Chapter 1 of 8

1 賀茂葵祭の放免

本願寺葬儀参列の宝来の事に関連して、前号までに一と通り祇園の犬神人の観察を終った自分は、これに次いでさらに賀茂の葵祭に関連して、「放免」なるものの由来変遷を観察すべき順序となった。

賀茂の葵祭は前例によって去る五月の十五日を以て厳粛に行われた。その祭儀の行列は例によっていかにも古典的のものであった。その参列者の名称から、その服装に至るまでも、大体として平安鎌倉時代当時の面影を、そのままに髣髴せしむるに足る程のものである。風俗研究会江馬務君の葵祭解説記するところによると、現時の行列には先頭に騎馬の警部が三人、次に素襖の侍が二人、次に看督長代が四人、次に騎馬の検非違使志代、これには調度掛、童、放免が各一人、火長代が二人、如木が四人、白丁が三人従っている。次に騎馬の検非違使尉代が一人、これには舎人がつき、別に前者と同様の従者がしたがっている。次に山城使代から以下一切の行列の事は、本編の研究に必要がないからここにこれが記述を省略して、以下単に検非違使随従の放免の事のみを記述してみたいのである。

言うまでもなく往時の検非違使庁は今の警視庁のようなもので、訟獄の事にもあずかるが、主として非違の警戒罪人の追捕を任としたものである。したがって賀茂祭の如き大祭には、その官人が勅使の行列の先頭に立って、非違警戒の任に当ったものであった。しかるにその先にさらに素襖の侍体のもののついているのは、おそらく室町時代において、検非違使の参列がもはや単に形式にのみ流れて、警固の実務に当るに足らなくなったが為に、別に当時の武士をして、二重にこれを護衛せしむるに至ったとの名残と察せられる。しかるにそれもまた後にはついに形式に流れて、警固の実を失ってしまったので、今ではさらにその前において、明治大正式の警部の、三重の護衛を要する事になったのである。いずれはこの警部もまた形式に流れて、さらに別の警固がそれにつく時代がないとも言えぬ。そしていわゆる放免は、その中では早くから形式に流れてしまったものなのである。今江馬君の説明を借りて、まず以て葵祭における放免の性質及び服装を紹介しておく。

鉾持(放免) 放免とは検非違使庁の下部にて、元来罪人の放免せられしものを用ひて、盗賊の追捕囚禁などに従事せしめしものなり。此の日放免は立烏帽子を冠り、摺染の狩衣に紅の単衣を重ねて鉾(木の枝)を持ちて行く。特に注意すべきは、胸に造花風流を付して行く。これ徒然草に所謂放免のつけものなり。摺染とは昔は木版の上に裂を貼り、山藍の葉をもつて摺りて文様せるものにて、放免には横縞の青き文様などを付したるなり。藁沓を履けるは前に同じ。(以上江馬氏の文)

葵祭に出る放免は検非違使庁の下部として、勅使の警固に立つ検非違使の官人に随行しているものである。当初は無論実用の鉾を持って、もし行列を犯すものでもあればこれを制止し、反抗でもすれば実際にこれを突き殺すくらいの覚悟を持っていたものであったに相違ない。その身分は最下級の警吏であったから、もちろんその服装の如きも簡易卑賤のものであったに相違ない。しかるにそれが既に平安朝も末期に近い大江匡房の頃になっては、彼らは葵祭に列する際には綾羅錦繍を身に纏いて、為に識者の不審を招く程にもなっていた。それがさらに鎌倉時代も末葉の、兼好法師の頃に至っては、その衣服にいろいろの飾り物をつけて、為に左右の袖が重くて自分一人の自由にならず、「人に持たせて自らは鉾だにも持たず、息つぎ苦しむ有様いと見苦し」と「徒然草」に嘲けらるるまでに甚だしくなった。今日ではそれ程ひどくはないけれども、それでもなおいろいろの造り花をつけて、金属の鉾の代りに木の枝を持ち、それがもと下級警吏たる検非違使庁の下部であった事などは、全く忘れられてしまった形になっているのである。

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