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南蛮秘話森右近丸
国枝史郎
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「将軍義輝が弑された。三好長慶が殺された、松永弾正も殺された。今は下克上の世の中だ。信長が義昭を将軍に立てた。しかし間もなく追って了った。その信長も弑されるだろう。恐ろしい下克上の世の中だ……明智光秀には反骨がある。羽柴秀吉は猿智慧に過ぎない。柴田勝家は思量に乏しい。世は容易に治まるまい……武田家は間もなく亡びるだろう。波多野秀治は滅亡した。尼子勝久は自刃した。上杉景勝は兄を追った。荒木村重は謀反した。法燈暗く石山城、本願寺も勢力を失うだろう。一向一揆も潰されるだろう、天台の座主比叡山も、粉砕されるに相違ない。世は乱れる。世は乱れる! だが先ずそれも仕方がない、日本国内での争いだ。やがて、誰かが治めるだろう、恐ろしいのは外国だ! 恐ろしいのは異教徒だ! 憎むべきは吉利支丹だ! ザビエル、ガゴー、フロエー、オルガンチノこれら切支丹の伴天連共、教法に藉口し耳目を眩し、人心を誘い邪法を用い、日本の国を覬覦している。唐寺が建った、南蛮寺が建った、それを許したのは信長だ! なぜ許したのだ! なぜ許したのだ! 危険だ、危険だ、非常に危険だ! 国威が落ちる、取り潰すがよい! 日本には日本の宗教がある、かんながらの道、神道だ! それを讃えろ、それを拝め!」
ここは京都二条通、辻に佇んだ一人の女、凜々として説いている。年の頃は二十歳ぐらい、その姿は巫女、胸に円鏡をかけている。頭髪を束ねて背中に垂らし、手に白綿を持っている。その容貌の美しさ、洵に類稀である。眉長く顳まで続き、澄み切った眼は凄いまでに輝き、しかも犯しがたい威厳がある。その眼は時々微笑する。嬰児のような愛らしさがある。高すぎる程高い鼻。男のそれのように、肉太である。口やや大きく唇薄く、そこから綻びる歯の白さ、象牙のような光がある。秀た額、角度立った頤、頬骨低く耳厚く、頸足長く肩丸く、身長の高さ五尺七八寸、囲繞いた群集に抽出ている。垢付かぬ肌の清らかさは、手にも足にも充分現われ、神々しくさえ思われる。男性の体格に女性の美、それを加えた風采である。
だが何という大胆なんだろう! 夕暮時とは云うものの、織田信長の管理している、京都の町の辻に立ち、その信長を攻撃し、その治世を詈るとは!
驚いているのは群集である。
市女笠の女、指抜の若者、武士、町人、公卿の子息、二十人近くも囲繞いていたが、いずれも茫然と口をあけ、息を詰めて聞き澄ましている。反対をする者もない、同意を表する者もない。
不思議な巫女の放胆な言葉に、気を奪われているのである。
「唐寺の謎こそ奇怪である」巫女はまたもや云い出した。
「唐寺の謎を解くものはないか! 唸っているのだ、恐ろしいものが! 日本の国は買われるだろう、日本の国は属国となろう。解くものはないか、南蛮寺の謎! いや恐らくあるだろう、解くがいい解くがいい! 幸福が来る、解いた者へは! だが受難も来るだろう! だが受難を避けてはならない! どんなものにも受難はある。受難を恐れては仕事は出来ない……ここに集まった人達よ!」
ここで俄に巫女の言葉は嘲笑うような調子になった。
「どんなに妾が説きましても、皆様方には解りますまい。解っているのは日本で数人、信長公にこの妾に、香具師の頭に弁才坊、そんなものでございましょう。さあ其の中の何者が、最後に得を取りますやら、ちょっと興味がございます。オヤオヤオヤ」と巫女の調子はここで一層揶揄的になった。
「馬に念仏申しても、利目がなさそうでございます。そこでおさらばと致しましょう。もう日も大分暮れて来た。塒へ帰ったら夜になろう。ご免下され、ご免下され」
群集を分けて不思議な巫女はスタスタ北の方へ歩き出した。
と、その時一人の若武士が先刻から群集の中にまじり、巫女の様子をうかがっていたが、思わず呟いたものである。
「洛外北山に住んでいて、時々洛中に現われては、我君を詈り時世を諷する、不思議な巫女があるという、困った噂は聞いていたが、ははあさてはこの女だな。よしよし後をつけてみよう。場合によっては縛め捕り、検断所の役人へ渡してやろう」
そこで後を追っかけた。
町を出外ずれると北野になる。大将軍から小北山、それから平野、衣笠山、その衣笠山まで来た時には、とっぷりと日も暮れてしまい、林の上に月が出た。巫女はズンズン歩いて行く。若武士もズンズン歩いて行く。
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もうこの辺りは山である。鬱々と木立が繁っている。人家もなければ人気もない。夜の闇が四辺を領している。ズンズン恐れず巫女が行く。着ている白衣が生白く見える。時々月光が木間を洩れ、肩のあたりを淡く照らす。
鹿苑院金閣寺、いつかその辺りも通ってしまった。だんだん山路が険しくなる。いよいよ木立が繁り増さり、気味の悪い夜鳥の啼声がする。
巫女はズンズン歩いて行く。
「一体どこまで行くのだろう?」若武士はいささか気味悪くなった。だが断念はしなかった。足音を忍んでつけて行く。
一際こんもりした森林が、行手にあたって繁っている。ちょうどその前まで来た時であった。巫女は突然足を止め、グルリと振り返ったものである。
「若い綺麗なお侍さん、お見送り有難うございました。もう結構でございます。どうぞお帰り下さいまし。これから先は秘密境、迷路がたくさんございます。踏み込んだが最後帰れますまい」それから不意に叱るように云った。「犯してはならぬよ我等の領地を! 宏大な「処女造庭」境を!」
「おっ」と若武士は驚いたが、同時に怒りが湧き起こった。「何を女め! 不埒な巫女! 二条通りで我君の雑言、ご治世を詈ったそればかりか、拙者を捉えて子供扱い、許さぬぞよ。縛め捕る!」ヌッと一足踏み出した。
「捕ってごらんよ」とおちついた声、それで巫女はまた云った。「悪いことは云わぬよ。帰るがいい、お前が穢い侍なら、北野あたりで殺しもしたろう、可愛い綺麗な侍だったから、ここまで送らせて来たのだよ。だが今夜はお帰りよ。そうして妾を覚えておいで、もう一度ぐらいは会うだろう、お帰りお帰り、さあ今夜は」
馬鹿にしきった態度である。
本当に怒った若い武士は、手捕りにしようと思ったのだろう、「観念!」と叫ぶと躍りかかった。
それより早く、不思議な巫女は、サ――ッと後へ飛び退いたが、「お馬鹿ちゃんねえ」と云ったかと思うと、片手をヌーッと頭上へ上げた。キラキラ光る物がある。巨大な星でも捧げたようだ。カーッと烈しい青光る焔、そこから真直ぐに反射して、若い武士の眼を射た。魔法か? いやいやそうではない。胸にかけていた円鏡そいつを右手に捧げたのである。
だがそれにしても不思議である、いかに月光が照らしたとは云え、そんな鏡がそんなにも強い、焔のような光芒をどうして反射したのだろう?
「あッ」と呻いた若い武士は、二三歩背後へよろめいたが、ガックリ地面へ膝をついた。しかし勇気は衰えなかった。立ち上ると同時に太刀を抜き、
「妖婦!」と一躍切り込んだ。
「勇気があるねえ、いっそ可愛いよ。だが駄目だよ、お止めお止め」
沈着き払った巫女の声が、同じ場所から聞こえてきた。いぜん鏡を捧げている。キラキラキラキラと反射する。それが若武士の眼を射る。どうにも切り込んで行けないのである。
とはいえ若武士も勇士と見える。両眼瞑ると感覚だ。柄を双手に握りしめ「ウン」とばかりに突き出した。
だが何の手答えもない。ギョッとして眼を開いた眼の前に、十数本の松火が、一列にタラタラと並んでいた。
異様の扮装をした十数人の男が、美々しい一挺の輿を守り、若武士の眼前にいるではないか。
いつの間にどこから来たのだろう? 森の奥から来たらしい。町人でもなければ農夫でもない。庭師のような風俗である。そのくせ刀を差している。その立派な体格風貌、その点から云えば武士である。
若武士などへは眼もくれず、巫女の前へ一斉に跪坐いたが、「いざ姫君、お召し下さりませ」
「ご苦労」と家来に対するように、巫女は鷹揚に頷いたが、ユラリとばかりに輿に乗った。
「さようならよ、逢いましょうねえ、いずれは後日、ここの森で……綺麗で若くて勇しい、妾の好きなお侍さん」
それから巫女は意味ありげに笑った。
「さあお遣りよ、急いで輿を!」
松火で森を振り照らし、スタスタと奥へ行ってしまった。
3
信長の居城安土の城、そこから乗り出した小舟がある。
春三月、桜花の候、琵琶の湖水静かである。
乗っているのは信長の寵臣、森右近丸と云って二十一歳、秀でた眉、鋭い眼、それでいて非常に愛嬌がある。さぞ横顔がよいだろう、そう思われるような高い鼻、いわゆる皓歯それを蔽て、軽く結ばれている唇は、紅を注したように艶がよい。笑うと左右にえくぼが出来る。色が白くて痩せぎすで、婦人を想わせるような姿勢ではあるが、武道鍛錬だということは、ガッシリ据わった腰つきや、物を見る眼の眼付で解る。だが動作は軽快で、物の云い方など率直で明るい。どこに一点の厭味もない。まずは武勇にして典雅なる、理想的若武士ということが出来よう。
かの有名な森蘭丸。その蘭丸の従兄弟であり、そうして過ぐる夜衣笠山まで、巫女を追って行った若武士なのである。信長の大切の命を受け、京へ急いでいるところであった。
天正七年春の午前、湖水の水が膨らんでいる。水藻の花が咲いている。水鳥が元気よく泳いでいる。舟が通ると左右へ逃げる。だがすぐ仲よく一緒になる。よい天気だ、日本晴れだ、機嫌よく日光が射している。
舟はズンズン駛って行く。軽舟行程半日にして、大津の宿まで行けるのである。
矢走が見える、三井寺が見える、もう大津へはすぐである。
とその時事件が起こった。どこからともなく一本の征矢が、ヒュ――ッと飛んで来たのである。舟の船首へ突っ立った。
「あっ」と仰天する水夫や従者、それを制した右近丸は、スルスルと近寄って眺めたが、
「ほほうこいつは矢文だわい」
左様、それは矢文であった。矢羽根から二三寸下ったところに、畳んだ紙が巻き付けてある。
矢を引き抜いた右近丸はクルクルと紙を解きほぐすと、スルスルと開いて見た。
「南蛮寺の謎手に入れんとする者信長公一人にては候まじ、我等といえども虎視耽々、尚その他にも数多く候」
これが記された文字であった。
「成程」と呟いたが右近丸は些少驚いた様子であった。「俺の用向きを知っていると見える。俺を嚇そうとしているらしい。これは用心をしなければならない。何者がどこから射たのだろう」四辺を見廻したが解らなかった。たくさん舟が通っている。帆船もあれば漁船もある。商船も通っている。だがどの舟から射たものやら、少しも見当が付かなかった。
「さあ、舟遣れ、水夫ども漕げ」
そこで小舟は駛り出した。
その同じ日の夕方のこと――ここは京都四条坊門、南蛮寺が巨然と聳えている。その周囲は四町四方、石垣の中に作られたは、紅毛ぶりの七堂伽藍。金銀を惜まぬ立派なものだ。
夕の鐘が鳴っている。讃美歌の合唱が聞こえている。
「アベ マリア! ……アベ マリア!」
美しい神々しい清浄な声!
ボーン! 梵鐘! 神秘的の音!
それらが虚空へ消えて行く。
この南蛮寺の傍らに、こんもり庭木にとりかこまれた、一軒の荒れた屋敷があった。
この頃京都で評判の高い、多門兵衛という弁才坊(今日のいわゆる幇間)と、十八になる娘の民弥、二人の住んでいる屋敷である。
今日も二人は縁に腰かけ、さも仲よく話している。
だが本当に多門兵衛という老人、そんな卑しい弁才坊だろうか?
どうもそうとは思われない。深い智識を貯えたような、聡明で深味のあるその眼付、高貴の血統を暗示するような真直ぐで、正しい高い鼻、錠を下ろしたような緊張まった口、その豊かな垂頬から云っても、卑しい身分とは思われない。民弥の方もそうである。その大量な艶のよい髪、二重瞳の切長の眼、彫刻に見るような端麗な鼻梁、大きくもなければ小さくもない、充分調和のよい受口めいた口、結んでいても開いていても、無邪気な微笑が漂よっている。身長も高く肉附もよく、高尚な健康美に充たされている。行儀作法を備えているとともに、武術の心得もあるらしく、その「動き」にも無駄がない。