Chapter 1 of 10

「大事なこと」とは?

三年間の蟄居生活が私に教へたことは、「なにもしない」といふことの気安さと淋しさである。そして、この気安さと淋しさとは二つのものでなく、ひとつのものであり、それは表と裏、色と艶、光と影のやうな関係でつねに私の心を占めてゐた。もちろん、たゞこれだけの説明では誰にでもすぐにわかつてもらへさうにもない。「なにかをする」といふことにつきもののある精神の状態をひと口に云ひあらはすことはむつかしいが、そこにも必ずあるはずの明暗の交錯を思ひあはせてみれば、そんなものかと察せられるだらう。

ところで、さういふ無為の生活において、ともかくも私が生きてゐたといふしるしは、デカルト風に云へば、いろいろのことを考へないわけにいかなかつたこと、たゞそれだけである。しかも、それらの考へはなにひとつ花咲かず、みのらず、たゞ雑草のやうにはびこつてそのまま今日にいたつてゐる。

たまたま、S君の懇篤なすゝめがなければ、私はそれに手をつけることさへしなかつたらう。が、さて「なにもしない」ことの気安さはこゝで思ひ切るとして、一方の淋しさはいくぶん救はれるであらうか?

実を云へば、それどころの話ではない。もうすでに私は、「なにかをしようとする」自分のうちに、底しれぬ別の淋しさを発見する。もの云へば唇寒しの、あの心懐とやゝちかい、しかし、それともいくぶんちがつた、一種の空虚感である。

われながらまことに始末におへぬ気持であるが、それをいまこゝで追ひまはすことはやめよう。

いろいろのことが、当節、いろいろの人によつて言はれてゐるのをみると、それは意識されてゐるゐないは別として、如何に今日はものを言ふのに危つかしい時代かといふことがわかる。危つかしいといふ意味は、いはゆる言論の自由不自由などといふことと関係のない、精神内部の問題である。

さういふ風にみていくと、今日ほど、ものを言ふことが自分自身を試みることであり、さらに、自分を裸にして弄ぶにひとしいことを感じさせる時代はないやうに思ふ。それゆゑに、今日ほど、また、「沈黙」が良心にとつて易々たる時代はないとも言へるのである。

私のさきに述べた気安さと淋しさは、まさにこゝから来る。

難事を難事と気づかず、うかうかと行ふものは、往々、安易を安易と知らずして得々と行ふものである。この戯画的な風景をひとりわらふ資格は私にはもちろんない。

ひとつの考へをたんねんにまとめる余裕がないのに、あへて未熟な思ひつきをとりとめもなく書きつらねようとするのは、たゞ、私は私なりに自らを鞭うつためである。

自分が日本人であることの宿命をつよく感じ、自分もろとも日本といふ国がこのまゝではどうにもならぬと思ひなやむやうになつたのは、ずゐぶん久しい前からである。

なるほど、そのことは、いつぱし物の言へる日本人なら、誰でもおなじだと言へないことはない。しかし、つくづく思ふことは、その程度が人によつてまるで違ふといふことだ。

どちらかと言へば楽観的な見方をまじへてさう言ふものもあるかと思へば、極端に悲観的な立場からそれを言ふものもあつた。が、そのいづれを問はず、どちらも、さう考へる考へ方のなかに、どこかひとごとのやうな調子がふくまれてゐる場合が意外に多いのである。

調子だけで物ごとを判断してはならぬとは言ふものの、さういふ調子はどこから生れるかといへば、たいがいは、さういふ自分の考へが、考へだけで別になんの力もないといふ見とほし、言ふだけ野暮といふ自嘲の気味をさへにほはせてゐるからである。

だが、しかし、まだそれだけではない。さうならないわけにいかぬもつと深い原因がある。それを簡単に封建的気風と言つてしまへばなんでもないが、さういふ面からでなく、これはどうしても、物ごとの認識の程度からわりださなければならぬ一面があるやうに思ふ。例へば、醜いものをみにくいと思ふ度合が、そのものに対する一人々々の態度をまづきめさせるとすれば、誰がみても醜いと思ふものでも、その醜さをあまり気にかけぬやうな素振りは、およそ二つのことを意味する。

早く言へば、それがそんなに気にかけるほどの醜さとは言へない場合が一つ、それと、その醜さをそれほどとは感じない美意識の低さ、鈍さを示す場合が一つ、とである。

日本人が、日本といふ国が、これでは困る、と思はせるふしぶしを数へあげることははなはだ容易であるとしても、慾を言へば、といふほどのおとなしい批判から、いはゆる志士気取りの悲憤慷慨にいたるまでの認識の段階、人さまざまの表情をみわたして、私は、それらのすべてを通じて、ほんとうにわれわれはどの程度に「日本はこのまゝでは困る」と思つてゐたかを、今こそたしかめねばならぬといふ気がする。

「どの程度に」といふことは、勢ひ、「どういふ点で」といふ前提を必要とすることは言ふまでもない。そこで問題が複雑になる。少くとも二重の性格をおびてくる。国家主義と社会主義とが入りまじるのはその現象を如実に示すものだ。

それはそれでよろしい。「極端な国家主義」が排せられ、「極端な社会主義」が多少旗色のわるい現在の情勢で、私は直接に政治を語りたくない。しかし、たゞこれだけのことは云ひたい。――社会革命はぜひとも遂行しなければならぬが、人間改造をともなはない社会革命を私は信じない、といふこと。

日本人がこのまゝで社会革命を行ふなどといふことはをかしな話である。「どの程度に」をかしいかといふことをお互にはつきりさせたいものである。

社会万般の問題で、「何々が大事だ」といふことがよく云はれる。しかし、その「大事なこと」がほんとに大事に取扱はれ、その結果が満足に達成されたためしはほとんどない。そして、いつのまにか、それが「大事だ」といふことも忘れられ、それ以外の別な「大事なこと」に眼を向けてしまふ。

例へば――と云つても、例をあげるのもわづらはしいくらゐだが――それこそふと浮ぶ例をあげても、数十年来、国語の問題が蒸し返され蒸し返されして、つひに今日、どうやら「やむなく真面目に」取りあげられるに至つた。

社会教育の問題はどうか? これまた可なり重大な関心を各方面に呼びおこしながら、いつこうどうにもならないでゐる。

国民保健、とくに肺結核の対策については、なるほど厚生省といふやうな役所はできたが、全国の医療機関がそのために実質的に整へられた風もない。

政府の施策ばかりを云ふのではない。民間の機運についてとくに云ふのである。ジャーナリズムが時に正しい輿論の指導をつとめはするが、笛吹けどもをどらぬのは、大衆でなくして、そのことを一番わきまへてゐる筈の知識層である。

「大事な問題」のどの一つをとつてみても、なるほどそれだけの努力を払はねばならぬのだな、と思はせるやうな努力を誰もしてゐるやうに思へないのは、まことに奇怪といふほかはない。きつと誰かがいくぶんの努力はしてゐるに違ひないが、その努力がなにかのかたちでもうすこしは目立たなければならないのに、それを目立たせるなんらの注意も、おほやけには加へられてゐない事実をなんとみるかである。

一応は、「大事なこと」がある程度に大事だといふことは誰にもわかるのである。しかし、それが「どの程度に」大事であるか、といふことが、ごく少数の人にしかわかつてゐない。その少数も、おほかたは十分にはわかつてゐないのである。「どの程度に」といふことになると、それはもう、言葉や身振りだけではかることができない。「すこぶる」といひ、「絶対に」と云ひ、「なによりもかによりも」といくら副詞を重ねてみても、そんなに違はないことはたしかだ。声を大にして叫ぶなどといふことからが、そもそもあてにならないのである。

それなら、いつたい誰が、「この程度に大事だ」といふことをはつきり示し得るのか? そして、そのことがほんとに「大事なこと」になるためにはどうしたらいゝのか?

そこだけが実を云ふと私には興味があるのである。「大事なこと」にはともかく片つぱしから手をつけ、それをどしどし解決していく国民がゐないわけではないのに、われわれ日本人だけが、口では「大事だ」と云ひ、誰もかれもそれを知りぬいてゐるやうな顔をしながら、それがちつとも「大事なこと」としてとりあげられてゐない今日までの有様を、誰も不思議とは思はぬのであらうか。

今度の戦争はどうして起つたかといふことがだんだん明らかにされてくる。なるほど事実はちやんと辻つまが合ふやうに運ばれてゐる。責任のありどころも自然にはつきりしたにはしたが、それだけで問題はをはるのではない。

実に、これに眼をふさいではならぬと思はれる一事は、やはり、「最も大事なこと」が、たゞそれを「大事だ」と思ひ、「大事だ」と口にするだけで、いざといふ場合、政治家はもちろん、然るべき地位にあるものが、誰一人として、それが「どの程度に」大事であるか――を腹の底から感じ、それを「なによりも大事なこと」として通す聡明と勇気とをもちあはさなかつたといふことである。

要するに、あることが「この程度に」大事だといふことを示す尺度は、そのことが、それだけの情熱と努力とで支えられ、持続的な関心の的になるといふこと以外にはない。

云ひかへれば、そのことが不当に軽く扱はれてゐる状態を黙視できず、その状態が改まらない限り、どうしてもじつとしてゐられないといふ強い意慾のあらはれにほかならぬ。

われわれ日本人にとつて、ほんたうに「大事なこと」は、戦争にやぶれたから突如としてそのことが「大事に」なつた、といふやうなものはなにひとつなく、むしろ、かういふ戦争をひきおこし、かういふ負けかたをした、その根本の理由のなかにすべてはあるのである。

これもわかりきつたことだ。たゞみんなが「どの程度に」わかつてゐるか、である。

その「わかりかた」についての私の観察はたぶん間違つてはゐない。

個人の例をあげると面白い例がいくらもあるけれども、それよりも、現在の日本国民を代表するおほやけのひとつの機関を例にとる。

元来、われわれ日本人は、国民のほこりと、人間としてのほこりとを、あいまいなかたちでしか自覚してゐないが、この人間のほこりをちやんと身につけてゐるものが少いところに、大きな弱点があり、それをこそ封建的悪風といふのである。

敗戦国民は、その敗戦の責任がどこにあらうと、敗戦といふ事実によつてたしかに国民としてのほこりを失つたが、しかし、人間としてのほこりは厳としてこれを保つことはできないであらうか。できるはずである。人間としてのほこりが敗者としてのすべての損失をいつかつぐなひ得るのでなければならぬ。

民主的な国家とは、国民に民主的な精神が浸みこんでゐることだとすれば、われわれは、人間軽視の重大事実をまづ自ら認め、これに向つて必死の戦ひを挑まねばならぬ。

人間軽視の著しい現象は、われわれの日常生活のなかに充ち満ちてゐる。

だが、そのことを理くつのうへでかれこれ云ふだけでなく、めいめいが内心の声としてそれを聞かぬうちは決して気をゆるめることはできない。

日本がいま民主化されることを望まぬものはそれほどたくさんはないであらう。しかも、その民主化の動力とも云ふべきわが議会の今日の行動のなかに、法律的にといふよりも、むしろ形式的に、それゆゑにまたいくらかは道徳的に、「民主主義」が顔をしかめずにゐられぬであらうやうな決議を、おく面もなく満場一致でするといふ光景をみせつけられることは、かへすがへすも遺憾なことである。

問題は微妙である。国民が餓ゑるか餓ゑないかといふさかひである。国内の食糧だけではどうしても足りない。少くとも、あるところにはあるが、ないところにはない。そこへ、連合軍司令部からいはゆる放出食糧といふものが来たのである。もちろん政府としても国民としても、これに対して感謝すべき筋合のものであらう。それはそれでいゝとして、その感謝をあらはす程度、方法、ことにそれらを含めた態度そのものは、敗戦国の立場を意識しつゝ、それだけにまた、十分に人間としてのほこりを保つものでなければならぬ。議会が国民を代表するといふ意味は、政府が国民を代表するといふ意味とは違ふ。勝者の寛仁をたゝへる気持がよし議員諸子を感傷にみちびいたにせよ、議会そのものは断じてかゝる感傷におぼれてはならぬ。

連合軍乃至連合国の人道的な政策に対しては、政府自ら礼をつくして挨拶をすればよろしい。あの場合は、おそらく、内閣書記官長あたりが、司令部に出向いて一言謝辞を述べるといふ程度でありたい。日本人の人間としての品位にかゝはる問題である。

重ねて云ふが、これはたしかに微妙な問題である。議会が感謝決議をするといふことは、事柄が事がらであるだけに、必要以上にどぎつい印象を与へるのである。そのどぎつさは、個人の場合でいふと、言葉がおほげさであつたり、頭をぺこぺこさげたり、余計なお世辞をつけ加へたり、といふやうな類で、相手が幼稚、尊大でなければないほど、それは却つて礼にかなはぬことになり、一種軽侮の念を起させるにきまつてゐる。民主的な精神は、「威張る」ことを欲せぬとともに、最も卑くつなヂェスチュアをきらふ。われわれは、どうかすると自ら気づかずして威ばつたり卑くつになつたりしてゐる。恩に着るといふ思想そのもののなかに、すでに正当な感恩の念をはづれた、卑くつな下司根性、相手の自尊心をあほるやうな奴隷意識が巣くつてゐるのである。矜持を失つた人間の、それに気づかぬいゝ気な態度ほど、顰蹙すべきものはない。日本国民はそこまで身を持ちくづしてゐるだらうか。

何百人かの議員のなかに、これくらゐのことに気づくものが一人もゐないとは考へられぬ。「どうもちよつとをかしい」とは思つても、それが「どの程度に」をかしいかをはつきりつきとめようとしないわれわれのいつもの癖が、とうとうあんなことをさせてしまつたのであらう。

「恥づべきは負けたることにあらずして負くる道理に眼ふたぎしこと」といふ一首がふと私の頭に浮かんだのは一昨年の八月十五日のことであつた。

「大事なこと」がどこへ行つても大事なこととして通つてゐない現代の日本、それはまた、当り前のことがいつも当り前のこととして通用しない現代の日本なのである。

くどいやうであるが、この当り前のことを当り前のこととして通用させることが最も「大事なこと」であり、それを誰も「大事なこと」として取りあげなかつたことが、とりもなほさず、現在の日本を破滅にみちびいたのだと、私ははつきり云ひたい。

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