Chapter 1 of 145

この捕り縄は

ポンと右手がふところへはいり、同時に左手がヒョイとあがった。とたんに袖口から一条の捕り縄、スルスルと宙へ流れ出た。それがギリギリと巻きつこうとした時、虚無僧は尺八をさっと振った。パチッと物音を立てたのは、捕り縄がはねられたに相違ない。がその時はその捕り縄、ちゃアんとふところへ手ぐられていた。

東海道の真っ昼間、時は六月孟夏の頃、あんまり熱いので人通りがない。ただ一人の虚無僧と、道中師めいた小男とが、相前後して行くばかりだ。

と同じ事が行われた。つと駆け抜けた道中師、ポンと右手をふところへ入れ、ヒョイと左の手を上げた。その袖口から一条の捕り縄、スルスルと出てキリキリキリ、虚無僧へ巻きつこうとするのであるが、やっぱりいけない。さっと払う尺八につれて、グンニャリとなる。がその時には捕り縄は、袖口からふところへ手ぐられていた。

眼にも止まらぬ早業である。たとえ旅人が通っても、感づくことは出来なかったろう。だがいったいどうしたのだろう? 捕り物にしては緩慢に過ぎ、遊戯にしてはいたずらに過ぎる。

なんの変わったこともなく、虚無僧は悠然と歩いて行く。道中師にも変化はない。

鈴ヶ森まで来た時である。ふいに道中師が横へそれた。後から続いて虚無僧が行く。耕地があって野があって、こんもりした森が立っていた。手拭いを出してバタバタバタ、切り株を払った道中師。

「おかけなすって、一休み」

虚無僧腰かけて天蓋を取った。と、すばらしい美青年。富士額で、細い眉、おんもりとした高い鼻、ちょっと酷薄ではあるまいか? 思い切って薄い大型の口、だが何より特色的なのは、一見黒くよく見ればみどり、キラキラ光るひとみである。手に余るほどの大量の髪、これは文字通り漆黒で、それを無造作にたばねている。肌の白さなめらかさ、青味を帯びないのはどうしたのだろう?

「熱いねえ、ずくずくだよ」

いいながらグイと胸をあけた。あっ! 張り切った二個の乳房、胸もといっぱいにもり上がっている。まさしく変装した女である。

「忠公のばかめ、呆れもしない。なんと思っての悪ふざけだい」

「へい」道中師小びんをかいた。「手練の捕り縄、いかがのものかと、お目にかけたんでございますよ」

「あれで手練かい、叩き落とされたくせに」

「中条流の捕り縄も、あねごにかかっちゃあ文なしだ」

「これは驚いた。中条流だって? そんな流名があるのかい」

「私のつけた流名で」

「よりどころでもあるのかい」

「そりゃアありますとも、大ありで。それ私の名は忠三でげしょう」

「妾ア忠公かと思っていた」

「ひどうげすな。そいつアひでえ、いえ忠三でございます」

「忠的にしよう、その方がいい」

「だんだん悪くなる、驚いたなあ。いえ私の名は忠三で、しかも肩書きは早引でげす」

「早引の忠三、なるほどね、だが大してドスも利かない。ところでどうなんだい、中条流は?」

「忠三をもじって中条流。もったいがつくじゃアありませんか」

イスラエルのお町、ふき出してしまった。

「いわれを聞けば有難い……とこういったら嬉しかろうが、どうもね、お前の中条流、こればっかりは戴けないよ。……それはそうとオイ忠公、準備は一切いいんだろうね」

「うん、そいつだ」と早引の忠三、にわかにピンと張り切った。

…………

「うん、そいつだ」と早引の忠三、にわかにピンと張り切ったが、すぐにトンと声を落とし、「一切準備が出来たればこそ、長崎くんだりまで飛脚を出し、江戸入りをおすすめしたんですよ。そうして今日あたりはおいでだな、こう思ったのでこの忠三、お迎えに出たのでございますよ」

「ああそうかい、そいつあ有難う。永い間の念願が、それじゃいよいよ届くんだね」

「へい、さようでございますとも」

「うれしいねえ。お礼をいうよ。ああ本当に千べんでもね。だが……」とお町は不安そうに、

「競争相手もあるそうだが、そっちの方も大丈夫かしら?」

「まず大丈夫でございましょう」

「まず大丈夫とは気がかりではないか。確かに大丈夫でなけりゃあね」

「さようで」といったが早引忠三、渋面を作ったものである。

「へい、確かに大丈夫で」

「だってお前、競争相手は、ひととおりの奴じゃあないそうだが」

「その代わり味方にも大物がいます」

「でもね、お前、そのお方は、表に立ってはくださらないじゃないか」

「かりにも三家のご一人、立てるものではございませんよ」

「そうはいってもつながる縁、お母様さえあのままなら……」

「おっとおっと、そいつアいけねえ」

忠三は急いで手を振った。「死児の齢を数えるってやつだ。そんな事をいって何になります」

「さあ何にもなるまいがね」お町はちょっと憂鬱になり、「時々妾は考えるのさ。お母様さえなみの人で、今日までご存命なすったら、こんなみじめを見るんじゃあない、それこそ本当にお姫様で、外へ出るにも供揃い、駕籠に乗って行かれるのに……」

「そいつもなみの駕籠じゃあねえ。葵ご紋のついてる駕籠だ。いやそうなったら私なんか、土下座をしたっておッつかねえ。……それはそうとねえあねご、その後あっしはこの江戸で、随分仲間を作りましたよ。命令一下働く奴が、さあどのくらいありましょうか。そこへあねごが乗り込むんだ、そうするとすぐに女大将さ、葵のご紋なんか蹴飛ばしてしまえだ。だがあねご、そいつらを使って、大ダンビラを振りまわすなあ、策としては拙の拙だ。まず真っ先にとる法は持ってうまれたその美貌、そいつでやろうじゃあございませんか。――といって直接じゃあいけません、間接間接こいつに限る以夷制夷というやつだ。競争相手の随一人、好色漢の島原城之介、あねごに以前から参っているはず、こいつをおたらしなさいまし」

「ああなるほど、島原をね。あいつも江戸にいるのかい」

「えらい勢力でございますよ」

「あいつをたらしてさてそれから?」

「以夷制夷でございますよ」

「ふふん天草とかみ合わせるんだね」

「こいつ成功疑いない」

「それじゃあ腕を振るおうか」

「どうぞね、一つ、すごいところを」

「ではそろそろ出かけよう」

「まず天蓋、おかぶりなせえまし」

「あいよ」

といって引っかぶる。と、もう虚無僧姿である。街道へ出て江戸へ入る。雀色の夕まぐれ、さっと人波にさらわれてしまった。

慶安三年六月二日、天草の乱しずまってより、わずかに十二年を経たばかり、将軍家光存命ながら、狂乱の噂府内にもれ、物情騒然人心恟々、天下乱を思う折柄であった。

Chapter 1 of 145