Chapter 1 of 10
忍苦一年
毛沼博士の変死事件は、今でも時々夢に見て、魘されるほど薄気味の悪い出来事だった。それから僅に一月経たないうちに、父とも仰ぐ恩師笠神博士夫妻が、思いがけない自殺を遂げられた時には、私は驚きを通り越して、魂が抜けたようになって終い、涙も出ないのだった。漸くに気を取直して、博士が私に宛てられた唯一の遺書を読むと、私は忽ち奈落の底に突落されたような絶望を感じた。私は直ぐにも博士夫妻の後を追って、この世に暇をしようとしたが、辛うじて思い止ったのだった。
その当時私は警察当局からも、新聞記者諸君からも、どんなに酷しく遺書の発表を迫られたか分らぬ。然し、私は堅く博士の遺志を守って、一年経たなければ公表が出来ないと、最後まで頑張り通した。その為に私は世間からどれほどの誤解を受けた事であろう。而しそれは仕方がなかったのだ。
こうして、私にとっては辛いとも遣瀬ないとも、悲しいともいら立しいとも、何ともいいようのない忍苦の一年は過ぎた。
恩師笠神博士夫妻の一周忌を迎えて、ここに公然と博士の遺書を発表することを許され、私は長い間の心の重荷を、せめて一部分だけでも軽くすることが出来て、どんなにホッとしたか分らぬ。
以下私は博士の遺書を発表するに先立って、順序として、毛沼博士の変死事件から始める事にしよう。