七
以下、手帖二三枚……
五月十七日、午前十時、へんろ装束に身をかため、岬ホテルを出で、札所第二十四番最御崎寺に向ふ。……
空、やゝ曇り、風、全く無く、室戸岬の海、太だ平穏、むなしく灰白色にひかるのみにて、何んらの奇なし。(二句)
岩群れてひたすら群れて薄暑かな
薫風やいと大いなる岩一つ
その岩をえて弁当をひらく。朝ともつかず、昼ともつかず……(二句)
薫風や岩にあづけし杖と笠
べんとうのうどの煮つけの薄暑かな
はまゆふ、いまだ咲かず、黄あやめに、蝶、しづかにとぶ。(二句)
はまゆふのまだ咲かぬ風薫りけり
この町や水にこと欠くあやめ黄に
阿波にては、まだ黄ばみそめし位なりし麦、土佐にては、すでに真ッ黄色なり。
あてことのはづれてばかり麦の秋
阿波は暮春、土佐は首夏……
暮春、首夏、まだげんげ田の残りけり
□徳島の林さんは、角藤定憲を語つて、空想を現実化した。ぼくは、へんろ装束に身をやつすことによつて、現実を空想化した……
□浅野仏具店でとゝのへたへんろ装束のうち、手ッ甲だけ間に合はなかつたのを、徳島の宿屋でわけなく縫つてくれた。足袋は室戸岬のホテルで買つてもらつた。たゞ、草鞋といふもの、どこにも売つてゐなかつた。やむをえず結ひつけた草履にしたが、このごろのおへんろさんは、大ていは地下足袋ださうである……
□家をでるとき、いひつけて、新しい手拭を一本、鞄の中に入れさせた。おへんろさんになる以上、笠をかぶるにしても、タオルではこまると思つたからである。
岬ホテルで、すッかりこしらへをして、さて、鞄の中からその手拭をだしてみた。“あッ”と、ぼくは、おもはず声を立てた。なぜなら、その手拭、落語家の左楽が引退披露にくばつて来たものだつたからである。いゝえ、それだけなら何んでもない、それをくばるかくばらないに、かれ、高座ばかりでなく、突然、この世からまで引退してしまつたのである。
生前、縁なくして、一度も逢つたことのなかつた人だけに、ヘンな気がする。……帰つたら、すぐに、かれの愛弟子文楽に話すことにしよう。
□最御崎寺、またの名を“東寺”は、山の上にあつた。木の根、岩角を、攀ぢつゝ、四十五分かけて上つた。杖と、結ひつけた草履とが、どんなに役に立つたらう。へんろ装束に身をかためたこと、かくて、決してムダではなかつた……
□仁王門の下に、小さな猫が鳴いてゐた。
ぼくは、すぐに側へ行つて、抱いてやつた。……四国へわたつて以来、はじめて、ぼくは、家のことを思つた。
遍路と猫。
ぼくが、画人なら画にするが……
□この寺、一ト言でいへば、鄙びてゐる。そして、つゝましい。
が、住職の島田信保さんは、四十そこ/\で、まだ若く、寺の仕事以外に、観光協会副会長だの、児童福祉審議会委員長だの、保護司だのゝ役をしてゐる。手のつけられないほど荒れてゐたといふこの寺を、すくなくも、いまのやうに落ちつかせるには、いろ/\苦心があつたにちがひない。ぼくは、もッと、それについて聞くべきだつた……
□野根饅頭。……指頭大で、“いしごろも”みたやうなみかけをもつてゐるのがめづらしい……