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然りといえども帝政論派もまた政界に功なしというべからざるなり、当時世の風潮は民権自由の説に傾きいわゆる末流の徒は公然言論をもって王室の尊厳を犯すあるに至る、そのいまだかかる粗暴に至らざる者といえども世の風潮を憚りて明らかに日本帝国の国体を言うことをあえてせず。当時民間の政論家をもって自任する者は日本の旧慣を弁護することを憚り、わずかに英国の例を藉りてもって西洋風の勤王論を口にするあるのみ。実に当時の政論家は国体論または忠君論を禁物となしたるありさまなり。この時に当たり断然起ちて万世不易の国体を説き王権論を説き欽定憲法論を説きたるものはひとり帝政論派なり。吾輩はその説の往々偏癖に流るるものなるを知るも、世の潮流に逆らいて民権熱に清涼剤を投じたるの功を没すべからずと信ずるなり。帝政論派はもとより一の論派たる価値なきにあらず、然れどもその藩閥内閣を弁護するによりて勢力は他の二論派に及ばざりき、ついに二派に先だちて政論界より退きたり。これを第三期の末における政論の状想となす。第三期より第四期に移るの際に当たり、二、三の新論派はようやく萌芽を吐きたり、経済論派、法学論派のごときものこれなり。請う次回においてその大要を吟味せん。
第七 経済論派および法学論派
泰西学問のようやく盛んならんとするや、東京に二、三の強大なる私塾ありき。そのもっともいちじるしきものは今なお存するところの慶応義塾これなり。この塾は昔時国富論派の代表なる福沢諭吉氏の創立にして、これに次ぎ泰西の経済説を教えたるは古洋学者の巨擘たる尺振八氏の家塾なりという。この二塾より出でたる青年者は実に日本における経済学の拡張者たり。第一期にありておもに経済財政の学を講じたる学者は今の元老院議官神田孝平氏なりといえども、その後政府に事えて実地の政務に当たり、学説を弘むるのことはまったく福沢、尺の両氏に譲りたるもののごとし。されば第三期の終りにおいて改進論派にしたがって経済論派の出でたるはこの二人の老学に誘起せられ、すなわち遠く国富論派の正系を継ぎたるものと言うべし。かつ第一期の国権論派中にいちじるしき学者の一人、今の司法次官箕作麟祥氏は当時にありて一の私塾を開き、かの慶応義塾などと相対立して法学の教授をなしたり。すでにして国権論派に傾きたる当時の政府は高等教育の制度を設け、種々の変革を経て東京大学と名づけ国権論派の巨擘たる今の加藤博士をその総理となせり。この官立学校より出でたるものはおもに法学者にして、自然にも第一期の国権論派の正統を承けたるに似たり。ここにおいて政論社会はようやく一変し、かの帝政論派のごときは実にこの学派の力を仮りたるや疑うべからず、吾輩はこれを称して法学論派となすべし。
当時の経済論派および法学論派多くは英国の学風を祖述するものに過ぎず、ゆえに経済派の説は主としてマンチェスター派より来たりて非干渉および自由貿易に傾き、ただ法学派は官立学校において英学派の教授を受けたるにかかわらず、幾分か仏国またはドイツの学風を帯びかつその先輩たる国権論派の主義に感染するところあるをもって、政論上においては濫りに英国の風を学ばざるの傾きあり。二派の新論派はかくのごとき差違ありき。されば経済論派は一方において自由論派の助勢となり、他方においては改進論派の有力なる味方となり、しかして法学論派は別に帝政論を授けて他の自由・改進の二論派に反対したり。しかれども吾輩はこの新論派が著明なる形体を備えたることを見ず、ただ当時の実状を回想して暗々裏にその跡を認めたるに過ぎざるなり。いかなる人々がこの二学派の代表たりしか、経済論派に付いては吾輩今の『東京経済雑誌』をもってその根拠となし、法学論派に付いてはかの帝政論派とともにただ『東京日日新聞』をその目標とするに止まる。今その政事上に係る論旨の大要を吟味してもっていささかこれが存在を明らかにすべし。
経済論派は改進論派のごとくに非干渉主義を取り、また自由論派のごとくに人類平等主義を取るものなるは明白なり。彼その説に以為らく、「政府の民業に干渉し、またはこれを保護することは自由競争の大則に反して富の発達を妨ぐるものなり、人すでにおのおの利己の心あり、利己のためにはおのおのその賦能を用いて進行す、優者は勝ちて劣者は敗る、貧富転換して公衆の富はじめて進む、政府の干渉はたまたまもってこれを妨ぐるのみ」。しかしてこの学派は日本の実状においては民業或いは干渉を要するものあることを顧みず、今の日本をただちに十八世紀末の欧州と同一視せんと欲したりき。しかれども経済論派は政府の干渉をもって民業に益なしとはなさず、ただ干渉によりての発達は自然の発達にあらずして、その発達はたまたま他の自由営業に妨害を与うと言うのみ。要するに経済論派は政府の職掌を単に警保の一部に止め、自由競争を認めてただその不正の手段を禁止するにありとなすものなり。この点においてはほとんどかの改進論派と同じ、貧富の懸隔を自然に任せ、政府すなわち国家権力の干渉調停をば会社主義の臭味として痛くこれを攻撃せり、この点においてはかの自由論派とやや相反すと言うべし。
しかれども経済論派は人類の平等を認めて深く貴族主義には反対せり。思うに人為の階級特権は自由競争の原則に反するをもってなり、この点においては自由論派とはなはだ相近くして一種のデモクラシック派と言うべきところあり。しかれども自然の階級すなわち貧富の懸隔をば社会の常勢、むしろ国富発達の正当なる順序としてこれを是認し、反りて資本の分散を国富進歩の妨害とまでに説きたり、この点においては改進論派と近くして自由論派と遠かりき。自由論派は無上政治をもって国際的紛争を防がんと希望したるがごとく、経済論派は自由貿易主義をもって世界の一致和合を謀らんと希望す。この理想は自由論派とやや同じきの姿ありといえども、経済論派の眼中には国権の消長を置かずして、単に財富の増減を目的となす、けだし自由論派は国権を鞏固にせんがために無上政法を主張するも、経済論派はむしろ国権をもって世界進歩の妨害となし、しかして自由貿易を唱うるものなり、ここに至りて自由論派と相反して改進論派の一種と相合し、かつ改進論派中保護貿易派とは相反するを見る。
法学論派に至りてはすなわち国権論派の胤流として、おもに国法の改良を目的とし、かつ泰西における近世法学の歴史的思想に感染するところの改革論派なり。この論派にいちじるしき点はすなわちこの歴史的思想にしてその結果としては他の自由・改進の両派に反対し、むしろ帝政論派と相近くして漸進主義を取るものに似たり。しかれども帝政論派のごとくに現実的利害のみには固着せず、権義に係る理想よりして国家の権力と個人の権利とを両ながらこれを認め、かの仏国の革命主義を攻撃しつつ一方には国家権力の鞏固をもって個人の権利を保護することを説くものなり。彼かつて法理の上より主権在君論を主張し、もって帝政論派の主義を賛助したるは当時にありてすこぶるいちじるしきものあり。彼かつて法理の上より君主政体の正しきを説き、共和主義の臭味を排斥せんと試みたり、彼かつて天賦人権論を説きて世の純理民権説に反対したり。しかれどもこの論派は経済論派に比すれば反りて熱心を欠き、いまだ世人に対してその主義の全豹を示したることあらず、思うに英国風の法学者はまったく政界と相隔離し、政論派としては経済学者に比して大いに譲るところあり、当時日本の法学論派は実にこの風に倣い、法学をもってほとんど世外の事物となし深く顧みざるの傾きあるがゆえならんか。
第四期の政論
第一 最新の政論
政界の実地問題にしてもっとも大なるものは、当時にありて新憲法編纂の事業なりき。伊藤伯はこの大任を負いて欧州に旅行し、十八年に至りて帰朝せしが、時勢の必要を感じて従来の大宝令的官制を廃し、新たに西洋に倣いて内閣を置き、伯自らその首相となりて大いに更始するところありき。けだし立憲政体の準備をその口実となす。伯すでに内政の更始に当たれるが、その同僚たる井上伯は当時の任にありて、かの維新以来の大問題たる条約改正の業に鞅掌し、着々歩を進めて外交的会議を東京に開くに至れり。二伯の事業は実に維新以後未曽有の大業にして、政府はこの業のためにはほとんど何事をも犠牲にするの傾きありき。さきに伊藤伯が欧州を巡遊して憲法取調べをなすや、かの立憲帝政国として王権の強大なるドイツ帝国をもって最良の講究所となしたるは何人も知るところなり。時あたかもドイツ大宰相ビスマルク公が東洋貿易策に心を傾け、汽船会社を保護して定期航海を奨励し、もって英仏と競争を試みんとするに際す。伯の旅行はビスマルク公のためにこの上もなき機会となりしがごとし。さればドイツ政府は伯のためにでき得るだけの好意を表し、この機に乗じてドイツの勢力を日本に及ぼさんことを計画したるや疑いあらず、憲法編纂の顧問数名はドイツより来たれり、法典編纂の顧問数名はドイツより来たれり、法科大学の教師はドイツより来たれり、しかして条約改正の業もまたドイツ政府において隠然これを賛助するの傾きさえありき。
日本はすでにドイツ風なるものの流行を感じたり、しかのみならずかの井上伯はその重任たる条約改正を成就せんには欧州各国の風習を日本に入れ、欧州人をして日本をその同情国なりと思わしむるの必要を感じたり。かの十七年における清仏の戦争は、伯これを視て東西両洋の優劣を示せる最近の例証となし、とうてい尋常の手段にては外国と同等の交際をなすあたわずとや思いけん、まず日本国民を挙げて泰西風に化成するにあらざれば樽俎の間に条約を改正すべからずとまでに決心したるがごとし。ここにおいて日本の上流社会は百事日本風を棄てて欧州風に変革し畏くも宮廷内における礼式をさえ欧州に模擬したりき。これ実に明治十七、八年より二十年に至るまでの事情にして、吾輩これを欧化時代と称すべし。第三期の政論派が第四期に移りたるは実にこの時代にあり、この期の政論状況を汎叙すれば誠に奇怪なる変化を見るに足るべし。いかに変化せしか、いわく第三期において保守派とまでに称せられたるかの帝政論派は一変して欧化論派となれり。いわく前期の激進派たる自由論派はこの時において反りて保守論派となれり。いわく改進論派の一部は欧化論派に傾き他の一部は保守論派に傾きたり、これ豈に政論の奇変にあらずや。
もし文明進歩と言えることを解して泰西風に変化することとなさば、当時の政府ほど「進歩主義」なりしものはいまだこれあらざるなり。もし進歩主義と言えるものがただ泰西の事物または泰西の理論に模倣するの主義を意味するならば、今の進歩主義と自称する論派は当時にありて双手を挙げて政府の方針を賛頌せざるべからざりしならん。しかるに自由論派または改進論派は毫も賛成を表せざるのみならず、反りて痛くこれに反対したり、しかして「保守主義」と呼ばれたる帝政論派の遺類、たとえば『東京日日新聞』のごときは大いに政府を賛助したることこれはなはだ奇なりと言うべし。人みなかの帝政論派は政府賛助派なりと。あるいは然らん、しかれども吾輩はこの篇においてその裏面を探るものにあらず、もし裏面を穿ちしならば当時の自由論派または改進論派は政府攻撃派なるやも知るべからざればなり。しからば当時政論派の変化は表面よりして奇観を呈したりというもとより可なり。しかれども当時の政府は主としてドイツ風を模擬せり、改進論派のこれに反対せしはその英国風ならざるをもってなるか、自由論派のこれに反対せしはその仏国風ならざるをもってなるか、少なくも、王権の強大が英国風に反しまたは貴族の爵号が仏国米国の風に反すとの点をもって、二論派はドイツ風なる政府に反対したるか、はたしてしからばこれ国風の争いなり、いわゆる欧化主義においてはみな同一なりと言うべし。
この紛々たる時に至りて一の新論派は出でたり、すなわち国民論派または国粋論派または日本論派と称すべきものこれなり、この論派は実に当時の流勢に逆らい、泰西風の模倣をもって実益および学理に反することとなし、深く国民の特性を弁護したるものなり。この新論派に正反対をなしたるものは第三期の末に起こりたる経済論派にして、これに味方をなしたるものは法学論派なり。しかして旧論派たりし自由論派は味方とまでにならざるも反対にはあらず、改進論派は正反対にはあらざるも側面より反対を試みたるは明白なりき。帝政論派の遺類にして欧化論派とも称うべきは国民論派に対して理もとより正反対の地にありといえども、彼ドイツ風の歴史的論派に多少の淵源を有するがゆえに、この新論派に対してはあえて正面の攻撃をなすあたわざるがごとし、これを当時における最近諸論派の関係とす。