一
吾妻養狐場には、もう狐は牡牝二頭しか残つてゐない。いづれも樺太産の優秀な種狐であるが、場主の星住省吾は、これさへ適当な買ひ手があれば、手放してもよいと考へてゐる。
戦争この方、贅沢品にちがひない銀狐の毛皮はぱつたり売行がとまり、そのうへ、飼料たる生ニシンや馬肉の入手もすこぶる困難になつたので、増殖はおろか、百頭あまりもゐた狐をどう始末するかゞ頭痛の種であつた。飼料不足のため自然に死ぬのは別として、毛皮はほとんど投げ売りを覚悟で、やうやく、養狐場の看板だけは外さずに来たのである。
戦争はすんだ。あちこちの同業者が輸出景気を見込んで、狐小舎の金網の修繕など始めるのをみて、星住省吾も、ぢつとしてはゐられなかつた。
かつては、この地方で一二を争つた吾妻養狐場の再興を疑ふものは誰ひとりなかつた。
広大な自然林を含む敷地のなかに、四百坪の狐小舎、その中央に望楼のやうに聳えたつ監視塔、正門からはいると、白樺の植込みを縫つて砂利道が大きなS字形を措き、青ペンキ塗りの事務所の玄関に通じてゐる。この建物は事務室、陳列室、応接間に区切られて、奥の住宅に廊下でつながり、周囲は一面の芝生で、日溜りには主人自慢の甲斐犬がからだをまるめて眠つてゐた。
星住省吾は当年とつて六十三歳である。
シベリヤ、カムチャッカ、樺太を渡り歩いたといふだけで、なにをしてゐたか誰も知らない。漁業関係の仕事で、いくらか産を成したといふ想像をしてゐるものもある。二十年前に突然この土地にはいり込んで、まだその頃は二束三文の土地をしこたま買ひ込み、なにをするのかと思つてゐると、見たこともないやうな毛色の狐を飼ひはじめたのである。
一頭の毛皮が、その頃千円も二千円もすると聞いて、ひとびとは度胆をぬかれた。狐は見る見るうちに数を増していつた。軽井沢あたりから自動車を飛ばして来る客もあつた。生きながら毛皮を予約される狐の運命について、地元の連中は、「たいした狐もあればあるものだ」と言ひ合つた。
檻を潜つて逃げ出す狐もたまにあつた。無傷のまゝ捕つたものには五百円の懸賞がつけられた。青年といはず壮年といはず、土地の男たちは日傭の賃金を棒にふつて、山の中を探し廻つた。懸賞にありついたものは一人もなかつた。
吾妻養狐場の名は近隣に鳴り響いた。
ぼろい儲けを一人にさせておく筈はない。模倣者競争者が、あちこちに現はれた。完全に失敗するものもあつたが、どうやら恰好をつけてゐるものもあつた。
星住省吾は、不思議に慌てる風はなかつた。無益な対立は双方のためにならぬといつて、同業組合の設立を提案し、相手がほとんど素人であるのを知ると、種狐の斡旋や飼育法の指導に乗り出した。ことに、病狐の診療にかけては、土地の獣医も頼りにはならず、いちいち彼の手を煩はすよりほかなかつた。
好物の鶏さへ、鼻を近づけるだけで、あとはそつぽを向いてしまふ食慾不振の狐を、彼はひと目で寄生虫の仕業だと判断し、急に脚腰が立たなくなり、小舎の隅でうとうとと眼を細めてゐるやつを、注射一本で元気にしてしまつた。そして、その序でに、必ず、小舎を一巡して皮膚病の検診をした。毛皮を生命とする狐に、この病気は致命的だと、飼主に警告を発することを忘れなかつた。
同業者たちは、なるほど彼には頭があがらなかつたけれども、まだ、彼の本心を疑つてゐた。いはゆる商売がたきとして、まことに腑に落ちぬ好意の示しかたのやうに思はれた。なるほど、理窟のうへでは、共存共栄といふ言葉もあるくらゐだし、同業相扶け、相励ますことはもちろん望ましいことにちがひないけれども、星住省吾の場合は、なんとしても、ひとのことに力を入れすぎ、自分の都合を云々するやうなことは露ほどもないので、結局、あの男はもともと「狐には眼がないのだ」といふ説を立てるまではよかつたが、あゝみえて、そのうちにおれたちを喰ひものにするつもりだ、などと、警戒の眼を光らせる手合もゐた。
「あなたみたいに、そんなに、よその世話ばかり焼いていらしつたら、おからだがもちませんよ」
細君の品子は、夕食をすましてからまで、小一里もある隣り部落の養狐場へ、急病の狐を見に行く夫の小まめさにあきれかへる。
しかし、これは今にはじまつたことではない。樺太にゐる時から、この流儀のために、ひとから悦ばれたり、うるさがられたり、バカにされたりしたのである。そして、とどのつまり、同じ流儀がたゝつて、つひに、とんでもない誤解を受け、そのために、財産の半分を投げ出したことさへある。
星住省吾は、三十五の年に、カムチャッカを引きあげて、樺太へ渡つた。裸一貫であつた。T大学で鉱物学をやり、鉱山勤めの口はあつたのだけれども、月給取りは性に合はぬと思ひ、夢のやうな計画を抱いて、朝鮮から満洲、それからシベリヤを歩きまはつた。
放浪の旅に慣れた彼は、鉱石採集の興味以上に、原始的な自然の息吹に執着を感じ、足の向くまゝに、大陸の果てを目指して、北へ北へと歩いた。
日本をはなれてから九ヶ月目に、やつと辿りついたのが、オリウトルスコエといふ町である。それはカムチャッカ半島のつけ根にある海沿ひの漁師町で、日本の船もたまにはいるといふことを聞いて、なんとなく、そこに腰を据ゑてしまつたのである。ギリシャ教の司祭が彼のために祝福を与へ、宿と職とを見つけてくれた。
彼は、露人経営の木材会社で、現場監督のやうな役をあてがはれ、勤めをすますと、養狐を副業にしてゐる下宿屋の亭主と、露西亜文学の話をした。この亭主は、革命前、地下運動に加はつて大学を追はれた自称インテリであつたから、プウシュキンの詩を口吟んだり、チェエホフの極東旅行について意見を述べたりした。
星住省吾は、こゝで最初の恋愛――恋愛といふほどのものではないが、恋愛まがひの経験をした。ダッタンの血を引いた三十女の、黒水晶のやうな瞳が、彼の情慾を駆り立てたのである。もとより娼婦上りにちがひなかつたが、白系将校の未亡人といふ触れ込みで、同じ下宿の一室に住んでゐた。
カムチャッカの十年間は、彼にとつて、まつたく新しい人生であつた。
本国の革命の波は、徐々にしか伝はつて来なかつたが、一年の大半は氷に閉されたこの大陸の末端にも、目に見えぬ人心の動揺は感ぜられた。日本軍がシベリア鉄道を占領したといふ噂のひろまつたのもその頃であつた。
やがて、会社は、共産党員と称するいくたりかの人物の手によつて、有無を言はせず没収され、整理され、運転された。彼は、日本人たる科をもつて監禁の憂き目に遭つたが、下宿の亭主ゴーリエフの特別な計らひで、一応、期限づきの自由を得た。三ヶ月以内に国外へ退去せよといふ条件はどうすることもできなかつた。
しかし、彼は、実のところ、例のダッタン女との腐れ縁に手を焼いてゐた。
一千九百二十九年の春、解氷期のベーリング海を、ソヴィエート連邦旗をなびかせた小さな機帆船に乗せられて、彼は、樺太に着いた。
着のみ着のまゝ、国境に近いO製紙会社のパルプ工場に、住込み人夫として、ともかく、籍をおくことができた。幸運といふべきか、どうか、彼にはわからなかつた。彼は、ロシヤ人が恋しかつた。彼等に関する限り、なにひとつ胸くその悪い印象は残つてゐなかつた。いくどかは、ひどい目に遭ひ、腹の立つこと、情けなくなること、ふるへあがるやうなおそろしいことはあるにはあつた。しかし、あんなに多くの人々が、知ると知らざるとに拘はらず、あんなにまで、底知れぬ善良さ、寛大さ、こだはりのなさで、一外国人たる彼に接し、彼を遇してくれたといふのは、そもそも、彼にはその理由が想像できぬくらゐである。
彼の日本領樺太における生活は、それにくらべれば、なんといふせせこましさであつたらう! 絶えず周囲に気を配らねばならぬ。思ひがけないところに敵意を含む視線を発見する。ひとの成功をねたみ、ひとの失敗を囃したてる周囲の風潮のなかで、彼は、黙々として、一切の噂話に耳をかさず、ひたすら、養狐場経営の準備を怠らなかつた。
現在の妻品子は、その頃、附近の町の小学校に勤めてゐた。満々たる野心を秘めるかにみえる一インテリ労働者と、クリスチァンで、植民地の児童教育に一生を捧げようとしてゐた美貌の一女教員とは、いかなる機縁によつてか、相惹かれ、相結ばれたのである。