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旃陀羅考 日蓮聖人はエタの子なりという事
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旃陀羅考 日蓮聖人はエタの子なりという事
喜田貞吉
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翻訳 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 4 of 5

4 日蓮宗徒の信ずる日蓮の系図

日蓮宗側に伝うる「祖師伝記」によると、宗祖自身我は旃陀羅の子なりとか、旃陀羅の家より出づとか明言しておられるにかかわらず、毫もそれらしい素振りは見せずして、やはり例の通りの立派な系図を有せられることになっているのである。「祖師伝」の中でも最も古いと言われる「元祖化導記」は文明十年日朝述で、寛文六年の版だとあるが、それには或記というものによって、「先祖は遠州の人貫名五郎重実なり、平家の乱に安房国に流されたり」と云い、その重実の第二子たる貫名次郎重忠の第四子が、すなわち祖師日蓮だと云っているのである。次に永正二年に没した日澄の著だという「日蓮注画讃」(享保二十一年版)には、その貫名氏の先祖調べを行って、日蓮本姓三国氏だと云い、父は遠州刺史、すなわち遠江守貫名重実の次子重忠までは前者と同一だが、さらにその先は聖武天皇の裔で、母は清原氏だと余程古いところまで及んでいる。しかるに貞享二年の「蓮公年譜」に至っては、遠く藤原鎌足からその系図を引いて、彦根藩主井伊氏の一族となし、「伝に曰く本姓三国、後藤原に転ず」と云っているのである。かくてさらに享保の「本化別頭高祖伝」以下の書に至っては、三国氏とか、聖武天皇の後胤とかいうことはやめにして、初めから俗姓は藤原氏と極めてしまっているのが多い。また文永元年八月十四日日蓮在判の「聖人御系図御書」(「本化聖教日蓮聖人御遺文」所収)というものには、「自二神武四十五代聖武天皇一、河内守通行末葉遠江貫名五郎重実と云までは十一代也」として、これには聖武天皇説を祖述し、日蓮はその重実の孫だとある。これはもちろん問題にもならぬ偽書として措くとするも、その他の伝記の言うところが、また果して信ずべきか否かは、真宗の開祖親鸞聖人が名流日野家の公達で、九条関白の愛婿であったとの説と同様に、門徒以外にこれを強うることはかなり困難なものであろう。

藤原氏だと言い出した事については、既に天野信景の塩尻において、もと氏を貫名ということから、井伊氏の一族に貫名を名乗るもののあるのに思いついて、「寛永系図」から写し出したものであろうとスッパ抜いている。また平田篤胤の「出定笑語」にも、同じ趣きの弁駁がみえているのである。これはなるほどそうらしい。そこでまず藤原氏という事はしばらく措き、さらに「注画讃」の三国氏説について考えてみるに、その先祖が聖武天皇の後胤だとあることとは両立し難い感がないでもない。何となれば、三国氏が聖武天皇の後だとは、一向古書の記事に合わぬところで、「日本紀」には、継体天皇の皇子椀子皇子は三国公の先なりとあり、「新撰姓氏録」に三箇所まで見えている三国真人も、いずれも継体の皇子椀子王の後なりとあって、その以外聖武天皇の後に、三国氏の名は少しも見えていないのである。或いは古書に逸した三国氏が他にないとは言われぬとしても、そしてそれが聖武天皇の後胤であるとしても、或いはそれが大織冠の後裔であるとしても、敢えて聖人に軽重をなす所以のものではないから、敢えて問題とするには当らぬ事ながら、彼の多数の遺文の中において、聖人が一言その名流の出であることを歌っておられないことは、多少研究者をして首を傾けしめる事実だと謂わねばならぬ。否ただに聖人は自身それを歌っておられぬのみならず、かえって自ら旃陀羅の子なりと云い、今生は貧窮下賤の者と生れたと云い、人身に似て畜身なりと云い、身は畜生の身なりとまで言っておられるのである。なるほど先祖が皇胤名流であっても、子孫が落伍して旃陀羅にならぬとは云えぬ。そこで聖人の遠い御先祖は皇胤名流であったとしても、その父が旃陀羅であったから、聖人はその事実をのみ述べられて、遠い祖先の事には及ばれなかったのかもしれぬ。事実或る人々はこれを以て、聖人御謙遜の徳の尊い発露だと云い、特におくゆかしい所以であると解するものがないではない。しかしこれは他の祖師について或いは言うをうべきも、特に日蓮聖人については当り難い感がないではない。ことにその親を以て畜身にも比すべき程の旃陀羅の身分なりと公言することは、いかに御謙遜の辞とは云え、甚だしくその父母を辱かしめるものである。聖人はその「四恩鈔」に父母の恩を説いて、「今生の父母は我を生みて法華経を信ずる身となせり、梵天帝釈四大天王、転輪聖王の家に生れて、三界四天を譲られて、人天四衆に恭敬せられんよりも、恩重きは今の某の父母なるか」とまで云って、しきりに父母の恩を説いておられるのである。この聖人の孝徳の上から見ても、これを下賤の旃陀羅と公言し、毫も先祖の光栄に及ばぬということは、到底信じ難い説であらねばならぬ。聖人は常に自己を以て、日本第一の法華の行者だと云い、日本第一の忠臣だと云い、仏法を以て論ずれば一閻浮提第一の富者なりと云い、日本の柱、日本の眼目、日本の大船とならんとまで云い、自ら旃陀羅の子なりとしてこれを畜身糞嚢に比したる場合においてすらも、中に識神を宿して糞嚢に金を包めるに比し、はては自ら上行菩薩を以てまでも任じておられるのである。またその郷里たる安房国長狭郡東条郷を以て、「天照大神の御厨、右大将家の立て給いし日本第二のみくりや、今は日本第一なり」などと、かなり強い歴史的の御国自慢をまでもしておられるのである。かくすべての点において、極めて強き自信の発露を見るところの聖人の口よりして、そんな父母を辱かしめるような御謙遜の辞があるとは思われぬ。ことに聖人はその「善無畏三蔵鈔」において、

日蓮は安房国東条片海の石中の賤民が子なり、威徳なく有徳の者にあらず。

と云い、「中興入道消息」に、

日蓮は中国都の者にあらず、辺国将軍等の子息にもあらず、遠国の者、民の子にて候ひしかば……

など云いて、なお旃陀羅の子が糞嚢に金を包むに比したと同じく、自己の素姓を卑むが中にも、常に自負の意味をどこかに含ませておられるのである。この平素の態度から観察しても、聖人がもしさる名流の後であるならば、その多数の遺文の中には、何とか露われていそうなものでもあり、よしやしからずとするとも、その所生の父母を辱かしめてまでも、ことさらに旃陀羅の子なり、賤民の子なりと、繰り返して告白するの必要はなかった筈である。これはむしろ空也上人の如く、初めから何らその所出を言わぬ方がよかったのではないかと思われる。しかるにもかかわらず聖人がしばしばその所生の下賤を口にされたという事は、これ実に詐らざる告白であって、当時においてこれを隠慝する必要もなく、またこれを隠慝し得難いまでに、世間公知の事実であった為ではなかろうか。少くも聖人にその素姓を尊からしむるの意思のなかった事は、最も明白な次第である。したがって後人が強いて種々の付会をなして、世人をしてこれを疑わしめるような系図を誇張することは、これ実に聖人の真意に背くものであるのかもしれぬ。

果してしからば聖人のいわゆる旃陀羅とは、そもいかなるものであったであろう。

Chapter 4 of 5
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