第一 緒言
天津教古文書の批判に先だち、私は如何なる因縁で天津教の存在を知つたか、又如何なる必要あつて其古文書を批判するか、この二點に就いて説明して置きたい。
昭和三年五月の末に、天津教信者の某々二氏が拙寓に訪れ、その寶物の寫眞を贈られ、兼てその本據地なる茨城縣磯原へ參詣を勸められた。私は寫眞を一見して、其原物の欺瞞性を感知し甚だ怪しからんことを聞くものかなと思つたが爭ふことを止めて穩に歸した。しかし主なる一人は有力なる金主であると察せられたので、同氏の將來を思ひ、直に書面を以て寫眞に對する愚見を述べ、天津教の警戒すべき所以を知らせた。其後何等の挨拶もないので、この警告が何程利いたか分らない。
昭和五年十二月天津教關係者が警視廳の取調を受けた時、須く彼等が皇室の歴史に對して施したところの錯迷狂的加工を追究し、嚴重の處分を爲すべきものであつたと思ふが、左樣な徹底的の處置が講ぜられなかつたものと見え、其後も天津教は檢擧に懲りずして宣傳を續け、シリヤの石ころ、ピラミッド類似の山などを應援に擔出して益病的迷妄の傳播を試みるのであつた。實に苦々しきことと思つたが、世間天津教以上に不都合な宣傳をするものも澤山あるから、一々相手にして居られない。しかるに昨年八月私は日本醫事新報から天津教古文書の歴史的價値を調べることを頼まれた。天津教古文書は莫大あるものと稱せられるが、不信者には容易に見ることは許されまいと思ひ、先づ取敢えず手元にある寫眞七枚の中の古文書に關するもの五枚の檢討に取掛つた。而してこの五枚の寫眞のみの研究により、啻にこの五枚に限らず、天津教古文書の全部は悉く最近の僞造にかゝり全く取るに足らないものであるとの判斷に到達した。そこで依頼者に此趣を返答したが、其意味は決定的であつたに係らず文句は抽象的であつた。抽象的にした譯は、凡そ追撃撲滅等の場面は人心を刺激する恐れがあり、此所でも類似の恐れを避けようとしたためである。處が間もなく私が關係してゐる或る場所で、軍人の勸誘により、思想善導の講演を遣つて貰ふと、天津教を利用した話を聞かされたものである。かうなると最早天津教を對岸の火事扱にすることは出來ない。且又最初に二人の信者を私に向けた方も海軍大將であつたことを想起し、旁天津教の性質上これは或は軍人間に比較的多くの信者を有するに非ざるかとの疑を生じ、少しく探索して見ると果して其通りである。しかれば即ちかの狂的妄想が那邊を蠧毒するに至るや推察するに難からずで、事甚だ憂ふべきものがある。今にして其浸漸を防止せざれば、早晩健全なる思想との衝突を惹起し、其結果社會に迷惑を及ぼすことあらうと思はれる。是れ或は杞憂に過ぎないとするも、豫め天津教の眞價を知り、事に當つて迷はざるを期すべきであらう。茲に於て私は再び天津教古文書の批判を思立ち、曩に屑しとせざりし方式により精査糺明これ勉め以て一般世人をも警醒せんことを試みるのである。
就いては天津教の何物なるかを知らない人もあると想ふから、其性質を一瞥して見る。
天津教は現に磯原に住する竹内氏が守るところの皇祖皇太神宮を中心として宣傳せられる思想の系統である。その主張を聞けば、武内宿禰の子孫は後ち竹内と稱し連綿千九百年、皇祖皇太神宮を奉戴して以つて今日に及び、其間あらゆる困難と迫害とを經て、尚ほよく神代より傳はつた皇室關係の古文書及び古器物を守護保存してゐると云ふのである。此主張以外に今の所は病氣治癒の保證を附けたり、男女交際の便宜を計つたり、心靈現象の所作を見せたり、乃至財物勸進の強要を行つたりする樣なことを聞かない。此點普通の宗教とは違つてゐる。内部の組織も簡單で、未だ伏魔殿式施設を見ない。外部への宣傳方法も穩かで惡辣でない。故に風教上から視て此教派ほど無難なものは珍しい。此の如く所謂宗教的施設に關しては何等注意すべきものなきも、其代りに古器物古文書を證據として神代百億萬年の歴史を展開し以て皇室の規模を莊嚴するに勉める。此所苟も批判を許さない態度を取つてゐる。如何にも其遣方が地味とも見られ、凡そ紅粉と縁遠きため、君子も近くべからしめ以て知識階級に呼懸ける神社神道を想はしめるものがある。
以上は勿論表面觀察に寫るところであるが一歩深入して研究して見ると、勿論挾む所あつての仕事で、其目的を隱すために皇威を藉り人を幻惑させようとする仕組が浮出して來る。類似の企圖はよくある手で、鎌倉時代にも徳川時代にも明治時代にも現れたことがあり、專門家には珍しくはない。天津教其物は此種類の最も新しいものであり乍ら、矢張全然齒牙にかけるに足らない素物であることは一見明白である。しかし確な證據を捉へて止めを刺すには第一に研究を要し第二に力を要する。故に官署から命令あらば骨折つて鑑定するのも面白いが、大概の場合には此種の勞して效なき事項は駄目であるの一言で早速逃げるのが賢いのである。しかしさうした具合に賢かつた大學の博士達は天津教側から首音の濁つた陰口言はれてゐるから、私は又どんな怨を受けるか測知り難い。
偖て彌批判に取掛るが、其材料は前申した如く古文書の寫眞五枚である。僅に五枚、實に天津教文書の片鱗に過ぎない。故に片鱗を以て全體を見ることは出來ないとの反駁あらば認めることを躊躇しない。しかしながら同時に又生命を取るには一箇の致命傷にて足ることを心得なければならぬ。抑もこの五つの文書は單なる片鱗ではない。片鱗と雖も代表的寶物として寫眞に撮られ誇示されたものである。之を又軍陣に喩ふれば天津教の精鋭を統率する將軍と見るべきで、英姿颯々威風堂々たるを想はしめる底のものである。もし吾人の張る研究の爲めに此等將軍が一々致命傷を蒙ることあらば、其結果知るべきで、率ゐる所の全軍は土崩瓦解してあはれ潰滅の路を辿る外ないであらう。
檢討に附するに當り文書の順序は新しきより古きに遡る。