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青春の息の痕
倉田百三
序
これは私が大正三年秋二十二歳の時一高を退学してから、主として、二十七歳の時「出家とその弟子」を世に問うまで、青春の数年間、孤独の間に病を養いつつ、宗教的思索に沈みかつ燃えていた時代に、やはり一高時代のクラスメートで、大学卒業前後の向上期にありし久保正夫君および久保謙君に宛てて書き送った手紙を編み集めたものである。
両君とも一通も失わずに保存していて下さった。
もとよりこれらの手紙は公表することなど予期して書かれたものではない。この寂寥と試練の期間を私はひとえに両君の友情に――というよりも友情の文通に支えられて生きた。私は遠くはなれて住み、一、二度しか相会うことはできなかった。それに海岸から、病院へ、それから温泉へ、それから修道園へ、と私は病を養いつつさまよっていたから。
この期間の私たちの友情は実に美しく、高いものであった。生への宗教的思慕と、文学的探究心と、そして知性ある情熱とが友情を裏づけていた。私たちの思索、なやみ、実践への方向は少なくとも人生の最高のものを、最も虔ましい態度において志向していた。
二十二、三歳から二十七、八歳までの血潮多き青年同志が、そのひたむきななやみに充ちた生をこれだけ知性ある友情によって支え、清き自律をもってしめくくりえていることはまれなのではあるまいか。
ともかく私はこれらの手紙を読み返して、その Leiden がまともに人性的であることと、心術が世俗の濁りに染んでいないことと、解決を求める仕方が深く、高くモラルを堅持している点において、今の若き世代に感染してもいいものではないかと思うのである。
なぜなら今は世をあげて、戦争や経済的改組の問題に忙殺されているように見えるが、やがて日本にも、世界にも新しき神学的時代が来ねばならぬことを私は予感しているからだ。
人類はその生活をも一度ラディカルに見直さねばならない。民族国家の問題、経済革命の問題もその根本を一度神学的に批判されるのでなければ、全人類を福祉あらしめる恒久の平和の原理を見いだすことは不可能であろう。一つの民族の光栄とはそれが天の栄えをわかつ時にのみ光栄なのである。
この本が「ある神学青年の手紙の束」と傍題されたのは、その内容が広き意味におけるセオロジカルな課題として人生を考え、取り扱っているからである。
実際に私は、集中の一つの手紙が示しているように、ある時期には、カトリックの僧侶たらんと欲していたのである。
「青春の息の痕」というのは、涙の痕が手紙に残ってるように、菩提樹に若き日にナイフで傷つけた痕がいつまでも残ってるように、青春の苦悩の溜息の痕を示すという意味である。
もとよりこの手紙集はそれらの解決に応えるためにあるのではない。しかし生と人間性の根本を神学的に考えとらえんとする志向と感情とを示唆しうるであろう。
青春においては、むしろ、その考え方、感じ方が解決よりも重要なのである。
恋のためではなく、友情のために、私がこのように長い細々とした手紙を書く時期はもう永久にないであろう。が私がそのような手紙を宛てた久保正夫君は、京都大学を卒えて、同志社大学に君独特のスタイルでのフィヒテ哲学を講じつつあった間に、惜しくも夭折してしまった。そして死を期していた私は病癒えて、塵労の中にたたかいつつ生きている。そしてもひとりの久保謙君は水戸高等学校の教授兼主事として、その昔ちょうど自分が抱いていたような悩みを生きている青年たちを教え導いている。
思えば二十五年の昔である。
私はその返らぬ日の手紙を読みつつ、その純真さに自ら打たれた。そして今の自分はあるいは堕落したのではなかろうかと省みさせられた。
嫌悪すべき人生の中年期がそのがらくたを引っくり返して私を囲みつつあることは事実である。もし私が今日取組みつつある、社会・国家ないし共同体の現実的諸問題を捨てて、おのれ自らの求心的領域に帰りうるならば、私は確かに今よりも心の静かさと、潤いと、慈しみとを保ちうるであろう。私自らの資性にとってそれが容易であり、成績においてもあるいは実り多いかもしれないのである。しかしながら、私はもう退くことはできない。なぜなら私の一生の歩みにおいて、私はもはや、自己の外の世界を見、遠心的の課題と取組むべき時期に達した。それは私にとって好ましくなくても、私の人間としての義務なのである。
まことに集中の手紙にある久保謙君の処女習作「朝」の中の「乳母車にのせられた嬰児」が今はこごしく障害と汚染にみちた社会的現実に立向かい、闘いつつあるのである。
それは必ず社会への浄めと高めの作用を、その分に応じては持つに相違ない。そして何よりも重要なことは私の人間的義務が、人間的完成が遂げられつつあるのである。
この集中の手紙のムードは全体からいっていささか女性的である。それは失恋と、肺患と、退学とを同時に課せられた若きたましいが、自ら支えるための消極的抵抗であったといいうる。
濡れ、輝き、愛と感傷とに至純であるところの、相触るるすべてのものに「よき意志」を用意しているところの、神学的人間を読者は感じ取ってもらいたいのである。
このように女性的なスタイルの文章を書いていた私は今、刺すがごとき、搏つがごとき攻撃的のポーズで書くようになった。しかし私にとっては、マリアのように優しいことも、サボナローラのように裂帛的であることも、ひとしくこれ神学的態度のあらわれなのである。そしていずれにせよ、私はいかなる場合にも、彼の「よきサマリヤ人」のよき意志を共存者に対して失うことを自らに許さぬであろう。その点においては、集中の一つの手紙にあるように、「人生を呪いますまい。みんなみんな幸福に暮らして下さい」これが私の真意である、たとい今となっては、そのように感傷的な表現を好まぬとはいえ。なお手紙の見出しは出版社の促しに由るものである。
一九三八年一一月一七日
倉田百三
大正三年(一九一四)
退学直後
あなたはどんな正月をしましたか。私には色も香もない正月が訪れました。東京から下って来た妹と語る言葉さえ少なく、静粛な平和な初春を迎えました。六日の一夜風の寒い神戸駅から淋しそうにして妹が立ってからはまた急に淋しくなりました。しかし私は淋しさにはなれてるから、もうその翌朝には、机の上でコトコトと薬の世話をしたり、マントを着て病院へ通ったりしました。病院は松林に囲まれて小高い丘の上の清楚な白塗りの建物です。そこから海岸まで緩やかな傾斜になっていて両側の松林では淡日がさして小鳥などよく啼いています。私は杖を曳いて鳥打ちをかぶってそこを往復します。私はまったくひとりの自分を嬉しみ静かな確実な生活をしています。病気はずっとよろしいから悦んで下さい。
学校では相変わらずでしょうね。正夫君はどうしていますか。私にもこの頃は静かな気持ちというものがわかるようになりました。
それから正月号は何日頃できるでしょうか。できましたら私に五冊ほど送って下さいませんか。それからまことに恐れ入りますが、一冊を小石川日本女子大学校松柏寮内倉田艶子に送って下さいませんか。なにとぞお願いいたします。私は二、三年山ごもりしてからだを養わなければなりません。君らが学士になられるまで、やっと一年の課程を終えたままで、就学できないのはずいぶん淋しいには淋しいが、それくらいなことで屈托してはいけないゆえ、私はしんぼういたします。
あなたの健康について祈る。(久保謙氏宛 大正三年一月十一日。須磨より)
孤独の部屋
私は二、三日前からここで暮らしています。ここは備後の南端にある、小さな港です。私は深い淵のように湛えた海にのぞんだ、西洋風の部屋を約束しました。この部屋から見ると静かな湾は湖のように思われます。向こうの方に眠るがごとく薄々と横たわった山脈の空は、透き通るように青くて、遠いかなしい景色です。
私はひとりも話す友がない。たいてい書物を読んだり、手紙を書いたり、ひとりで浜に歩きに行ったりして暮らしています。長らくこうして暮らしてると、実に淋しいものですね。二、三日すれば姉が、船に乗って私を見舞いに来てくれます。それを楽しみにしています。あなたはどうして暮らしていますか。私のからだはおいおい快いばかりですから安心して下さい。私はここに当分います。私は部屋の壁に、行李に入れて持って来たキリストの額を掲げました。そして淡青い窓掛の下で中世の宗教的なクラシックを好んで読んでいます。正夫君によろしくいって下さい。学校にはかわりありませんか。
私の宿の近所は色街で、怪しげな灯影に田舎女郎がちらちらしています。衰えた漁村の行燈に三味線の音などこおりつくようにさむざむと聞こえます。近状知らせて下さい。
(久保謙氏宛 一月二十三日。鞆より)
「恋を失うたものの歩む道」の原稿
あなたの手紙が須磨から廻って参りました。何しろおもしろくないでしょう。今少しすれば自由な大学へ行かれるのだから、しんぼうなさい。原稿のことは実に不愉快で私は掲載したくありませんが、私は何よりあなたに気の毒ですし、今私はだれびととも争うたりなどすることを欲しませんから、どうでもよろしいようにして下さい。事を荒立てることは、やさしいあなたに対して、私は忍びません。どうでもよろしゅうございます。ただなるべく削除したところはブランクにして書き入れられるようにして下さい。そして私の原稿を手数ながら送り返して下さい。それは私の親しい両三名の人に、全体の文を読んでもらいたいと思うからです。雑誌へは削除した旨を、付記しておいて下さい。片輪のものを完全のものとして評されることは苦痛でございますから。
ここに仮住居を定めてからの一週間は何の目に立つ事件もなく過ぎました。私はたいてい部屋で書物を読んで暮らしています。今日は旧正月一日で、この辺はみな旧でお祝いをいたします。今日午後私は海上一時間の航路で姉の家に行きます。そして二、三日その家で暮らして、帰りに姉をつれて来ます。その時にまた書きましょう。正夫君によろしくいって下さい。私の心はこの頃また池州に生えた葦のように小さく揺らぎ出しました。魂は小さな嘆きと、とこしえなるものへの係恋とに伏目がちになっています。(久保謙氏宛 一月二十六日。鞆より)
霊の生活へ
雑誌たしかに受け取りました。ありがたく存じます。私の文章の処置についてはともかくもあれでかまいません。安心して下さい。私のからだは日に日に快方に赴きますから喜んで下さい。この頃は永遠への思慕を痛切に感じて読んだり考えたりしています。女の内容なき幻であることは私に非常にたしかになりました。私は女によりての生命の興潮を重く見ません。私が女に赴いたほどの純熱を捧げて私は霊の生活の奥へはいって行きたい。何もかも身をもって知る態度を保ちたい。私らの案じなければならぬのは、心に大きな熱あり、飢渇ある思想感情の訪れなくなることではありますまいか。私はいい加減なところで収まって生きてゆきたくないと思います。
便のおりに、正夫君の訳したフランシス伝の原書を正夫君に聞いて知らして下さいませんか。大切になさいますように。(久保謙氏宛 二月十二日。鞆より)
アリストクラート
手紙と雑誌とをたしかに受取りました。「白樺の恋人」はただちに読みました。山のなかの神々しい湖水、山の人々の生活、そして人生のある道すじを辿ってる種々の青年とその個性の運命などを感じて読みました。私にはああいう背景の前にいでたる青年の会話と、それを透してうかがわれる運命というようなものが最も興味を動かしました。山のなかの景色や人の生活も私にフレッシュな心に適うたものでした。
あなたは故郷で静かにおちついて暮らしていることと思います。「いたるところで調和を保つアリストクラート」として、周囲に集まる弟姉らをもさしてめんどうがらずに悠々と心のバランスを保って暮らしていることと思います。私はそのアリストクラートの心を得ることにこの一年の間努力してきました。私の素性はいつも調和しないインタブルなものであることを自覚していますので、私はよほど注意しないと周囲に不愉快な空気をかもしてばかりいます。私はそれを怖れ忌んでいます。トマスが「なんじ静かなるところに退きて神をエンジョイせよ」といったのが心にしみます。私はこの頃はトマスの理想とするような生活をいたしています。私は町からはなれた森のなかの沼のほとりの一軒家に私ひとりで暮らしています。家にいるとわがままが出ては父母を傷つけ自ら不愉快になりますし、また病気の性質上、私だけはなれて暮らしています。昼は日光浴をしたり魚を釣ったり、夜は燈火をともして聖書やアウグスチヌスや主として、レリジアスなものを研究しています。あなたと同じように私は旧約聖書にたいへん興味を感じて読みます。私は祈祷の心理を日に日に深くしてゆきます。単に詩的な感興を催してでなくて、実際的な要求から祈ります。私の恐怖は私らがどんなイグノランスから自他を傷つけるかもしれないということです。私は神の光に輝いた知恵がほしい。ことに自分の行為が他人の運命に交渉するときに、これまで私のしたいろいろなことを考えてみるときに私は人間のイグノランスを痛切に感じて恐怖します。ああ私は自ら知らずして他人を傷つけていました。私は宗教がこの現われたる世界をよしと見ないのに賛成いたします。そしてその最大なる欠点は生命が他の生命を犯さないでは、存在できないことであると思います。これ神のあたえたまいし厳粛な罰ではありますまいか。私はキリスト教の宿罪の思想に非常に興味を感じます。私らの生まれながらの罪を救済するための罪なきものの贖罪としての十字架が、真に愛のシンボルであるとも思います。与えるばかりの愛の、これほど大きな計画はないと思います。聖書は戯曲としても最大の問題を取扱ってるかと思います。それが空想であるか、実在であるかを決めるのは私らの放擲、憑依、転換――内面から迫られた一種の冒険でなければならないかと思います。ファンタジーとレアリテートの間に私は主観的ならぬ区別はないかと思います。私はルナンのヤソ伝を読んでいます。そしてキリストは大なる空想家であったといってるのに注意しました。近代の青年はあまりに空想が小さい。