、心が動いた。彼は最も高い貴族の心を持つて、最も元始の生活を送つて、眞實なる子供の友となり、兄弟となり、教育者となりたいとも思ふのであつた。

けれども偉大なる子は、決して直接の父を要しないであらう。彼は寧ろどこまでも自分の道を求めて、追うて、やがて斃るゝべきである。そしてまた彼の子供もやがては彼の年代に達するであらう、さうして彼の死から澤山の眞實を學び得るであらう――

Chapter 5 of 6
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