18
雪がだんだん大降りになった。
(二十八、九なら三十には見える。しかし、四十には見えないはずだ。そこでまた変装ということになるが、変装して働くというような芝居ぎのある人間かしら? やっぱり、舟木と将校マントとは別物と見なければならないらしい)
どうやら吹雪になりそうであった。歩いている人もまばらである。
(聞けば舟木は主義者とやらで、一方で主義から西村を憎み、他方ではその姉のお蝶というのが西村の愛人になっているのを遺憾に思っていたそうだが、そのお蝶という愛人などが関係してはいないだろうか? 犯罪の背後には女あり! その女が艶子だけだとみるのは不詮索ではあるまいかな。……さて、ところで艶子だが、自分の家の財産を西村に横領されたということを知っていたのではあるまいかな? もしこいつを知っていたとすると、復讐という観念がしぜん心に湧かなければならない。復讐心を持っていたとすると、西村の恋を拒絶したことがいっそう合理的に解釈できる。が、しかし、それと同時に、彼女の立場は危険になる)
「おや!」
と、長谷川は呟いた。数間の前方に、雪を浴びながら艶子が歩いているからであった。依然としてうつむいている。
(ははあ、こうなると山本のほうがおれより観察が勝れていたわい。こんなに雪が降っているのに、降っているとも知らないように考え込んで歩いている様子は、決して暢気な散歩ではない。目的があってどこかへ行くのだ。どうもこうなれば非紳士的ながら、跡をつけざるを得ないなあ)
やがて賑やかな街通りへ出た。
人もずいぶん通っている。
と、一人の薄汚い男が手早く艶子へ紙片を渡した。
「あっ、こいつは怪しいぞ!」
長谷川は呟いたが、笑いだしてしまった。
(おれもこうなると探偵狂だよ、ひろめ屋がちらしを配ったのさえ、ものものしく見なければならないんだからなあ)
ひろめ屋は彼へもちらしをくれた。
“十五銭均一、紳士の食べる洋食”
こう印刷がされてあった。
“浮世はたいへん暮らしよくなった。いまに見ていろ、十五銭均一で紳士の定食が食べられるから”
なにげなく裏を返してみた。
(これは驚いた、どうしたことだ!)
ちらしの裏に万年筆で、こんなように書かれてあったからである。
“きみが艶子をつけているように、ぼくはきみをつけているよ”
これには相当驚いてよい。
長谷川はじっと字面を見た。
どうしたものか笑いだしてしまった。
(このトリックはもう古いや。外国の下手な探偵作家があきあきするほどくり返し、そうして日本の探偵作家が真似をしはじめたトリックだ。だが、手数はかかっている。だれかが――おれには分かっているが、とにかく艶子をつけているのだ。そうして、おれがつけているのが、ちょっと邪魔っけに思われるのだ。そこでひろめ屋を抱き込んだってわけさ。先回りをしてちらしをもらい、これだけの文句をしたためて、ひろめ屋のやつに小銭をくれ、自分はどこかに隠れていておれが通ったとき合図をしたものさ。そこで、ひろめ屋め、このちらしをおれに渡したというものさ。脅しておれに手を引かせよう、こう思ったに相違ない。だが、慌てて書いたとみえ、書体がちっとも変わっていない。まずい字だなあ、気の毒なくらいだ。こんなまずい字を書くやつは新聞記者以外にはありゃあしない。……おれはどこまでもつけていくよ)
だが、そいつは失敗であった。
彼が字面を調べている間に、艶子の姿が見えなくなった。
そこは折悪しく十字路であった。
(おれに身体が四つあるなら、四方に向かって飛んでいくのだがどうもいけない、一つしかない。一つの身体をもてあましているのだ、四つもあってたまるものか)
長谷川はそこで厳粛になった。
(しかし、結局おれという人間も、トリックに引っかかったというものだな。積極的には手を引かなかったが、消極的には手を引いたんだからなあ)
尾行を断念することにした。止むを得ざるの断念なのである。
(艶子はちょっと奇麗な娘だ。だが、もちろんざらにある程度さ。悲劇の渦中で知ったので、印象深いというまでさ。大概の女は悲劇中に見ると、別嬪に見えるから面白いよ。ところで、こいつを喜劇中に見ると、それこそもっと別嬪に見える。泣きっ面より笑い顔のほうがいいさ。いちばん困るのは中間性の面だ。言い換えると退屈の面なんだからなあ)