第1章 先天性代謝異常
動物や植物の属や種を区別するのに役立つ構造や形の違いは、自然における最も明白な事実である。これらを見つけるには科学の訓練を必要とせず、教育ていどが低い知能の人であっても気がつかないことはない。しかし知識が増えるとともにこの見かけ上の違いおよび形から形への発生的な関係の基礎に、均一性のあることを学ぶ。生体組織の化学的成分およびこれらの組織が作られ壊される代謝過程に関しては、進展が逆方向である。何故かと言うと、表面的な均一性の後ろに、見かけ上は明らかではないが形態よりもずっと実際的な違いのあることを、化学生理学の発展は我々に教えているからである。
異なる属の動物でヘモグロビンの究極的な成分および結晶形に違いのあることは古くから知られていた。もっとも明白な例の幾つかをあげるとすると、動物の脂肪の成分が同じようでないことはよく知られているし、胆汁酸の違いも同様である。代謝の最終産物が異なる例としてキヌレニン酸をあげることができる。これは犬族の尿に存在するものであって、タンパク質のトリプトファン部分を取り扱う方法が属によって違っていることを示している。鳥や爬虫類は廃棄する窒素の大量を尿酸として排泄するのに対して、哺乳動物の尿の窒素構成分の大部分は尿素である。
厳密に化学的な方法によってももっと広範に研究すると Przibram(1)が筋タンパク質について前駆的な研究を行ったように数えきれないほどの小さい違いが示されるであろう。最近の研究者たちが開発した沈降素法のような超化学的な方法はもっと細かい違いを明らかにし、個々の種に属するものはそれぞれ特異的なタンパク質からなり、それらは種の関係が密接であればあるだけ互いに似ていることを教えている。
このような特異的な違いは分解によって得られる単純な最終産物よりは、明らかに高度に複雑なタンパク質に見られるものである。タンパク質分子の構造の中に入っている多くのアミノ酸は殆ど数えることができないグループを作り割合をしていて、それぞれの新しいグループは異なったタンパク質を形成する。しかし分解するとすべて似ていて尿素と二酸化炭素のように同じ単純な最終産物を与えるであろう。
化学的な構造および過程の多様性は種の境界によって限られてはいないし、実際に終点が無い境界の中で均一性が支配しているのではない。このような均一性の概念は自然および種の起源の進化論的の概念と矛盾する。化学的な個性の存在は当然のところ化学的特異性に従うものであるが、個体の間の違いはもっと細かくて、検出は困難なことを知るべきである。これらの存在は人においても皮膚や毛や眼の色について、内的なものであって最近の研究に示されるように食べ物によっては影響されないような代謝最終産物の量的な違いに見ることができる。ある人にとっての肉は他の人にとって毒であるという諺でまとめられているような薬や食品にたいする特異体質(アレルギー)は化学的な基礎が多分あるのだろう。
構造的な変化にたいするのと同じように化学的な変化にたいしても、進化のための要因は今まで働いてきたし今でも働いているのであろう。この事実は多くの方向で見ることができる。たとえば腎臓の微妙な選択力である。それによって血液にある必須なタンパク質を循環に残し、少量であってもヘモグロビン・タンパク質やベンス・ジョーンズ・タンパク質のように血漿にとって異物であるタンパク質を自由に通過させる。これらの要因はまた化学毒物にたいする種々の保護機構に見られる。たとえば過剰にある酸を中和するために生体の固定アルカリを使い切らないようにアンモニアによって中和する。この機構は肉食動物や人間ではよく発達しているが、草食動物ではアシドーシスにになることは食物の本質によって殆どないので、この機構が不足しているようである。
正常な代謝過程においてもこのような影響を見ることができる。たとえばタンパク質の成分である芳香族アミノ酸のベンゼン環を生体は分解する能力を持っていて身体にとって異物とみなすことはないが、異物である芳香族化合物のベンゼン環は非常に少ない例外を除いて分解することはない。このような物質は硫酸と結合して芳香族硫酸エステルとなるかグリシンと結合して馬尿酸の仲間の酸となって無害となり尿中に排泄されて処理される必要がある。数少ない例外とはアミノ酸と構造が似ていて正常の分解過程を受けるものである。近年になって化学的な生理学および病理学が大きく進歩してアミノ酸の構造の知識およびそれの生体内の化学変化における酵素の役割が新しく得られて、代謝過程の本質についての我々の概念が基本的に変化し、これらの代謝変化が種々の属および種によってどのように異なるかを容易に理解できるようになった。以前には病気による代謝の混乱は組織における酸化過程の一般的な遅れによるものと考えられていた。このことを明白に示しているのは Bence-Jones(2)が酸化低下病について1865年に刊行した講演に示されている。ここで問題になっている主題は主として Bouchard(3)が有名な「栄養低下の病気」(Ralentissement de la Nutrition)で述べ1882年に刊行したことと関係している。痛風、肥満、糖尿病のような病気がしばしば臨床的に関連していることはこの説を支持する引き合いに出されていて、グルコースのような特定の代謝産物の燃焼障害が他のものの処分不能と関係していることを示す事実がほとんど無いことはこのような見解を受け入れる重要な障害にはなっていない。
今では全く異なる考えが盛んになっている。一纏めにした代謝の概念は部分的な代謝の概念に席を譲りつつある。タンパク質、糖質、脂肪の全般だけではなく、タンパク質の個々の部分(*アミノ酸)や個々の糖類の合成および分解が、それの目的のための別々の特定な酵素の働きによることは、毎日のように支持を得ている。このようにして一般的な酸化低下の概念はたとえば甲状腺のような腺組織が代謝全体に調節的な影響を及ぼしているような非常に限られた範囲に狭められている。例えばフルクトースはグルコースと同じように処理されるのではなく特有な経路を通ることが知られている。グルコースを燃やす能力が著しく損なわれた人もフルクトースを正常に利用するであろう。ここにも、タンパク質の幾つかの部分であるチロシン、シスチン、トリプトファン、その他は、共通の燃焼炉において燃料になるだけではなく、それぞれが特定の様式でそれぞれの段階で処理されることを示す事実がある。
幾つもの段階で作られた中間産物はそれとしては一時的な存在であってほとんど作られるや否やさらに変化を受けるのであろう。そしてどの特定の経路の代謝過程にしても判然とした段階としてではなく継続的な動きとして描かれるべきである。この過程のどれか1つの段階がうまく行かないと停止した場所にある中間産物はその後の変化を受けないことになる。ちょうど活動写真(バイオグラフ)のフィルムが停止すると動いている像が足を宙に浮かしたままになるようなものである。異化過程においてこのようなことになると中間産物は異常な方向に処理されることはなく、そのまま排泄されることが知られている。異常な条件において代謝過程が普段の道筋から離れて全く新しい道に入り正常身体の化学には無い産物を得るかどうかは議論しなければならない問題である。このようなことが起きることは一般には認められるが、もしも酵素による部分的な代謝の概念が正しいとしたら、何らかの理由で正常な過程が封鎖されたときに代理になる経路が準備されていることはアプリオリにありそうなことではない。このような環境では正常な中間産物がそれ以上の変化を受けずに排泄され、健康状態では代謝において小さな部分しか占めない過程が普通でない活性の原因になることは、ずっと考え易いことである。
このように代謝経路が永続的であるという考えは決して新しいものではない。何故かと言うと前世紀のある生理学者たちの著作の行間に読むことができるからである。特に Claude Bernard(4)の次の段落を訳すことにしよう。
「糖尿病では全く新しい条件がこの病的状態の影響のもとで節約のために発展し特別な病的産物であるグルコースが作られるものと思われてきた。しかし今ではここで観察されている現象は全ての生体において健康な時においてもグルコースを作っている正常な機能の純粋で単純な強化であるとして説明されている。この病気は混乱し誇張された生理的機能に過ぎないことは明らかである。」
もっと驚くべきのは次の段落である(5)。
「さらに今のところ敢えて病的な生命法則と正常な生命法則を区別すべきであるとしているのだろうか?これは倒れた家で成立する力学法則と立っている家の力学法則を区別するようなものである。」("Et maintenant oserait-on soutenir qil faut distinguer les lois de la vie l'tat pathologique des lois de la vie l'tat normal? Ce serait vouloir distinguer les lois de la mcanique dans une maison qui tombe, des lois do la mcanique dans une maison qui tient debout.")
ここに提唱した議論が正しいことを証明するには、病的状態において組織または排泄物に見つかるそれぞれの異常産物について、新しく稀な経路に代謝過程の外れたことが原因であり得ないことを示す必要があろう。すべてこれらの産物についてこのような主張のできないことを認めなければならない。たとえば多発性骨髄腫の患者の尿中に排泄される顕著なベンス・ジョーンズ・タンパク質の母体および原因の様式を我々は今でも知らないし、これがタンパク質代謝の正常な中間産物であると主張するような事実も無い。それにしても動物の排泄でもっとも重要な尿に時に存在する異常成分を分類してみると、消化管から吸収された単なる異物や腸管または組織における細菌生活や活動の産物以外には、不完全燃焼した中間産物または正常状態で存在する痕跡的なものを誇張したと考えることができないものは殆ど無い。
尿中の幾つかの異常成分だけでなく正常成分もまた消化管から来ている。このようにして食物および薬品として摂取したものはそのまま変化しないこともあるし、吸収されてから腸管内で酸化されたり還元されたりしたり、代謝産物と結合して又もや尿中に現れる。最後にあげた化学防御機構で処理された物質を異常排泄物とみなすことはできない。健康状態でも尿中の全硫酸のほぼ10分の1は芳香族物質と結合して硫酸エステルになっている。少量のグルクロン酸(*原著ではグリクロン酸)抱合体は正常でも存在するし野菜の芳香族成分の一部はグリシンと結合して馬尿酸やその仲間として排泄される。これらの防御機構で処理できる他の有害物質が大量に摂取されるとこの防御過程は普通にないように亢進される。
このような結合に使われる物質は正常代謝の産物であるとは限らない。結合が酸化の前に起きることもあるからである。たとえばグルクロン酸抱合体として排泄されるグルクロン酸はこれまで考えられてきたようにグルコース分解の中間段階ではないであろう。何故かと言うとエミール・フィッシャーが指摘して来たように、より不安定な(*アルデヒド)基がそのままのあいだに異物はグルコースそのものにまず結合し、アルデヒド基は変化しないように防御され、グルクロン酸への変化は次の段階であると仮定すると、グルコースのアルコール基の酸化は容易に説明できる。
ある種の排泄物は食物のタンパク質または胆汁成分にたいして細菌が消化管において作用した産物である。たとえばウロビリンは腸管の細菌によってビリルビンから作られ、胆汁が腸管に入る限りは大便に大量に存在する。腸管からある程度のウロビリンは吸収され、一部は胆汁に一部は尿中に排泄され、その間にたぶん一部は組織で分解されるのであろう。さらに摂取されたタンパク質のトリプトファンは腸内細菌によってインドールとなり、インドキシルに酸化された後で主としてインドキシル硫酸になり、一部はグルクロン酸と結合して尿中に排泄される。排泄を行っている臓器の病気は排泄物にたいして顕著な効果を示す。例えば病気の腎臓は尿のある成分を排泄しなかったり逆に循環に残すのが機能であるのに血清蛋白質を通過させる。さらに導管を不通にして黄疸のときのように腺の活性産物を血液に戻して尿に出るようにする。しかしこのような異常成分が尿に存在するのは決して代謝の異常によるのではない。
健康からの殆どどんな片寄りであっても代謝過程の障害が実際に起きるが、それによる尿の変化の解釈は多くの場合に代謝経路の中間段階について我々の知識が不足なことによって大きく妨げられている。これらの段階についての我々の知識は自然の実験の1つの結果として特定の道筋が障害されて中間産物は不完全に燃焼する。異常構成分とされている多くの物質が代謝正常尿中に微量に存在し、我々はこのように存在する痕跡的なものをすべて気づいていないとみなすのが安全であろう。たとえば Dombrowski はすごい量の正常尿(100リットル)を処理して少量のカダベリン(*脱炭酸したリシン)の存在を証明することができた。そして精密な機械であるスペクトロスコープは正常尿中に粗野な方法では見つけることができないヘマトポルフィリンを検出できた。ほんの最近になってそれまで知られていなかった硫黄を含む酸のあるものの少なくない量が正常尿に存在することが示され、現在でもいわゆる中性硫黄や残余窒素と呼ばれているものの全ての成分を我々は確実には知っていない。
肝臓を代表とする大きな実験室機能を持つ腺の病気がそれらを座(*本拠)とする化学過程に及ぼす影響は考えているほど顕著ではない。たぶんこれはその臓器の少量の残り部分が全体の役割を果たしているのか、または肝臓の非常に重篤な代謝活性の障害は生命と両立出来ないことを忘れてはならない。他方でバセドウ氏病や粘液水腫は、全体としての代謝過程に制御の影響を働かせている腺の萎縮や病気が、重大な影響を与えることを証言する。尿の異常成分のあるものは組織の不適当な分解や生体内の自己融解の産物である。これらの起源は今ではふつう急性黄色肝萎縮症で排泄されたチロシンやロイシン、および尿中にあるアルブモース(*変性タンパク質)に起因するとされている。
構造変化はあまりはっきりしていないか又は気がつかないのに代謝障害が非常に顕著な一群の病気がある。このような「代謝病」のうちで糖尿病、痛風、肥満はもっとも重要である。痛風の特徴である血液中の尿酸の増加および尿酸ナトリウムの組織への蓄積が単なる排泄の欠除とは違って実際どの程度に代謝の障害によるのか今でも確かでない。我々は糖尿病で多分この名前のもとである頑固な糖尿を伴なう1つの病的状態以上のもの、すなわち臨床像を支配する1次的および2次的な代謝障害を含めるであろう。始めに糖は少量しか排泄されず、しかも炭水化物を多く含む食事の後だけであろう。後になると糖尿は継続的になり尿中における糖の割合は高くなり、最後に重篤な例になると糖の排泄は食事によって制御することはできなくなり、組織タンパク質は糖を供給するために使われる。燃えないグルコースの血液中の蓄積そのものもひどい悪を引き起こすが、脂肪およびタンパク質の分解で大量に作られるケトン体とくにβ-ヒドロキシ酪酸によって致死的な最期を迎えることになると現在では普通に考えられている。糖尿病や痛風に罹りやすいのはしばしば遺伝するが、生まれつきでないことが示すように病気そのものは遺伝しない。生涯のあるときに起きて、この不幸はひとたび始まると時とともに悪化するが、しかし悪化の速度は個々の例によって広範に異なり、しばしば適当な治療によって顕著に制御される。
上に述べた代謝病と全く違うのは、「先天的な代謝の誤り」(*先天性代謝異常)として取り扱うことにし、纏めて分類しようとする一連の異常例である。これらのあるものは間違いなく、すべては多分、産まれたときから存在する。化学的な誤りは平坦な道を通り時が経っても悪化する傾向を示さない。1つの例外を除いて過程のあいだに重篤な病状を示さず、治療を必要とせず、我々ができる治療法によってほとんど影響されないようである。しかしその種の普通の個体差より正常から顕著に大きく離れていて、代謝的な変種すなわち形態的な奇形の化学的な類似物と見なしたくなる。19世紀の始めにすらこの1つである白皮症は Mansfield(6)および Meckel(7)によって「抑制的奇形」または進行停止による奇形であると分類された。
ここで先天性(inborn)および生まれつき(congenital)という形容詞は決して同じ意味でないことを指摘しよう。構造的な異常は子宮内における病気や子宮内における傷害によって産まれたときに存在することもあるが、これらは決して発生の誤りではない。又もや感染症は生まれつきのこともあるだろうが先天性ではあり得ない。単に子宮内感染に過ぎない。真の発生の誤りにすら多様な種類が存在する。あるときに部分的または完全に臓器の位置が違ったり転移している。あるときには同じ部分が2つあったり2つの構造が包まれたりする。ある種の形態的な異常には多指症のように過剰な奇形があり、あるものは各指の中央指骨の欠損による奇形である。大きな1つの分類はいわゆる停止による奇形であり、発生の過程において妨害が起きて身体のある部分が終了しないままになる。このグループには兎唇、口蓋裂、脊椎披裂が属する。このような停止について J. A. Thomson 教授(8)は「これらの異常はしばしば1家系で繰り返して起きるが、実際に遺伝するのは『発生力』の不足であり、妊娠のあいだに母親の栄養不足によって強められている。」ここで問題にしている代謝の誤りは子宮内における傷害や病気のような外的な原因によるものではない。これらは我々の知識からすると代謝を形成するあれこれの化学変化の失敗の明らかな結果であると判断することが可能であり、この点において欠損による奇形として知られているものに非常に近い。機能の先天的な混乱は代謝分野だけではない。何故かと言うと色盲および夜盲(*現在はビタミンA欠乏症)ははっきりとした化学的基礎が無いこのような変異の例として引用することができよう。
一見すると機能の先天的な不全と形態欠損のあいだに共通なものは無いように見える。しかしよく考えると違いは現実的なものよりむしろ外見的なものである。ほとんどどのような形態欠損も何らかの機能不全を伴なう。時には形態欠損は殆ど気がつかない反面、結果である機能不全は顕著であって原因である欠損を覆い隠してしまう。軽度の形態欠損によって重特な機能不全が起きることは、生まれつきにせよ後天的にせよ甲状腺の萎縮に見られるし膵臓の比較的に軽度な病的な変化で嵐のような代謝不良が起きる。選択的繁殖によって踊るマウスの競争がされてきたが、この奇妙なダンスは半規管の先天性で遺伝的な奇形による機能的な発現に過ぎない。同じように全ての化学的変異の基礎には軽度なために見つからなかったある種の構造異常があろう。人体で起きる種々の複雑な代謝過程には殆ど数えることのできないこのような変異が存在する。しかし証拠として提出できる例の数は少ない。実際のところ今日までに理論的に示すことができるこの分類のものは白皮症、アルカプトン尿症、シスチン尿症およびペントース尿症であり、これらに関してもこの分類に入れる理由にすべて同じ説得力があるのではない。
表面組織や排泄物のある種の著しく異常な外見、または普段の臨床でする検査に反応するある物質の排泄や明らかな病的症状の、どちらかによって異常のあることを物語って注意を最初に惹きつけるような異常の存在することを当然ながら我々は期待している。既知の先天性代謝異常のどれもがこれらのどれかのことで知ることができる。しかしこのことは同じように稀であり存在することを宣伝しないような他の病気は今まで注意されてこなかったことがあり得ることを示している。24時間で尿に数グラムのアスパラギン酸を含むような2万人のうちの1人は見逃されるであろう。
理論的にはこのグループに属している異常は産まれたときから存在し一生のあいだ続くべきであるが、私が述べた4つの代謝異常すべてについて始まりを完全に主張できないことを告白しなければならない。一部の者は注意をひきつけるような明白な効果が無く大人になって偶然にも見つけ出されだけであって、患者自身または両親の証明は子供のときの異常を後になって思い出す努力に何の役にも立ち得ない。
白皮症が生まれつきであって一生のあいだ続くことは明らかであり議論の余地は無い。この症状はどの形態異常とも同じように明らかであり、多くのばあいにそれ以上に明白である。人間で稀なこともまた明らかであるが、下等動物では人工淘汰によって無限に繰り返すことが出来るようである。
アルカプトン尿症が一生のあいだ続くことは同じようによく確立されている。この異常は非常に多くのばあい先天性であるが、時には病気のときに一時的な現象として起きることがある。アルカプトン尿は顕著な染色性によって産まれてすぐに気がつくし、2例について衣服が黒く染まることによって生後2日で気がついた信頼できる事実を得ることができ、そのうちの1例では生後10日のあいだに排泄された尿を検査する機会があった(9)。他方、異常を示す個人が尿の特別な性質に気がつかないで成人になることもあり、アルカプトン尿症であることに気がついたのは生命保険の契約をしたり他の病気で治療を受けた時だけのことがある。7人の子供の母親は、3人がアルカプトン尿症で、そのうちの2人は生まれて早い時期からアルカプトン尿を排泄しているにもかかわらず、5歳になって初めて異常であると気がついたのは最初の子ではなかった、と確信している興味深い事実をWinternitz(10)は報告している。アルカプトン尿症の症状に詳しい母親が提供したこのような情報は噂の伝えることができる事実より以上の重要性を持つが、尿の実際の化学検査を伴わないものはそれほど重要な証明とは言えないであろう。
シスチン尿症についてはこれが生まれつきに起きている事実を得るのはずっと困難であろう。それはこの異常が小児においては注意をひくことが殆ど無いからである。シスチン尿症が両親から子供に運ばれることが少なくないので、この異常を持つ人たちの子供の尿を調べるのが問題を決定するもっともよい方法であろう。これが幼い子供にあるだろうことは多くの事実が示している。これまでで最初に調べられたシスチン結石(11)は5歳の子供の膀胱から取り出された。Abderhalden(12)は同じ家族のそれぞれ21月および14月の2人の子供にシスチン尿症を見つけたことを記録しているし、Ultzmann(13)は2歳のシスチン結石のある子供で12月から結石のあった例を記録している。年長の子供の報告は多くない。シスチン尿症が長いあいだ続く事実を示すものとして故 Henry Thompson 卿(4)を引用することができよう。これは81歳の老齢男子のシスチン結石を砕いた例であって、彼は同様な結石を39年前に排泄したことがあった。シスチン尿症はアルカプトン尿症と同じように時には一時的または断続的なことがあると信ずることができる。
最近になり見つかり最も知られていないペントース尿症が生まれつきに起きていることを示す直接の事実はまだ得られておらず、これを加えるには他の理由によって正当化しなければならない。何年間も変化しないで続くことは確かであるが、これまでに観察された最年少のペントース尿者は15歳の男児であった。
人間における白皮症は誰でも自分で観察して判断できるが、他の先天性異常よりも多いわけではない。シスチン尿症は4つのうちで明らかに稀さが最低(*頻度が高い)と私は信じている。C. E. Simon(16)は15,000の尿を調べて1つのシスチン沈渣を見ただけであり Primavera(17)は20,000の尿で1つであった(*アルカプトン尿症の頻度はこの10分の1以下)。4つすべての異常が共通に持っているのは女性よりも男性に多いことであった。たぶん生まれつきと思われるアルカプトン尿症38例のうちで31例は男性で7例だけが女性であった。Simon の記録からの93例のシスチン尿症のうちで63例は男性で30例が女性であった。26例のペントース尿者のうちで19例が男性で7例が女性であった。白皮症で男性が多いとしばしば言われてきたが、Ascoleo(18)のシチリア島で集めた例では男女の差は比較的に少なく、34人の男性と28人の女性であった。形態的奇形にこのような不均一な性差があるとは、少なくとも2つの病院の記録から集めた数値からは見られないし、Fara-bee(19)が記載した、多くの家族で中央の指骨が存在しない欠損による奇形の例で異常があった多くは女性であった。Drinkwater(20)の記載した同様の家族では男性が少しばかり多かった。
有害で無いことは先天性異常の本質的な性質ではないが、代謝の誤りが出生時から成人までおよび高齢まで続くのは比較的に無害なので当然である(*その後になってフェニルケトン尿症のように知能障害の原因となる先天性代謝不全が見つかった)。白皮症は不都合ではあるが確かに害は無いし、アルカプトン尿症の最も重篤な直接の結果は種々の組織黒変症(ochronosis)であって人によって高年になると発現する。ペントース尿症の害が無いことを示す事実は増えてきていて、分子中に5個の炭素原子のある糖の排泄は糖尿(グルコース尿)のような悪い意味を持たない。シスチン尿症だけは実際に害のあるものに分類され、その悪い影響はしばしば重篤なこともあるが代謝異常そのものによるのではなく二次的であり、シスチンのように不溶性のものを(*尿酸など不溶性のものを排泄できる鳥類様式ではなく)哺乳類様式の尿道で排泄する不都合な結果である。Abderhalden が記載したシスチン尿症によると思われる21月幼児の死亡例においてさえ尿における合併症の他には組織におけるシスチンの沈殿が病理解剖のときに見られた顕著な病変であった。
ここで問題になっている異常には共通のものとしてさらに他の重要問題が残っている。すなわちそれぞれの異常が1家族の何人かのメンバーに起きやすいことであり、多くの場合に正常の両親から生まれた傍系の同じ世代(*子供たち)のことが多い。この点においてもちろん彼(女)らは孤立してはいない。多くの実際の病気および形態的な奇形と関連して遺伝の影響が問題となり、病気の中では糖尿病および痛風のような代謝異常が最も顕著である。これまでに論じたすべての他の共通の特徴と連係することによってのみ、それらの発病の様式をその本質についての考えを支えるものとして提出することができる
遺伝学の研究者には先天性代謝異常は希望を持つことのできる研究であるが、遺伝の観点からのしかるべき研究には多くの困難がある。白皮症の例を除くと人間の偶然な交合に頼らなければならず、そこで得られた結論は動物の実験育種で確かめることはできない。確かにシスチン尿症はイヌで起きることが知られている。イヌから得た結石は1823年に Lassaigne(21)により記載され、その後に他の例も記録され(22)ているが、今でも診断はイヌが死んだ後でしか得られず、この異常の研究の進歩にこの事実を利用する機会は無い。アルカプトン尿症およびペントース尿症が下等の動物で起きるかどうかは知られていない。あるとしても気がついていない。
家族の過去の世代における化学的な異常の情報を集めるのは、白皮症およびことによったらアルカプトン尿症を除いては、当然ながら形態的異常にくらべてずっと困難である。遺伝に関連して重要な正常と異常の数の比較ですら得られる情報は少なく、個人的な検査を基礎にしたのでなければ信用できない。しかし明白な1点はアルカプトン尿症と白皮症の起き方が非常によく似ていることであり、両者の発現が同じ法則により支配されていることを示唆している。両者ともに、異常を示していない両親から生まれた家族で何人かの兄弟または姉妹に起きる傾向があり、両親のどちらかから子供への直接の遺伝はきわめて稀である。人間の白皮症のかなりな割合は血族結婚の子供たちであることは繰り返して述べられている。たとえば Ascoleo によると60人の白皮症のいる24家族において5家族は「いとこ」(first cousine)が結婚した子供であった。2例だけで白皮症は両親から子供に遺伝していた。私は Karl Pearson 教授が Nettleship とUsher の両氏とともに集めた白皮症の家系において血族結婚の割合が高いことを知らせてくださったことに感謝する。正確な割合は確かではないが白皮症のメンバーがいる家族の20%は両親が血族結婚であると主張しても安全であろう。アルカプトン尿症の病例についての必要な情報は集まりつつあるが、非常に大きな割合はいとこ結婚の子供たちである。1902(23)に私はこの点について注意を喚起し、もっと最近の病例については割合があるていど低下してはいるが、もっと最近の病例を入れ込んだ次の表で示すことにしよう。
左表:いとこ同士結婚で生まれた子供たちの家族(観察者氏名:アルカプトン尿者の数)。
右表:両親間に血縁関係が無い家族(観察者氏名・アルカプトン尿者の数)。
(*本論文で家族(family)とは両親を含まない。=sibling)
表が示すように18の家族(*両親を除いて子供たち)のうちで8家族はいとこ結婚の子供たちであり10家族は血族関係が無い両親の子供たちであり、全体で34病例のうちで15病例は最初のグループに属する。正常の両親から何人かの異常の子供が生まれることと両親の血属関係のあいだには密接な関係のあるようであり、最近の報告でFeer(20)がこの関係を強調している。両親がある1つの血液であることにより「新しく」子供たちに異常の起きたという単純な事実を考える人は今では居らず、両方の両親が伝播することになる隠れた性質の出現は、ある家族のメンバーの交合によることは明らかである。
この国におけるいとこ結婚の割合についての統計は非常に貧弱である。George Darwin 卿(25)(ダーウィンの息子)はすべての結婚の3%以下がこの種のものであると計算し、最近 Karl Pearson 教授(26)は専門家階級でいとこ結婚が4.9%とする数値を集めているがいろいろな理由で多分あるていど高いだろうとみなし、ロンドンの病院の患者からの階級では0.86であるとしている。2つの階級におけるすべての程度の血族結婚はそれぞれ7.76%および1.3%であった。したがってでアルカプトン尿症の子供たちの両親におけるこのような結婚の割合は全く異常(*高い)なことは明らかである。他方、このような結婚による子供たちにおけるアルカプトン尿症の割合は実際に非常に低いことになる。ヨーロッパとアメリカにおけるアルカプトン尿症者は50から60人に過ぎないが、いとこ結婚でできた子供たちはロンドンだけでもたぶん数千人になるだろう。Bateson(27)が指摘し最近には Punuett(28)が強調したようにアルカプトン尿症の出現様式はここで問題になっている異常がメンデルの意味における稀な劣性形質とみなすならば容易に説明することができる。メンデル法則は2つの相互に排他的な形質について、そのうちで1つは優性で他方は劣性であると主張していて、交配した個体(雑種)は優性の形質を示す傾向をもつが、雑種の子供たちを交配するとどちらかの形質を示し、優性と劣性が一定の割合になるであろう。メンデルの理論は各世代の性細胞すなわち配偶子が問題にしている性質に関して純粋であり、優性の配偶子と劣性の配偶子が同数づつ作られる結果が観察されると仮定して、このことを説明している。2つの雑種からの次世代のうち、4分の1は2個の優性配偶子の結合により作られ同じ配偶子だけを作るであろう。他の4分の1は劣性配偶子の結合によって作られ劣性の配偶子だけを作るであろう。残りの半分はそれ自身は優性の形質を示すが両親と同じように雑種であり優性の配偶子と劣性の配偶子の両方を作るであろう。2個の劣性の配偶子が受精において出会ったときだけにその結果の個体は劣性の形質を示す。
もしも劣性形質が稀なものであるとこのような2つの配偶子が結合する前に数多くの世代を経なければならないであろう。なぜかと言うと劣性の配偶子を作る家族は数が少なく両親が2人ともこのような配偶子を作るような結婚をする機会は非常に小さい筈だからである。しかしこのような家族の2人が相互に結婚する(*血族結婚)と機会は増加しこのような結婚による子供たちのうちのあるものは異常を示すであろう。異常が稀であればあるだけ血族結婚の影響は顕著なはずである。もしも劣性形質の個人が両方(*優性と劣性)の配偶子を作る見掛け上は優性の者と交配すると、かなりの割合の子供が劣性形質を持つことになり、片親が劣性でもう1人は見掛け上は正常な両親の劣性の子供に会うことになる。このような片親がアルカプトン尿症でない両親から子供にアルカプトン尿症が直接に遺伝する2例が知られている。そのうちの1つは Osler(29)が観察した例である。兄弟もまた異常であるアルカプトン尿症の父親の息子もまたアルカプトン尿症であった。第2例は Orsi(30)が記録したもので、母親、息子、娘のすべてがアルカプトン尿症であった(31)。最後に劣性者が劣性者と交配したらすべての子供は劣性形質を示す筈であうが、アルカプトン尿者同士の結婚の起きた例は知られていない。しかしマウスのように子孫が多い動物の場合には子供たちのあいだの優性者と劣性者の割合を知ることができるが、子供がずっと少ない人間の偶然の交配の結果はあまり典型的ではない。
実際のところ、ヒトの形質については優性の子供と劣性の子供の比率はメンデル法則が要求するものから大きく離れることがあり、誤った資料数がこのような結果をダメにする傾向のあることを認めざるを得ない。経験によると患者の家族について正常かそうでないかについての情報は信用できないことが多く、とくに化学的な異常については特にそうである。中年の個人は子供のときに死んだ兄弟や姉妹について殆ど知らない。流産を考慮しなければならないし、ここでも提供される数は不完全な家族と関係し、その後の誕生によって大きく修正されることがある。上のような理由でアルカプトン尿症について得られる数値は重視できないが、次の表は価値がある18家族についてのものである。
(家族番号:観察者氏名:家族の総人数:家族内アルカプトン症者の数)
(*本論文で家族(family)とは両親を含まない。=sibling)
計で正常メンバーは大きく優勢ではあるが、メンデルの法則が要求するものに近づいてはいない。この法則によると劣性形質は子供の4分の1でなければならない。アルカプトン尿者は34ではなく24または25でなければならない。この数値はメンデルにフェアでないことは明らかである。我々の注意を大きな家族に限ることを予期する人があるだろうし、5人またはそれ以上の子供がいる1番目から9番目の家族で計はメンデル法則に完全に従うようになる。すなわち76:57:19で比は4:3:1である。しかし家族(子供)が5人またはそれ以上に線を引くのは全く根拠がない操作である。Baumann と Embden の患者たちは私生児の兄弟・姉妹であるがこの結合による唯一の子供たちであるかどうか記録は明らかではない。両親は別れてそれぞれが子供を持ったが1人もアルカプトン尿症ではなかった。記録にある3組のアルカプトン尿者たちは双生児であった。1例では双生児の2番目は間違いなく、他の2例ではたぶん正常であった(32)。どの例でも双生児のうち正常な子供は死亡しアルカプトン尿者が育った。双生児たちは2例では同性であった。
アルカプトン尿症がメンデル法則の劣性形質であるというこの見解を決定的なものとすることができる最強の議論は、ヒトにおける発現の様式が極めて似ている白皮症が、動物の実験的繁殖において劣性形質である事実(33)によって与えられると私は考える。ヒトの家族における白皮症メンバーの割合について Bateson(34)が引用している数値は、アルカプトン尿症家族として上に引用した数値以上にメンデル法則の要求に厳密には即してはいない。
ペントース尿症が兄弟、姉妹に起きる事実が多く得られているが、両親から子供への伝達の例は記録されていない。この異常がある人物の両親に血縁関係があるかどうか知られていない。ユダヤ人に特に起きる事実はあるていど得られている。
シスチン尿症の遺伝について得られる事実はアルカプトン尿症に関するものよりもずっと少ない。これは異常の性質がより明らかでないことによるもので、シスチン尿症のメンバーと正常のメンバーの数を確実にするには、その家族の全員の尿を注意深く検査しなければならないからである。シスチン尿症者は必ずしも結石ができるとは限らないし、あるときには尿に結晶がたまっていないし、家族の他のメンバーについての両親の言うことはこの点では価値が無く、結石の幾つかの例についての歴史だけが示唆に富んでいる。得られる情報は両親から子供への直接な伝達は他の代謝異常より多く、シスチン尿症は続けて3代にわたり確実に追跡されている。たとえば Abderhalden が研究した家族では父系の祖父と父親がシスチン尿症であるのに母親は正常であった。5人の子供のうち1人は栄養失調の症状で21ヶ月に死亡しシスチンは組織に沈積していた。他の2人も同じ症状でそれぞれ9ヶ月と17ヶ月で死亡したが、シスチンを排泄したかどうか判らない。生存している子供はそれぞれ4才半および半年であり、2人ともシスチン尿症であった。ここで示したような多数の割合のシスチン尿症の子供たちは他の家族にも見られた。Cohn(36)が記載した家族ではシスチン尿症の母親と正常な父親に12人の子供がいた。彼らのうちの2人の尿は得られなかったが残り10人のうちで7人以上がシスチンを排泄した。さらに Pfeiffer(37)は正常の両親の4人の子供について記録している。父親の言うところで彼らはいとこ同士であり、子供たちはすべてシスチン尿症者であった。患者である1人の娘の2人の子供たちは正常であった。私が知ることのできた他の家族で6人の子供のうち2人がシスチン尿症であった。両親は異母[父]兄弟の子供同士であった。直接遺伝の頻度が高く子供たちの割合が大きいことは、もしもシスチン尿症がメンデル法則に従って伝達されるなら劣性形質であるよりは優勢形質なのであろう。
これまで我々はこれらの先天性代謝異常をひとまとめにし、それらに共通な点、およびそれらが奇形のうちで異なるグループを形成していると見なす理由、を考えてきた。しかしそれぞれは興味深い独自の特徴を持っていて、正常な人体において働いている化学過程の研究に光をあてる意味においても、詳細に考慮する充分な価値が存在する。