Chapter 1 of 13

幼きいのちは他者の手にある。もし愛する者が用意されてなかったら、自分のいのちの記憶もなく、死んでしまうよりない。今日生きながらえている者は必ず愛されて育てられて来たのである。

我々は生れた時のことを記憶していない。愛の手は、そして乳房は自分が知らぬのに待ち設けられてあった。

人間のいのちの受け身の考え方の優先権、自主的生活の不徹底性がここに根ざしている。

私の記憶はおぼろでそしてちぎれちぎれだ。そのフラッシュド・バック――。

私は、母親の背中で泣いていた。母は私を揺ぶりながら、店先をあちこち歩いていた。私はハシカだったらしい。機嫌が悪く、母の背中に頬を当てて、熱ばんだ体に病覚を感じて泣いていた。あわれな、小さな生きものだ。おんぶしたまま母は後ろを振り向く。顔に涙の条が光っている。

母親は私の尻をやさしくたたきつつ、田舎じみた子守歌をうたった。

そのリフレーンが、へんに耳に残っている。

寝ないのかええ、こんな餓鬼やホイ 私の目に塵が入ると母は私を臥かして、胸をひろげて乳房を出して、乳汁を目の中に二、三滴落した。

やわらかい、暖かい乳汁の目ぶたににじむ感じ。それと共に塵がとれて出て来る。

「ほーら、もう痛くあるまいがの」

火のつくように私は泣いた。何のためか母にも、乳母やにも解らない。村の医者が来た。この医者は十八番の腰湯をさせた。すると、げえっと指環を戻して吐き出した。乳母やのを呑み込んでいたのだ。

乳母やの家に連れられて行ったらしい。藁ぶきの屋根、そのまわりに実のなった柿の木があった。茶釜からひしゃくで茶を汲んでいた。ずっと年老った乳母やの母が歯のない口で、やさしく笑って、頭を撫でて柿をくれた。

この乳母やは後に私を灰小屋の柱にくくりつけて置いて、他の男と忍び合い、とうとう駈け落ちした。

進庄という村の妙見祭りに、山の中の宮の馬場で、鳥の尾や、獅子の面をつけた子供たちが太鼓をたたいてはおどるのを見ていた私は、折ふし痢病だったらしく、足から着物からうんこまみれになって泣いていた。

二、三丁はなれた山の中で、御馳走をひろげていた家の者が総がかりで洗ってくれた。赤い毛布が下草の上に敷かれ、麗衣の姉たちが華やかにはしゃいでいた。私には女の姉妹ばかり――みな揃って美しかった。こうして美のヴィジョンが育ったのだろう。

私が五つの秋、二つ年下の妹重子が、五里はなれた三次という町の叔母の家へ養女に貰われて行った。もとよりそんな事情は後になって知ったのだ。その時は子守に連れられて、車に乗って行く妹を店の格子にすがって私は見送った。幼なごころに何とも言えない淋しい気がした。それから私は毎日毎日妹の帰って来るのを待った。やはり格子にすがって、妹の去った道の方を帰って来はせぬかと、長く見て立っていた。しかし妹は帰って来なかった。これが私が幼な心に哀別というものを知った初めだ。私はウロ覚えに、母が三次から帰った子守と話していた会話の一節を覚えている。それは叔母の家の直ぐ後には、綺麗な川が流れているということ。重子は初めは家へ帰ると言って泣いたが、なれた子守がついているのと、叔母夫婦がとても可愛がるので、なついて忘れて来たこと。重子を置いて、かくれるようにして、帰って来るのは辛かったことなど。

私は幼なごころにその川を心に描き、今はちがった家で遊んでいる、帰って来ぬ妹のことを思ってひとりで泣いた。その悲しみはハッキリ覚えている。

重子を養女にやったわけは、私の父母には子供が七人あり、私の外は女の児ばかりで、どうせ他家へ嫁にやらねばならぬのなら、子供のない叔母が是非にと欲しがるので、物心のつかぬうちにと養女にやったのであった。重子の下に二つちがいの艶子がおり、私もまだ五つでは母も手がまわり兼ねたのであろう。次女の雪子はその時すでに十六で父の実家佐々木家に養女に行っており、三女の種子は十四で尾道の伯父の家にこれも養女に行っていた。家には長女の豊子十八と、四女の政子十と、赤ん坊の六女艶子とがいた。家は太物商で裕福に暮らしていた。

その頃は何ごとも知る由もなかったが、子供を幼いころ、養女にやるということは子供の運命にとって容易ならぬことだ。雪子姉と重子とが両親の膝元に育った私たちに比べて、その後どんなに苦しんだか、境遇の相異のために、性格までも一時は違うかと思われる程であった。しかし年長けるに従い、私たち同胞は結局同じ両親から出た、同じ血液型の性格であることがハッキリとあらわれて来た。しかしそれは雪子姉や、重子が境遇にめげず、自分を失わずに切りぬけて来たからだ。

正直で、感情が豊かで、諸芸がよく出来て、宗教心が深いこと、しかし実務上の処世術にうとく、余程がっちりと努力しなくては世間の荒波を乗り切り難いような性格――これが私たち同胞が親から享け継いだ遺伝である。

父は正直な、謙遜な、温良な玉のような人間であった。人と争うこと、曲ったことの出来ない、羊のような人間で、全く平和の子であったが、それだけ小胆者であった。それが善、悪ともに私に遺伝した。そして私の場合では自己批判と超克とによって、大胆となること、敢えて人と争うこと、悪にも耐え得ることの自己鍛錬の課題となってあらわれて来るのだ。

父は義理堅く、節約で、几帳面で、終生自分が養子であることを忘れなかった。父は決して自分のためには浪費しなかった。私の家が派手になったのは太物商のためと、女の姉妹が多く父は至って子煩悩なので、子供の願いを拒けることが出来ないためだった。娘たちは華やかに派手に装うていたが父はいつも質素な、身なりをしていた。父は決して豪放でなかったが優美を愛した。花を活け、三味線を弾き、義太夫をよくした。大阪に仕入れに行く時のたのしみは文楽を聞くことであった。しかし父は物に耽るということはなかった。実によく程を得ていた。物に耽る正反対の私の性格はどこから来たものか。父にも母にもその傾向はない。これは父が幼い時から養子となって、すべてを養父の前に控え目にしなければならなかったのに反し私は父母の寵児としてわがまま勝手にふるまって育った勢ではないかと思う。私に節約の風がなく浪費的なのもその勢であろう。

私は父から美しい感情上の教育は十分に受けた。しかし実務上、処世上の実行教育は少しも受けなかった。父は世の風波は自分で受けて、子供にはふれさせなかった。それは父の弱い性格からの寵愛であって却って、一生を通じて私の負い目となってしまったのであった。

この父は角力を見に行っても、田舎まわりの角力がよく八百長にたぶさを掴んで、投げたり、面をはり合ったりするのを見ても、胸がドキドキして見ていられず、あれは八百長だとつれが言って聞かせても、不安がやまないような人間であった。

「父のように弱気でなく」

というのは、一生私の鍛錬の課題であった。しかも私は疑いもなく、父からこの弱気を遺伝した。

これは後に詳しく書くが、後年私が成田不動明王に断食祈願した折に、

うつそみのか弱きさがをもてあまし

威怒のみ仏われ懸くるなり

白浪の刃を交わすすべもなく

持てるふぐりをわれははじらう

と詠んで願がけしたのも結局はこの親ゆずりの弱気を克服せんとの勇猛心であったのだ。

しかし父はそういう弱気であったけれども、感情教育の上では特殊な厳しさを持っていた。たとえば家には祖母、父にとっては養母がいたが、老人を尊敬するという点に於て、もし子供たちにでも不敬な振舞いがあれば父は厳しく叱責した。

又ある時長女の豊子姉の婿養子と、姉妹たち(従兄弟たち)が皆集まって、正月の歌かるたをして遊んでいたことがあった。私が何心なく、

「このうちで他人はこの兄さんだけだ」

と婿養子を指さした。

すると父は顔を赧らめて、恐ろしい権幕で私を叱った。

「そんな事を言うということはないぞ」

私はいつも叱ったことの無い父なのでへんに恐かった。何か大変悪い事を言ったのだと思った。

父は一生を通じて一度も私を打ったことがなかった。が或る時私はふと金槌で父の頭を打ったことがあった。

父は店用の帳面の表紙にする堅紙を張物板にはってこしらえていた。私は釘を抜く金槌を手に持って、父の紙を張るのを見ていたが、何と思ったものか父の薄くなった頭をポンと槌でたたいた。

父は驚いたが、次の瞬間には恐れと怒りとで叫んだ。

「この子は親を金槌でたたいたぞ」

姉たちがとんで出てあやまってくれた。私は悲しく、恐しく、泣きじゃくった。

父が叱る時はいつでもこうした道徳的、感情的な怒りの場合に限っていた。それも一生を通じて数える程しかなかった。それで父の叱責には非常に権威があった。私を初め姉妹たちは父が甘いので嘗めていたが、父を尊敬していた。わがままはしても、同胞の誰でも父を侮ったり、悪く言うことを許さなかった。どうも美しいところがあった。だから父にとって家庭は文字通り慰安の巣であった。そんなわけで子供たちが美しい着物をつけ、派手になって、我儘してもついついそのままになって行ったのであった。

私は父の三十七の時に生れた子だが、父にも母にも色めいた波風はひとつも起らなかった。それだのに、子供たちにはどうしたわけか恋愛のアフェアと障りが多かった。

長女の豊子姉は際立った性格者で、私に強い印象と影響とを残した。彼女は美しく派手な性格で、我儘者であった。そしてどうしたわけか強気であった。しかし何とも言えない魅力を持っていた。彼女は非常なおめかし屋で念入にお化粧した。その豊麗な、陽気な姿が店頭にあると店は明るかった。彼女は商売が好きで、そして上手でもあった。人と交際することが好きだった。しかし好き嫌いは非常に強く、それにはしっかりした理由があった。癇癪持ちだったが、その怒る動機にいつも面白いところがあった。私は一人息子で両親の寵をあつめていたが、この姉だけは気に入らないとぽんぽん私を叱りつけた。そのくせ非常に可愛がってくれるのだ。

九の日、九の日に市が立って店が賑おうたが、ある時在方の女客が品物を盗んだ事があった。私が驚いたのには、豊子姉はその客の頬を平手で叩いた。女客は面を真赤にし、ふところから盗んだ品がころがり出た。女客はまだ若く、在方の嫁さんらしかった。

が姉はすぐその女客が可哀そうになって、怒る店員に対して、その女をかばった。そしてそっと横門からかえしてやった。

姉は芝居が大好きで役者をひいきした。幕を贈ったり、衣裳をやったりした。私の家は小屋元なので、いつも一番いい席に赤い毛布が敷いてとってあり、豊子姉は妹たちに着飾らせて、それをつれて、自分が女王のようにまん中に坐っていた。しかし芸を見る目は鋭かった。姉がひいきする役者は確かにいい所があった。姉はまた茶屋のお主婦や、芸者をひいきした。その時代に、狭い土地で役者買い、芸者買いするのはよ程大胆な仕打ちであった。しかし姉はそんな仕打ちをしても卑しい感じはしなかった。

出入りの男、女には好き、嫌いをした。しかし姉の好く人間はやはりいい所があった。

この姉は十二、三の時ロイマチスをやり、それが元で心臓を悪くし瓣幕閉鎖不全症であった。長生き出来ないことを自分も、親も知っていた。それで父母はなるべく本人の好きなようにやらせていた。この姉は我儘ではあっても親思いであった。

私はこの姉が大好きだった。長所、短所ともこの姉から強い影響を私は受けた。

この姉は一寸四角位な字で手紙を書いた。自分が読み役になって皆に歌かるたをとらせて楽しんだ。が自分はとった事はなかった。小説本を沢山集めていた。姉の歿後私の家では貸本をしていた程であった。私はそれを貪り読んだのだ。この姉の婿養子はまた典型的な才子だった。字も、絵も、音楽も、文学もよくした。がさすがの才子も姉には頭が上らなかった。姉は自分には芸は出来ないが芸のあるものを愛した。妹たちにも奨励した。まったく姐御らしい、女王らしい性格であった。ケチ臭いこと、卑怯なこと、心ないこと、卑しいこと、気障なことを排斥した。

姉は地元の流行のさきがけであった。しかしその元は大阪にあるのだ。何しろそのころは、汽車に乗るにも十八里へだてた尾道まで行かねばならず、電燈もない北備の山間、小さな町なのだ。大阪で髱の長いのがはやると先ず姉の髱が長くなり、妹たちが之にならい、地方の娘たちの髱が皆長くなった。そして姉や妹たちのは大阪の娘よりまだ長いのだ。髪結いたちは姉からリイドされるのだ。勿論気に入るまでは何度でも結い直させ、思いきった厚化粧だった。

こうした美と意気地とに耽る素質はどうも両親にも見当らない。しかし子供には皆あるのはどうしたわけか今に解らない。私にもその素質がある。しかし私には一方自己反省が非常に強く、自分の弱点を超克しようとするので、それが反対のもので包まれることが多い。

ともかくこの姉はおもしろい性格だった。一方涙もろく、手紙でも涙がポタポタ滲んでいることがあった。

私はこの姉から影響されたことを悔いる気はない。人間としての私の肌と趣味とが卑しくないとしたら、この姉の感化が多いのだ。

六つの歳に私は尋常小学校へ店の者につれられてあがったが、髯のある先生が恐くて、どうしても行く気がしなかった。それで一年延ばすことになった。

この年だったと思う。私は初めて盗みをし、その良心の苦しみを知った。

政子姉の綺麗な千代紙が欲しくてたまらず、そっと盗んで自分の箱に入れて置いた。

政子姉が探し出した。

「あんた知らない?」

「僕知らないよ」

しかしそれを平気な顔をして言える自分ではなかった。気どられそうだった。どうしたらそっと返して置けるかしら。それが私の心配と苦しみだった。

豊子姉が私の心を見ぬいた。

「あんた隠したでんしょう?」

「う、うん」

私はかぶりを振って、うなだれた。

「嘘おっしゃい。……いいからお出しなさい。姉さんがよくしてあげるから」

私は泣き出した。

「何でもないのよ。……だけどもうそんなことしてはいけませんよ」

七つから私は学校へ行きだした。するとたちまち学校が大好きになった。日曜でも先生が明日は休みですと言わなければ、学校へ行って見る位になった。よく出来ると言って先生にほめられた。

が二年生の時口頭試験に先生から

「あんたが学校へ来るのは何のためですか」

と訊かれた。

私は返答が出来なかった。先生はほんの常識的な答えを期待しての問いだったんだろうが、私は深く考えすぎたのだ。

学問をならいに、えらくなるために。などでは答えにならぬと思ったのだ。がそのため私は番数が下った。

が考えて見れば、これが一生を通じての、私の思索と、世間の常識との食い違いなのではなかろうか。従って私の答えることは世間が期待するのと相違する。そこで私は世間に容れられなくなるのではあるまいか。

「何のために学問するのか?」

この問いに正しく答えることがそんなに容易いことであろうか?

八つの歳に私は初恋をした。

今でも名を覚えている。浅井じつという同級生の女の子であった。鼈甲屋の養女であった。私はやはり同級の世良半次郎という子と時々その家に遊びに行った。色の白い、少し髪の赤い美しい娘だった。風が吹いてその前髪が上ると、美しい額があらわれた。二人きりになると私はぽっと上気した。先方の娘はどうだったのか私はわからない。その家の前を通っても、その娘の名札を見ても胸が躍った。世良半次郎の方が親しそうに見えると私はあきらかに嫉妬を感じた。勿論心を打ちあけたりするにはあまりに子供だ。教室は一緒になったり、分れたりしたが、高等小学の三年までその娘と同級だった。そしてずっとその娘を夢見ていたが、一度も話したことはなかった。しかしその娘は私のベアトリチェであった。その娘を思うことで人生は美しく、浄らかで、また熱いものになっていた。

「百三は十になりて死す」

私は倉の壁にこう色チョークで書いた。恐らく九つの年だろう。両親への復讐心のあらわれだ。何が気に食わなかったのかは記憶していない。とにかく愛してくれてるものへの幼稚な復讐心だ。こうした拗ねと甘えとは私たち同胞のつきものだ。ただし他家へ養女にやられた姉妹はこの気持は知るまい。それ程両親は私たちを愛し、私たちも両親を愛した。後年、社会が私たちに、冷たく冷たく感じられるのも、こうしたスィートな幸福を知っているからだ。今日の社会は拗ねることも、甘えることも許しはしない。しかし人と人とのつながりとはこうした機微がなくては、有機的に融け合うものでないのではあるまいか。

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