広小路(四)
「ちんやの横町」のいま「聚楽」というカフェエのあるところは「新恵比寿亭」という寄席のもとあったところである。古い煉瓦づくりの建物と古風なあげ行灯との不思議な取合せをおもい起すのと、十一、二の時分たった一度そこで「白井権八」のうつし絵をみた記憶をもっているのとの外にはその寄席について語るべき何ものもわたしはもっていない。なぜなら、そこは、わたしが覚えて古い浪花ぶしの定席だったから。――その時分わたしは、落語も講釈も義太夫も、すべてそうしたものの分らない低俗な手合のみの止むをえず聞くものを浪花ぶしだとおもっていた。そう思ってあたまでわたしは馬鹿にしていた。――ということはいまでも決してそうでないとはいわない……(ついでながらわたしの始終好きでかよった寄席は「並木亭」と「大金亭」だった。ともに並木通りにあって色もの専門だった。――色もの以外、講釈だの浄瑠璃だのへはごくまれにしか足ぶみしなかったわたしは、だから吾妻橋のそばの「東橋亭」、雷門の近くにあった「山広亭」「恵比寿亭」そうした寄席にこれという特別の親しさをもっていなかった。――が「山広亭」、「恵比寿亭」とおなじく、いまはもう「大金亭」も「並木亭」もうちよせた「時代」の波のかげに、いつとなくすがたを消した。残っているのは「東橋亭」だけである。)
いまでこそ「聚楽」をはじめ、「三角」あり、「金ずし」あり、「吉野ずし」あり、ざったないろ/\の飲食の場所をそこがもっているが、嘗てははえないしもたやばかりの立並んだ間に、ところ/″\うろぬきに、小さな、さびしい商人店――例えば化粧品屋だの印判屋だののはさまった……といった感じの空な往来だった。食物店といってはその浪花節の寄席の横に、名前はわすれた、おもてに薄汚れた白かなきんのカアテンを下げた床見世同然の洋食屋があるばかりだった。――なればこそ、日が暮れて、露ふかい植木の夜店の、両側に、透きなくカンテラをともしつらねたのにうそはなかった。――植木屋の隙には金魚屋が満々と水をみたした幾つもの荷をならべた。虫屋の市松しょうじがほのかな宵暗をしのばせた。――灯籠屋の廻り灯籠がふけやすい夏の夜を知らせがおに、その間で、静かに休みなくいつまでもまわっていた……
「さがみ屋の露地」「浅倉屋の露地」ともにそれは「広小路」と「公園」とをつなぐただ二つの……という意味は二つだけしかないかなめのみちである。そうして「さがみやの露地」には、両側、すしや、すしや、すしや……ただしくいえば天ぷら屋を兼ねたすしやばかり目白押しに並んでいる。まぐろのいろの狂爛のかげにたぎり立つ油の音の怒濤である。――が、かつてそこは、入るとすぐおもてに粗い格子を入れて左官の親方が住んでいた。その隣に「きくもと」という待合があった。片っぽの側には和倉温泉があり煙草屋を兼ねた貸本屋があった。
……そこで、一段、みちが低くなった。
あとは、両側とも、屋根の低い長屋つづき、縫箔屋だの、仕立屋だの、床屋だの、道具屋だの、駄菓子屋だの、炭屋だの、米屋だの……あんまり口かずをきかない、世帯じみた人たちばかりが何のたのしみもなさそうに住んでいた。――と、そうわたしはそこのことを七、八年まえ書いたことがある。――が、そのときはまだ和倉温泉はあった。かたちだけでもいま残っているのは途中にあるお稲荷さまの祠だけである。
で、「浅倉屋の露地」は――「公園劇場近道」の下に「倉通横町」としたいまのその露地は……
今日のまず挿画を御覧ねがいたい。