15
西村電機商会主西村陽吉が変死を遂げてから二日目の朝、暁方からどんよりと曇っていた空は十時ごろになると粉雪をちらちら降らしはじめた。
朝の跡片づけの手伝いをすませた瀬川艶子は、自分の部屋に定められた玄関脇の三畳に引っ込むと、机の前に崩れ坐った。彼女の涼しい目は眠られないふた晩に醜く脹れ上がり、かわいい靨の宿った豊頬はげっそりと痩せて、耳の上から崩れ落ちたひと握りの縺毛が、その尖り出た頬骨にはらりとかかっていた。
彼女はいまその容貌の変化が示すように、絶望の深淵にもがいているのだった。彼女の心の中はノスタルジー、たとえば故国を隔てて数百里、異邦の渺茫たる高原の一つ家で、空高い皎々たる秋の月を眺めた者のみの知る、あのたえ難い掻き乱すような胸の疼痛、死の苦痛にも勝るあの恐ろしい郷愁にも似た苦悩に充満するのだった。それは絶望した人生への限りない郷愁だったのである。
艶子の目はともすれば眠ろうとした。しかし、彼女の頭脳は極度に休息を拒絶して、畳の上に針の落ちた音にさえも全身の筋肉の緊張を命じるのだった。あの日の西村と彼女との闘争、解け難い疑問として残っている奇怪な出来事、それから野田の拘引、それらのことがひと呼吸のたびに艶子の脳裡で踊り狂うのだ。そして、その間には幼時からの記憶がなんの脈絡もなく消えては現れる。
艶子は青白い顔を歪めたまま、白痴のようにいつまでも一つところを見つめて動かなかった。
* * *
艶子は薄幸な少女だった。
彼女は府下(当時は東京府)のある旧家に生まれた。彼女の幼時には一日のうちには歩ききれないと言われるほどの広大な土地が彼女の家に属していた。ところが、彼女の父はいろいろの事業に手を出してはしだいにその土地を失っていった。そうして最後に残った十万坪余りの地所を、銀行へ抵当に入れるについて仲介に立った男に詐欺同様に奪われて、それがために数年間訴訟を起こして貧窮のどん底に落ち艶子の七歳の年に世を去った。それから彼女は貧しいなかを母の手ひとつで寂しく育てられたが、その慈愛深かった母親も彼女の十二の年に死んでしまった。彼女は孤児となったのである。それから現在の家、彼女は小父小母とは呼んでいるが、母の生前、近所にいてなにくれと世話をしてくれた知人関係にすぎない人たちの手に養われた。この情け深い養い親はある会社の集金係をしていて、もとより豊かな人ではなかったが、子供がなかったし、夫婦揃って好人物であったから、艶子は世の孤児のように不幸ではなかった。また実際においても、これらの艶子の身に起こったかずかずのことは第三者の目から見ると不幸の限りだったけれども、艶子にしてみれば家の繁昌していたころは記憶前のことだし、貧乏な生活には慣れているし、真の両親は早く失ったけれども、代わりに優しい養父母を得たのであるから、そう悲嘆に咽ぶことはなかったのである。
だから、彼女が小学校を卒業するとすぐに電話交換局に勤めねばならなかったことも、さして苦にはしていなかった。十三の小娘があるときは朝早くから、またある期間は夜ばかり、毎日石造りの陰鬱な大きな部屋に通って、慣れない交換台に向かって、加入者の罵声を浴び、仲間からは粗末な服装を嘲笑され、両親から譲られた唯一のものである美貌を嫉視されて、白眼と冷眼のうちに自己を開拓していった。一、二年の修業は筆紙に尽くせぬ辛苦だった。けれども、彼女はさほどに感じなかった。彼女はいつでも従順に運命についていった。
運命もまた彼女にいつでも無情ではなかった。神はこの哀れな孤児に怜悧と美貌を与えたのみならず、さらに何物にもいじけない楽天性を付与した。彼女の環境は彼女をおとなしい従順な寂しい少女として育てていったけれども、一面では彼女の天性である純真さ無邪気さ快活さが、すくすくと心のうちで成長していたのである。
彼女が十六となり、一人前の交換手となったときに、彼女は激しい職務の暇を盗んでタイプライターを学んだ。そうして、二年の後にはタイピストとして西村商会に迎えられた。それから今日まで一年余りの歳月が流れた。
この一年間の西村商会は、艶子には楽しい思い出であった。
陰鬱な交換局から明るいオフィスへの解放、それは永い冬籠りのあとの春の野へ放たれた小鳥の喜びであった。交換局では同性ばかりの集まりからくる嫉視・反目・排擠、徹底した意地悪さ、それに冷たい監督、それが全部だった。しかし、この帝都(当時の国名、日本帝国の首都の呼び名)の中心のビルディング街には雑音と色彩の強烈な刺激・明るさ・華やかさ、そうして奔逸な男女の享楽があった。
こうした繁劇と放縦の巷で艶子は急に大人になった。身の丈がずんずん伸びて、皮膚が緊張し、胸がふくらんで腰が丸みを増した。彼女の束髪や化粧が彼女の心境の進歩にも勝って著しい跳躍を示した。白い肌は気持ちよく白粉を受けつけ、涼しい目・筋の通った鼻・締まった口、そしてそれらの調和を少しく破ってやや尖り出た頤は、頬の靨とともに無限の愛嬌を提供した。華美な服装が魅惑的に似合った。彼女の収入の大部分が服装と化粧に費やされるのも、いつか小母の黙許を得るようになった。一年前にみすぼらしい少女として入社した艶子は、一年後には全社員の驚異となっていた。艶子は商会の一日が楽しかった。往復の途上、昼の休憩時間、勤務時間すらが彼女の人生を有意義に思わせた。家に帰ると、彼女は小母の忠実な助手であった。実の親を持たない彼女はやはり、そう浮き浮きと外出することはできなかったのだ。けれども、彼女はそれを悲しいとは思わなかった。そうして、楽しい明日の出勤時間を待ちわびているのだった。
こうして、環境は彼女をますます無邪気に快活にするとともに、一面ではますます落ち着いた静かな女として育てていった。
彼女の快活な一面は、その美しい金属性の声でからからと笑うときに、なんぴとの心も浮き浮きさせずにはおかなかった。けれども、彼女が黙ってなにものかを見つめているときには、その顔のどこかに言い知れぬ哀愁が浮かび出ていた。それはたしかに大きな矛盾だった。思うに、純真・快活・楽天性は彼女の天資であったのであろう。もし彼女が富める両親のもとに順調に成長することができたら、きっと彼女はきびきびしたとこしえの春を思わすような少女になったであろう。しかし、彼女の境遇は彼女の天性に大きな歪みを与えた。彼女が黙したときに浮かび出る哀愁、それは彼女すら自覚しないもので、幼時からの逆境による潜在性の性質だったのだ。約言すると、彼女は戯れ笑うときは一個の快活な少女だった。けれども、黙していることの多い人間の生活では彼女はむしろ寂しい淑やかな娘だった。純真・可憐、この数語が充分に彼女を説明していた。
純真・可憐、そうしてときに快活な笑い、それはこのビルディング街の真菰の中に咲く菖蒲だった。近づく機会のもっとも多い西村商会の人々が煩悩をそそられたのは当然であった。そうして、商会の中でももっとも誘惑を感じたのは、社長の西村陽吉・庶務の北川・会計の野田の三人だった。
商会主は淫蕩と淫蕩との間の小憩み、膏っこい刺身のつまとして、純真無垢の艶子を見た。金や地位に靡くことを知らない少女は一面にはばからしく思えたが、一面には貴い宝石のように見えもした。両手の間に掴み潰してしまえるような小娘のうつむき姿を机の前に眺めながら、彼は異様な圧迫と堪え難い衝動にかられて、卑しい目を輝かすのだった。
北川は四十男の狡猾さで彼女に対した。彼は剽軽な態度で他の社員には無関心に彼女とふざけ、悪口を取り交わした。内心では代償なしならいつでも喜んで彼女を抱擁するのだった。けれども、彼は自己の欲望よりも、彼女を社長に取り持つというほうに重きを置いていた。野田はこれらの二人と違って、三十に充たない青年の一本槍な気持ちで彼女に迫った。
艶子からいうと、社長はいやらしい好色漢だった。いや、彼女にはまだ好色という意味は分かっていなかったから、それに社長に気に入られているということは彼女には誇らしいことだったから、彼女にはなんとなく恐ろしい好きになれない老人と思えたくらいだったろう。北川は一番気の置けない好きといってもいいくらいのところだったが、どこか不真面目なところのあることは処女の敏感さで見抜いていたので、頼みにならない、どっちかというと少しばかにしていたのだった。野田は陰気なむっつりした男で、ときに卑屈に見えるところがあって、好きではなかった。けれども、彼には愛と熱と執拗とがあった。そうして、近代の恋愛哲理によれば「若きものは若きものに属す」である。ことに、純真可憐の少女に熱と執拗をもって迫るなら、成功せずにおかないだろう。幸福な野田は半ば艶子を征服しかかっていた。
こういう時に、突如として一昨日の悲劇が起こったのだった。
一昨日、社長室で社長に抱擁を強いられて、恥と怒りと驚きにいていたときに、折よく廊下からドアをノックする者があったので、危ういところを逃れて隣室へ逃げ帰った。タイプライターの前に坐って激しい息遣いを落ち着かせていると、野田が青白い顔をして傍に寄ってきて、小声で退けたらすぐに例のところへ来てくれと囁いた。例のところというのは真下の四階の一室で、空き部屋になっていて偶然にこの部屋と鍵が合うので一、二度野田に強いられて、一緒に入って語り合ったことがあったのだった。その日の野田の様子が真剣だったので、艶子は黙ってうなずいた。四時近くになるといつの間にか野田がいなくなっていたので、艶子は急いで帰り支度をして四時きっかりに部屋を出て、うまく友達の目を眩まして裏階段から四階へ下りると、そっと空き部屋の前に行ってドアを押した。ドアが音もなく開いたので急いで中に入ると、薄暗い隅に人の姿が見えたのでむろん野田だと思ってつかつかと近づくと、その人ははっとこっちを見たが、ああ、思いきや、それは社長だった!
艶子はたちまち射すくめられて棒立ちになった。社長の顔にはさっと驚駭の色が流れたが、すぐに無言で彼女に飛びかかってきた。彼女は本能的に身を退いた。社長はすぐ迫ってきた。目は爛々と輝いて、淫欲と凶暴の相が物凄く閃めく。狼狽した艶子は社長の意図を少しも察することができず、生命の危険を感じたようにじりじり後退りをした。いつの間にか逃げ場を失って、ドアと反対のほうに追いつめられ、壁に背がつくようになった。社長の大きな掌は艶子の手首を掴もうとしている。その時に、ふと艶子の目はすぐ右手の机の上に注がれた。そこには、たぶん暖房工員が修繕用に使って置き忘れたのだろう、イギリススパナーという暖房用の大きなねじ回しがあった。咄嗟に艶子はそれを掴んで、追い迫ってくる敵に対して振り上げた。今度は社長が後退りを始めた。艶子はスパナーを振りかぶったまま、じりじりと前に出た。繊弱い女と侮った社長は隙を狙って彼女に飛びかかった。彼女はがん! と彼の肩に一撃を与えた。次の瞬間に彼女は打ち下ろした右手を、それから左手を掴まれた。艶子は必死に振り放そうとした。その時に社長はうーんと呻いて、後ろざまに倒れた。
艶子はびっくりした。両手で顔をおおってつっぷした。それは永い間のように思えたが、一分とはたたなかったのだろう、肩に優しい圧迫を感じて艶子さんと呼ぶ声がする。はっと顔を上げると、思いがけなく野田が真っ青な顔をして立っていた。
「早くお逃げなさい、早く。人が来るといけないから」
彼はぶるぶる震えていた。彼の足下には真っ黒く社長の身体が横たわっていた。艶子は夢中で部屋を飛び出した。
それからどうなったのか彼女は知らない。ほど経て社長は五階の社長室の真下の街路上に死体となって発見された。艶子は警視庁に喚ばれて訊問された。艶子がおどおどして社長室での出来事を陳述すると、係官はそれで満足してそれ以上追及しなかった。四階の一室では僅々数分間しか費やさなかったとみえて、艶子が家に帰り着いた時刻はふだんとほとんど違わなかったので、少しも係官の嫌疑を惹き起こさなかったのだった。
艶子は家に帰ってほっと安心の息をついたが、間もなく北川が拘引された。それから野田が拘引された。新聞記者はうるさく訪問してくる。警察から外出を止められる。大きな秘密を抱いている艶子には、これらのことはあまりに重荷だった。未来のことを考えると、絶望が真っ暗な大きな口を開けて待っているだけだった。
社長の死は艶子にも大きな疑問だった。社長は確かに彼女の前に倒れた。しかし、それは彼女の加えた一撃によってであったろうか。野田はいつあの部屋に入ってきたのだろう。社長の倒れたのに野田は無関係だったろうか。社長はあの時にもう死んでいたのだろうか。社長は自分が殺したのだろうか。こんな疑問を艶子は少しも解決することができなかった。野田のことが少しも分からないので、自首していいのやら悪いのやら、それも彼女には分からなかった。彼女は日夜、煩悶するばかりだった。そうして痩せ衰えていくのだった。
* * *
表の格子ががらりと開いた。
ばね仕掛けのように飛び上がった艶子は、無意識に縺毛を掻き上げながら耳を澄ました。
「ごめんください」
はっきりした男の声である。家はしーんとしている。小母さんは用たしに出かけたらしい。
艶子は襖を開けて、そっと表を覗いた。
「艶子さんですか」
目ざとく見つけた男は声をかけた。聰明な顔に皮肉な笑みを浮かべた穏やかな男である。
艶子は仕方なしに玄関に出て、きっぱりした声で相手を睨みつけながら言った。
「どなたですか、新聞社の方ならお断りします」
艶子の見幕にちょっとたじろいだようだったが、すぐにこにこしながら男は言った。
「新聞社じゃありません。小説家です。長谷川です」
「長谷川さん?」
艶子は探偵小説家の長谷川の名は知っていた。けれども、来意を察することができないので、
「どういうご用なんでしょう」
少し語勢を和らげながら訊いた。
「なに、べつにたいした用じゃありませんよ。わたしたちはいつでも材料を探しまわつているので、この間のことで何か参考になるようなお話が伺いたいと思って出てきたんですよ」
「でもわたし、なんにもお話しすることはございませんもの」
相手の人懐っこい穏やかな調子にいくぶん安心しながらも、まだ油断しないのだった。
「なんでもいいんですよ。あなたがたがつまらないとお思いのことでも、案外面白く役に立つことがあるんです。お差し支えなかったらお話しくださいな」
「差し支えはありませんけど――」
「じゃお話しくださいな。ぜひ」
「どんなことですの?」
「どんなことでもいいのです」
「それじゃお話しできませんわ。どういうことっておっしゃってください」
「困りますね」
「わたしだって困ります」
長谷川はいつの間にか玄関に腰をかけていた。艶子もその前に坐り込んでいた。
「じゃ、訊きましょう。社長さんがあんな死に方をしてずいぶん気味が悪いでしょう」
「ええ」
「夜、よく寝られますか」
長谷川は艶子の瞼を見上げた。艶子は慌てて顔を外らしてどぎまぎしながら、
「寝られ――ませんわ」
「そうですか。じゃ、夢を見るでしょう」
「ええ、見ます」
「どんな夢を見ますか」
「どんな夢?」
相手の心を量りかねて、艶子はじっと長谷川を見つめた。
「ええ」
相手は平然としている。
「いつの夢ですか」
「いつのでもいいのです」
「それを訊いてなんになさるの」
「夢の話はね、創作のいい刺激になるのですよ」
「…………」
艶子は黙して答えなかった。彼女はこのごろ夢を見つづけている。悩ましい奇怪な夢ばかりを見つづけている。今朝の夢はとりわけ奇怪なものだった。彼女はいまでもまざまざと覚えている。
彼女は暗い、穴のような廊下をずんずん下りていった。廊下の突き当たりに狭苦しい、小さな寺の本堂を思わすような部屋があった。護摩壇に盛んに煙が上って、陰気臭いにおいが鼻をぷーんと打つ。一隅に太い蝋燭がゆらめいていた。その下に黒い影が蠢いているので、見るとそれは若い女だった。白い肌をあらわに後ろ手に縛し上げられて、蝦のように二重になってかがんでいるのだ。背中に立てられた蝋燭がゆらめくたびにぽたぽたと蝋涙を垂らして、それが醜い瘡蓋のように肌にこびりついていた。女は苦しそうな息を吐きながら、ときどき頬肉をぴくりぴくり動かした。あまりの怖さに目をそらすと、正面に壇があって、そこには気味の悪い仏像がにたにた笑いながら立っていた。艶子はぶるぶる震えていた。
いつの間に来たのか、案内人が傍に来て、彼女の耳もとで囁いた。
「あれが恋を破った女です。恋を破った女はああいう責め苦を受けるのですよ」
彼女は黙ってうなずくほかなんにもできなかった。彼女はふたたび暗い穴のような廊下を案内人と一緒にとぼとぼ歩いていた。案内人は野田のようでもあり、そうでもないようでもあった。
彼女はしばらくためらったすえ、この夢をぽつりぽつり長谷川に話した。
「面白い夢ですな」
こう言って長谷川はじっと考えていたが、
「艶子さん、隠さずに言ってくれませんか。あなたは社長さんの死について何かご存じでしょう。それで、良心が咎めていらっしゃるでしょう。わたしは探偵でも記者でもありませんから、秘密はきっと守りますよ。ね、おっしゃってください」
眉一つ動かさず、不気味な面のような顔をしていた艶子は、ぱっとつっ伏すと激しくすすり泣きを始めた。