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早稲田神楽坂
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早稲田神楽坂
加能作次郎
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翻訳 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 10 of 15

商店繁昌記

どこかでビールでも飲んで別れようといって、私達は再び元の人込の中へ引返した。この頃神楽坂では、特にその繁栄策として、盆暮の連合大売出しの外に、毎月一回位ずつ定時の連合市なるものをはじめたが、その日も丁度それに当っていて、両側の各商店では、一様に揃いの赤旗を軒先に掲げて景気をつけていた。だがこの神楽坂では、これといって他に誇るべき特色を持った生え抜きの著名な老舗とか大商店とかいうものが殆どないようだ。何れも似たり寄ったりの、区民相手の中以下の日用品店のみだといっても大したおしかりを受けることもないだろう。震災直後に三越の分店や日本橋の松屋の臨時売場などが出来たが、何れも一時的のもので間もなく引揚げたり閉鎖されたりしてしまった。そして今ではまた元の神楽坂に戻ったようだ。ただ震災後に新しく出来たやや著名な店としては、銀座の村松時計店と資生堂との二支店位だが、これは何れも永久的のものらしく、場所も神楽坂での中心を選び、毘沙門の近くに軒を並べている。そしてこの二軒が出来たために、あの附近が以前よりは明るく綺麗に、かつ品よく引立ったことは事実だ。(ところが、この二店ともその後間もなく閉されて了った――後記)

酒屋の万長、紙屋の相馬屋、薬屋の尾沢、糸屋の菱屋、菓子屋の紅谷、果物屋の田原屋、これらは併し普通の商店として、私の知る限りでは古くから名の知れた老舗であろう。紅谷はたしか小石川安藤坂の同店の支店で、以前はドラ焼を呼び物とし日本菓子専門の店だったが、最近では洋菓子の方がむしろ主だという趣があり、ちょっと風月堂といった感じで、神楽坂のみならず山の手方面の菓子屋では一流だろう。震災二、三年前三階建の洋館に改築して、二階に喫茶部を、三階にダンスホールを設けたが、震災後はダンスホールを閉鎖して、二階同様喫茶場に充てている。愛らしい小女給を置いて、普通の喫茶店にあるものの外、しる粉やお手の物の和菓子も食べさせるといった風で学生や家族連れの客でいつも賑っている。

菓子屋ではまだこの外に二、三有名なのがある、坂上にある銀座木村屋の支店、塩瀬の支店、それからやや二流的の感じだが寺町の船橋屋などがそれである。だが私には甘い物はあまり用がない。ただ家内が、子供用又は来客用としてその時々の気持次第で以上の諸店で用を足しているまでだが、相馬屋と、もう一軒坂下の山田という紙屋では、私は時々原稿紙の厄介になっている。それから私に一番関係の深い本屋では、盛文堂、機山閣、寺町の南北社などが大きい方で、なおその外二、三軒あるが、兎に角あの狭い区域内で、新刊書を売る本屋が六、七軒もあって、それ/″\負けず劣らずの繁昌振りを見せているということは、流石に早稲田大学を背景にして、学生や知識階級の人々が多く出る証拠だろう。古本屋は少く、今では岩戸町の電車通りにある竹中一軒位のものだ。以前古本専門で、原書類が多いので神田の堅木屋などと並び称せられていた武田芳進堂は、その後次第に様子が変って今ではすっかり新本屋になってしまった。

その代り夜の露店に古本屋が大変多くなった。これは近頃の神楽坂の夜店の特色の一つとして繁昌記の中に加えてもよかろう。尤もどれもこれも有りふれた棚ざらし物か蔵払い物ばかりで、いい掘り出し物なんかは滅多にないが、でも場所柄よく売れると見えて、私の知っている早稲田の或古本屋の番頭だった男が、夜店を専門にして毎晩ここへ出ていたが、それで大に儲けて、今は戸塚の早大裏に立派な一軒の店を構え、その道の成功者として知られるに至った。

ついでに夜店全体の感じについて一言するならば、総じて近頃は、その場限りの香具師的のものが段々減って、真面目な実用向きの定店が多くなったことは、外では知らず、神楽坂などでは特に目につく現象である。

Chapter 10 of 15
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