Chapter 1 of 162

楽書きをする女

京都所司代の番士のお長屋の、茶色の土塀へ墨黒々と、楽書きをしている女があった。

照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜にしくものはなしと、歌人によって詠ぜられた、それは弥生の春の夜のことで、京の町々は霞こめて、紗を巻いたように朧であった。

寝よげに見える東山の、円らの姿は薄墨よりも淡く、霞の奥所にまどろんでおれば、知恩院、聖護院、勧修寺あたりの、寺々の僧侶たちも稚子たちも、安らかにまどろんでいることであろう。鴨の流れは水音もなく、河原の小石を洗いながら、南に向かって流れていたが、取り忘れられた晒し布が、二筋三筋河原に残って、白く月光を吸っていた。

祇園の境内では昔ながらの、桜の老木が花を咲かせて、そよろと吹き過ぎる微風につれられ、人に知られず散っていたが、なやましくも艶めかしい眺めであった。

更けまさっても賑やかであると、いいつたえられている春の夜ではあったが、しかし丑満を過ごした今は、大路にも小路にも人影がまばらで、足の音さえもまれまれである。

二条のお城を中心にして、東御奉行所や西御奉行所や、所司代などのいかめしい官衙を、ひとまとめにしているこの一画は、わけても往来の人影がなくて、寂しいまでに静かであった。

と、拍子木の音がしたが、非常を警めているのでもあろう。丸太町あたりと思われる辺から、人をとがめる犬の吠え声が、猛々しくひとしきり聞こえて来たが、拍子木の音の遠のいたころに、これも吠え止めてひっそりとなった。

一軒のお長屋の土塀を越して、白木蓮の花が空に向かって、馨ばしい香いを吐いている。

くもるとも

なにかうらみん

つき今宵

はれを待つべき

みにしあらねば

紅色のかった振り袖を着て、髪を島田に取り上げている、まだ十八、九の年ごろの娘が、一軒一軒お長屋の土塀へ、楽書きをして行く文字といえば、このような一首の和歌なのであった。

京都所司代の役目といえば、禁闕を守衛し、官用を弁理し、京都、奈良、伏見の町奉行を管理し、また訴訟を聴断し、兼ねて寺社の事を総掌する、威権赫々たる役目であって、この時代の所司代は阿部伊予守で、世人に恐れはばかられていた。したがってこれに仕えている、小身者の番士なども、主人の威光を笠に着て、威張り散らしたものであった。

そういう番士のお長屋の土塀へ、若い女の身空をもって、いかに人目がないとはいえ、楽書きを書いて行こうとは、白痴でなければ狂人でなければならない。

しかし娘は白痴でもなければ、また狂人でもなさそうであった。書く手に狂いがないばかりか、書かれた文字にも乱れがない。

こうして同一の一首の和歌を、五軒あまりのお長屋の土塀へ、しだいしだいに書いて行ったが、六軒目のお長屋の土塀の面へ、同じその和歌を書こうとした時に、

「女子よ」と呼ぶ声が背後から聞こえた。

無言で振り返った娘の眼の前に、一人の供侍を従えて、おおらかにたたずんでいる人物があったが、道服の下から括り袴の裾が、濃紫に見えているところから推して、公卿であることがうかがわれた。

「およびになりましたのは妾のことで? 何かご用でござりますかしら?」

りっぱな公卿にとがめられても、娘はたいして驚こうともしないで、平然として訊き返した。

と、呼びかけた公卿のほうでも、あえて突っ込んでとがめようとはせずに、これも平然たる態度と口調で、

「なんと思うてそのような所へ、そのような和歌を楽書きするぞ? 風流にしては邪である。悪戯にしては度が過ぎる。そちの思惑を聞きたいものだ」こういって相手の返辞を待った。

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