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おせん
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おせん
邦枝完二
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翻訳 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 5 of 14

5

三

東叡山寛永寺の山裾に、周囲一里の池を見ることは、開府以来江戸っ子がもつ誇りの一つであったが、わけても雁の訪れを待つまでの、蓮の花が池面に浮き出た初秋の風情は、江戸歌舞伎の荒事と共に、八百八町の老若男女が、得意中の得意とするところであった。  近頃はやり物のひとつになった黄縞格子の薄物に、菊菱の模様のある緋呉羅の帯を締めて、首から胸へ、紅絹の守袋の紐をのぞかせたおせんは、洗い髪に結いあげた島田髷も清々しく、正しく座った膝の上に、両の手を置いたまま、駕籠の中から池のおもてに視線を移した。  夜が明けて、まだ五つには間があるであろう。ひと抱えもあろうと想われる蓮の葉に、置かれた露の玉は、いずれも朝風に揺れて、その足もとに忍び寄るさざ波を、ながし目に見ながら咲いた花の紅が招く尾花のそれとは変った清い姿を、水鏡に映すたわわの風情。ゆうべの夢見が忘れられぬであろう。葉隠れにちょいと覗いた青蛙は、今にも落ちかかった三角頭に、陽射しを眩ゆく避けていた。 「駕籠屋さん」  ふと、おせんが声をかけた。 「へえ」 「こっち側だけ、垂を揚げておくんなさいな」 「なんでげすッて」 「花が見とうござんすのさ」 「合点でげす」  先棒と後との声は、正に一緒であった。駕籠が地上におろされると同時に、池に面した右手の垂は、颯とばかりにはね揚げられた。 「まァ綺麗だこと」 「でげすからあっしらが、さっきッからいってたじゃござんせんか。こんないい景色ァ、毎朝見られる図じゃァねえッて。――ごらんなせえやし。お前さんの姿が見えたら、つぼんでいた花が、あの通り一遍に咲きやしたぜ」 「ちげえねえ。葉ッぱにとまってた蛙の野郎までが、あんな大きな眼を開きゃァがった」 「もういいから、やっておくんなさい」 「そんなら、ゆっくりめえりやしょう。――おせんちゃんが垂を揚げておくんなさりゃ、どんなに肩身が広いか知れやァしねえ。のう竹」 「そうともそうとも。こうなったら、急いでくれろと頼まれても、足がいうことを聞きませんや。あっしと仙蔵との、役得でげさァね」 「ほほほほ、そんならあたしゃ、垂をおろしてもらいますよ」 「飛んでもねえ。駕籠に乗る人かつぐ人、行く先ァお客のままだが、かついでるうちァ、こっちのままでげすぜ。――それ竹、なるたけ往来の人達に目立つように、腰をひねって歩きねえ」 「おっと、御念には及ばねえ。お上が許しておくんなさりゃァ、棒鼻へ、笠森おせん御用駕籠とでも、札を建てて行きてえくらいだ」  いうまでもなく、祝儀や酒手の多寡ではなかった。当時江戸女の人気を一人で背負ってるような、笠森おせんを乗せた嬉しさは、駕籠屋仲間の誉れでもあろう。竹も仙蔵も、金の延棒を乗せたよりも腹は得意で一ぱいになっていた。 「こう見や。あすこへ行くなァおせんだぜ」 「おせんだ」 「そうよ。人違えのはずはねえ。靨が立派な証拠だて」 「おッと違えねえ。向うへ廻って見ざァならねえ」  帳場へ急ぐ大工であろう。最初に見つけた誇りから、二人が一緒に、駕籠の向うへかけ寄った。

四

「風流絵暦所鈴木春信」  水くきのあとも細々と、流したように書きつらねた木目の浮いた看板に、片枝折の竹も朽ちた屋根から柴垣へかけて、葡萄の蔓が伸び放題の姿を、三尺ばかりの流れに映した風雅なひと構え、お城の松も影を曳きそうな、日本橋から北へ僅に十丁の江戸のまん中に、かくも鄙びた住居があろうかと、道往く人のささやき交す白壁町。夏ならば、すいと飛びだす迷い蛍を、あれさ待ちなと、団扇で追い寄るしなやかな手も見られるであろうが、はや秋の声聞く垣根の外には、朝日を受けた小葡萄の房が、漸く小豆大のかたちをつらねた影を、真下の流れに漂わせているばかりであった。  池と名付ける程ではないが、一坪余りの自然の水溜りに、十匹ばかりの緋鯉が数えられるその鯉の背を覆って、なかば花の散りかけた萩のうねりが、一叢ぐっと大手を広げた枝の先から、今しもぽたりと落ちたひとしずく。波紋が次第に大きく伸びたささやかな波の輪を、小枝の先でかき寄せながら、じっと水の面を見詰めていたのは、四十五の年よりは十年も若く見える、五尺に満たない小作りの春信であった。  おおかた銜えた楊枝を棄てて、顔を洗ったばかりなのであろう。まだ右手に提げた手拭は、重く濡れたままになっていた。 「藤吉」  春信は、鯉の背から眼を放すと、急に思いだしたように、縁先の万年青の葉を掃除している、少年の門弟藤吉を呼んだ。 「へえ」 「八つぁんは、まだ帰って来ないようだの」 「へえ」 「おせんもまだ見えないか」 「へえ」 「堺屋の太夫もか」 「へえ」 「おまえちょいと、枝折戸へ出て見て来な」 「かしこまりました」  藤吉は、万年青の葉から掃除の筆を放すと、そのまま萩の裾を廻って、小走りにおもてへ出て行った。 「今時分、おせんがいないはずはないから、ひょっとすると八五郎の奴、途中で誰かに遇って、道草を食ってるのかも知れぬの。堺屋でもどっちでも、早く来ればいいのに。――」  濡れた手拭を、もう一度丁寧に絞った春信は、口のうちでこう呟きながら、おもむろに縁先の方へ歩み寄った。すると、その額の汗を拭きながら駆け込んで来たのは、摺師の八五郎であった。 「行ってめえりやした」 「御苦労、御苦労。おせんはいたかの」 「へえ。居りやした。でげすが師匠、世の中にゃ馬鹿な野郎が多いのに驚きやしたよ。あっしが向うへ着いたのは、まだ六つをちっと回ったばかりでげすのに、もうお前さん、かぎ屋の前にゃ、人が束ンなってるじゃござんせんか。それも、女一人いるんじゃねえ。みんな、おいらこそ江戸一番の色男だと、いわぬばかりの顔をして、反りッかえってる野郎ぞっきでげさァね。――おせんちゃんにゃ、千人の男が首ッたけンなっても、及ばぬ鯉の滝のぼりだとは、知らねえんだから浅間しいや」 「八つぁん。おせんの返事はどうだったんだ。直ぐに来るとか、来ないとか」 「めえりやすとも。もうおッつけ、そこいらで声が聞えますぜ」  八五郎は得意そうに小首をかしげて、枝折戸の方を指さした。

五

枝折戸の外に、外道の面のような顔をして、ずんぐり立って待っていた藤吉は、駕籠の中からこぼれ出たおせんの裾の乱れに、今しもきょろりと、団栗まなこを見張ったところだった。 「やッ、おせんちゃん。師匠がさっきから、首を長くしてお待ちかねだぜ」  朱とお納戸の、二こくの鼻緒の草履を、後の仙蔵にそろえさせて、扇で朝日を避けながら、静かに駕籠を立ち出たおせんは、どこぞ大店の一人娘でもあるかのように、如何にも品よく落着いていた。 「藤吉さん。ここであたしを、待ってでござんすかえ」 「そうともさ、肝腎の万年青の掃除を半端でやめて、半時も前から、お前さんの来るのを待ってたんだ。――だがおせんちゃん。お前は相変らず、師匠の絵のように綺麗だのう」 「おや、朝ッからおなぶりかえ」 「なぶるどころか。おいらァ惚れ惚れ見とれてるんだ。顔といい、姿といい、お前ほどの佳い女は江戸中探してもなかろうッて、師匠はいつも口癖のようにいってなさるぜ。うちのお鍋も女なら、おせんちゃんも女だが、おんなじ女に生れながら、お鍋はなんて不縹緻なんだろう。お鍋とはよく名をつけたと、おいらァつくづくあいつの、親父の智恵に感心してるんだが、それと違っておせんさんは、弁天様も跣足の女ッぷり。いやもう江戸はおろか日本中、鉦と太鼓で探したって……」 「おいおい藤さん」  肩を掴んで、ぐいと引っ張った。その手で、顔を逆さに撫でた八五郎は、もう一度帯を把って、藤吉を枝折戸の内へ引きずり込んだ。 「何をするんだ。八つぁん」 「何もこうありゃァしねえ。つべこべと、余計なことをいってねえで、速くおせんちゃんを、奥へ案内してやらねえか。師匠がもう、茶を三杯も換えて待ちかねだぜ」 「おっと、しまった」 「おせんちゃん。少しも速く、急いだ、急いだ」 「ほほほほ。八つぁんがまた、おどけた物のいいようは。……」  駕籠を帰したおせんの姿は、小溝へ架けた土橋を渡って、逃れるように枝折戸の中へ消えて行った。 「ふん、八五郎の奴、余計な真似をしやァがる。おせんちゃんの案内役は、いっさいがっさい、おいらときまってるんだ。――よし、あとで堺屋の太夫が来たら、その時あいつに辱をかかせてやる」  手の内の宝を奪われでもしたように、藤吉は地駄ン駄踏んで、あとから、土橋をひと飛びに飛んで行った。  鉤なりに曲った縁先では、師匠の春信とおせんとが、既に挨拶を済ませて、池の鯉に眼をやりながら、何事かを、声をひそめて話し合っていた。 「八つぁん、ちょいと来てくんな」 「何んだ藤さん」  立って来た八五郎を、睨めるようにして、藤吉は口を尖らせた。 「お前、あとから誰が来るか、知ってるかい」 「知らねえ」 「それ見な。知らねえで、よくそんなお接介が出来たもんだの」 「お接介たァ何んのこッた」 「おせんちゃんを、先に立って連れてくなんざ、お接介だよ」 「冗談じゃねえ。おせんちゃんは、師匠に頼まれて、おいらが呼びに行ったんだぜ。――おめえはまだ、顔を洗わねえんだの」  顔はとうに洗っていたが、藤吉の眼頭には、目脂が小汚なくこすり付いていた。

六

赤とんぼが障子へくっきり影を映した画室は、金の砂子を散らしたように明るかった。  広々と庭を取ってはあるが、僅かに三間を数えるばかりの、茶室がかった風流の住居は、ただ如何にも春信らしい好みにまかせて、手いれが行き届いているというだけのこと、諸大名の御用絵師などにくらべたら、まことに粗末なものであった。  その画室の中ほどに、煙草盆をはさんで、春信とおせんとが対座していた。おせんの初な心は、春信の言葉にためらいを見せているのであろう。うつ向いた眼許には、ほのかな紅を差して、鬢の毛が二筋三筋、夢見るように頬に乱れかかっていた。 「どうだの、これは別に、おいらが堺屋から頼まれた訳ではないが、何んといっても中村松江なら、当時押しも押されもしない、立派な太夫。その堺屋が秋の木挽町で、お前のことを重助さんに書きおろさせて、舞台に上せようというのだから、まず願ってもないもっけの幸い。いやの応のということはなかろうじゃないか」 「はい、そりゃァもう、あたしに取っては勿体ないくらいの御贔屓、いや応いったら、眼がつぶれるかも知れませぬが。……」 「それなら何んでの」 「お師匠さん、堪忍しておくんなさい。あたしゃ知らない役者衆と、差しで会うのはいやでござんす」 「はッはッは、何かと思ったら、いつもの馬鹿気たはにかみからか。ここへ堺屋を招んだのは、何もお前と差しで会わせようの、二人で話をさせようのと、そんな訳合じァありゃしない。松江は日頃、おいらの絵が大好きとかで、板おろしをしたのはもとより、版下までを集めている程の好き者仲間、それがゆうべ、芝居の帰りにひょっこり寄って、この次の狂言には、是非とも笠森おせんちゃんを、芝居に仕組んで出したいとの、たっての望みさ。どういう筋に仕組むのか、そいつは作者の重助さんに謀ってからの寸法だから、まだはっきりとはいえないとのことだった、松江が写したお前の姿を、舞台で見られるとなりゃ、何んといっても面白い話。おいらは二つ返事で、手を打ってしまったんだ。――そこで、善は急げのたとえをそのまま、あしたの朝、ここへおせんに来てもらおうから、太夫ももう一度、ここまで出て来てもらいたいと、約束事が出来たんだが、――のうおせん。おいらの前じゃ、肌まで見せて、絵を写させるお前じゃないか、相手が誰であろうと、ここで一時、茶のみ話をするだけだ。心持よく会ってやるがいいわな」 「さァ。――」 「今更思案もないであろう。こうしているうちにも、もうそこらへ、やって来たかも知れまいて」 「まァ、師匠さん」 「はッはッは。お前、めっきり気が小さくなったの」 「そんな訳じゃござんせぬが、あたしゃ知らない役者衆とは。……」 「ほい、まだそんなことをいってるのか。なまじ知ってる顔よりも、はじめて会って見る方に、はずむ話があるものだ。――それにお前、相手は当時上上吉の女形、会ってるだけでも、気が晴れ晴れとするようだぜ」  ふと、とんぼの影が障子から離れた。と同時に藤吉の声が、遠慮勝ちに縁先から聞えた。 「師匠、太夫がおいでになりました」 「おおそうか。直ぐにこっちへお通ししな」  じっと畳の上を見詰めているおせんは、たじろぐように周囲を見廻した。 「お師匠さん、後生でござんす。あたしをこのまま、帰しておくんなさいまし」 「なんだって」  春信は大きく眼を見ひらいた。

Chapter 5 of 14
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