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道教は支那に於て儒教と佛教と共に鼎立の勢を爲してゐる一大教系であり、其分派も少からず、又其教義も少しづゝの異を有して居り、草率に其の如何なるものであるかを説き、且つ之を評論することは、もとより不可能の事に屬する。儒教は歴史的にも教義的にも、むしろ平明なものであり、且又世間教に屬するもので、假令其の淵源たる時代即ち殷周の頃には數上帝を稱し、神鬼に事ふることを重んじたことを認めしむるとは云へ、他の所謂宗教なるものの、超世間的世界を有し、超人的教權者の存在を高調して、そしてそれに因依して教威を立てゝ世に臨むのとは大に異なつてゐる。そこで支那を掩葢するところの宗教らしい宗教は、佛教と道教とで、其他には清眞教等の微勢力のものが存するのみである。道教は支那に起り、支那に發達し、僅に朝鮮日本に多少の影響を貽つたに過ぎないで今に至り、しかも其教の精神からして世界に衝動を與へたといふほどの事も無くて濟んでゐるから、これに注意するものもおのづから少くて、今日の世界の智識の倉庫たる觀ある大英百科事彙を開いてみても、タオイズムの條の記事の貧弱さは人をして西人の東方に關する智識はかゝるものかと驚かしむるほどである。しかし道教の勢力は支那に於て決して輕視すべきものでは無くて、其人民の間に於ける一般道徳・信仰・情操等の或部分を爲してゐるものであることは、其歴史、其文學、其美術等に徴して分明なことである。支那士女の實状を反映するところの小説戲曲の類を試みに瞥見したら、何人も隨處に道教の色彩と香氣とが現はれ漾うてゐることを認めるだらう。あらず、道教の色彩香氣の無いものを見出すことが却て難事であることを認めるであらう。又支那の高等文學たる、士君子を反映してゐる詩の世界に於ても、例へば最も輝いたる唐の時代に於て杜甫に儒教精神を見出すに比して、李白に道教香氣を見出すが如く、餘りに古い時代を除いては、何時の代の詩にも道教香氣を見出すであらう。道教は實に支那に於て根も深く枝も繁つてゐるものである。
しかし道教の源委流傳の状を記したものなどは甚だ乏しい。これは支那の文權を握つてゐる士人連が、昔から宗教には餘り取合はなくて、歴代の歴史にも佛教に關することなど餘り記載せぬ習慣になつてゐる、それと同樣な譯柄からであらう。で、隨つて我邦でも道教に關しては大略的の智識を有してゐる人も多くは無いやうに見えて、從來道教に就いての評論などは餘り耳にせぬ。一つは我邦に取つて道教の影響が稀薄であつた故でもあらう。
扨道教に就いて聊か語らう。しかし先づことわつて置くが、自分は道教の信仰者でも禮讃者でも同情者でも何でもない、淡然たる心をもつて道教に對してゐる。たとへば路上に於て一塊の石を眼にして、何の氣もなく、望むところもなく、これに對してゐる、それと同じ態度であるといふことである。
道教は何樣して興つたらう。これに對しての答の仕樣はいろ/\有らう。其物を生じた時代の環境に其物の生じた因を求める、――即ち外的に之を求めるので、手近に云へば、他國より佛教が渡來して漸くに勢を得るのを見て、自國にもそれに摸倣して、そして自國的の色彩の多いものを釀し出さんとする希望が生じ、それから遂に從來は無かつたところの形式のものを出すに至つたとするのである。又他の一は自體に其物の生じた因を求める、――即ち内的に之を求めるので、本來存在してゐた或物が、自然に發達して、そして遂に或形式のものを出すに至つたとするのである、大乘佛教が原始佛教から開展した如くに、元來然樣なるべきものが存在してゐて然樣なつたとするのである。これは那方にも道理づけられることであつて、常に其圈内の人からは後の答が發せられ、其圈外の人からは前の答が發せられがちである。道教圈内の人からは、無論に道教なるものは初から支那に其根柢・種子を有してゐて、そして時代によつて敷花成實したものと答へられるに定まつてゐる。宗教はいつも超人的超世間的の神秘的靈威的のものを背景とするのであるから、從つて超歴史的に自己の宗教の起因を基礎づけるのも常のことであるからである。然し其答が果して眞實であるか否かは、事實が之を語るべきのみであつて、其宗教の理屈が直ちに眞實であるとは認められなくても是非無いことである。道教の塲合は如何であらう。我は内的からのみでなく、外的からも之を檢討して、そして其眞實を把握せねばならぬのである。
道教が道家及び神僊に因縁してゐるものであることは爭はれぬ明著の事實である。しかし先づ道教が如何なるものであるかを平明に看取して、そして次に道家・神僊家が如何なるものであるかをも平明に看取して、さて三者の與ふる概念を比較して見るときは、そこに道教成立の情状をば、無批判にせよ自然批判的に解知し得る譯であらう。
道經の説く所によると、一切は一より生じ、一が分れて三元と爲り、三元が三氣になり、三氣が三才を生じ、それから萬物が備はるといふのである。三元とは第一混洞太無元、第二赤混太無元、第三冥寂玄通元である。混洞太無元から天寳君を化生し、赤混太無元から靈寳君を化生し、冥寂玄通元から神寳君を化生した。此三君の居るところを三清とも三天ともいひ、玉清境即ち清微天に天寳君が居り、上清境即ち禹餘天に靈寳君が在り、太清境即ち大赤天に神寳君が居り、三君各教主と爲りてゐるが、九天生神章經によれば三位一體で、三號殊なりと雖も本同一也とあるから、一原三色、玉清の氣は青、上清の氣は黄、太清の氣は玄白といふまでである。そして此の三君が即ち三洞の尊神で、道教に三清といつて三體の本尊とするのは是である。三洞といふのは洞眞・洞元・洞神の三であり、この三洞の部分けが教經の目となつて、洞眞部、洞元部、洞神部の名目があり、洞眞部は大乘、洞元部は中乘、洞神部は小乘といふのである。さて教により果を得て人間以上になるのを、下位から數へて六段階がまだ欲界、其上の十八段階位が色界、其上の四階位が無色界、合せて二十八天界は、苦惱は無く歡樂はあれども、まだ生死を免れない階級で、無色界の上の四階位は種民天といふ、種民天になれば生死三災の及ぶ能はざるところである。種民天の四ツの上が三境と云つて、太上老君天師太清境、九仙上清境、九眞玉清境、いづれも善美の世界であり、又其上の最上世界が即ち大羅天で、其中に過去元始天尊、見在太上玉皇天尊、未來金闕玉晨天尊が居たまふのである。洞眞部は元始天尊より出たもの、洞元部は太上道君より出で、洞神部は太上老君より出たものであるとされてゐる。元始天尊は佛教で云へば佛である、十號具足である、自然である、無極である、大道である、至眞である、太上である、道君である、高皇である、天尊である、玉帝である、陛下である。耶蘇教で云へば、無極であり大道であり自然である元始天尊は即ち神である。
若し詳説すれば、道教も何にせよ漢末から今に至る長い年月を經て來てゐるものであるから、其中には變遷もあり開展もあり、又各派の主張もあるしするから、中之を明白に筋道立てゝ述べることは容易でないが、概略は前述の如きものと見做して大過は無いのである。
そこで局外者から一應の觀察を下して見ると、元始天尊は自然なのであるとするから、其思想は支那に上古から存在したに疑ひないが、自然を人格化して神人の如きものとなし、元始天尊といふ名目を付したのは、何時頃から起つたことか、甚だ明瞭でない。元始天尊は靈寳無量度人上品妙經六十一卷にあらはれて來るもので、龍漢の初、天地始めて分れた時に、天尊が此經を撰したとある。そしてそれは玉晨道君に授けられたとある。それで同經の各章の首に、道言云とある道は、道徳の道でもなく、固有名詞の「道」といふものの如くに見え、上陽子の同經の註には、道君經義を演説して直ちに道言ふと曰ふとあり、陳椿榮の註には、上清玉晨大道君靈寳天尊の言也、道君經を序す、故に道言ふを以て首と爲すとある。道君は乃ち元始天尊の弟子で、太微天帝君の師である。それはそれで宜いとして、若し道教の密義から云へば、元始天尊は道法の宗主であつて、そして元は自己の元神、一身の主であるのである。即ち本文字通りに讀去れば、元始天尊といふ神の如きものが有り、其の道を受けた玉晨大道君といふものが有つて、恰も釋迦佛に總持第一の阿難尊者が有つて如是我聞の一語が經首に加へられた如き觀を爲してゐるのである。そして又元始天尊は虚皇の應號である、佛教で云へば應身である、で、洞神經には、妙象は形無し、應感は體有り、眞精の氣、化して姿容を成すと説いてある。宗教といふものは、何處のも何時のも、端的に暴露すれば大抵かういふところを根に有つてゐるものだが、道言の二字を以て度人妙經のはじまつてゐるのは巧妙である。そして老子に、物有りて混成し、天地に先だちて生ず、之を字して道といふ、とある其道をもつて來て、夫れ道は本は言無し、言を假りて以て道の用を顯はす、世法を以て釋すれば則ち道君經義を演説するを直ちに道言ふと曰ふ、と玄義を俗釋に兼ねて説いてゐるのなぞ、中に巧いものだ。が、局外者は感心してばかりは居られない、元始天尊や玉晨道君や度人妙經の此の世に現はれた筋道を遂窮すると、元始から玉晨、玉晨から玄一眞人に授け、玄一が天眞皇人に授け、皇人が之を秘藏してゐると、軒轅氏の時に、皇人と太清の三仙と峨媚山に會したに際して、黄帝が再拜して道を求めたので、皇人が授くるに五牙三一の文と度人經上卷とを以てした。黄帝は之を修して仙となつた。後に帝が牧徳臺に於て皇人から本章玉歴章を授けられた。西漢の元封の間に、西王母が上卷并に二章を武帝に授けたので始めて全經を成した。東漢の時、太上が降つて于吉に授け、靈書上篇并に太平經一百五十卷を増した。桓帝の時に老君が蜀に降つて天師(張道陵)に度人、北斗、諸經録千餘卷を授けた。呉の時に太極眞人が會稽の上虞山に於て太極左宮仙翁葛玄に度人經を授け、靈書中篇を増した。鄭眞人思遠が抱朴子葛洪に經本を授け、又靈書上下篇太極眞人の後序を増した。即ち今の全本である。晋の王纂が道君に遇ひて、此經及び諸經數十卷を賜はり、元魏の時に寇謙之が嵩山に居りて修行し、太上を感ぜしめて此經并に餘經六十餘卷を授かつた。それから世に流布して、政和の天子の註、齊の嚴東啓、唐の薛幽棲、李少微、成玄英の註、寳慶の初に蕭觀復の内義等が出來るに及んだ、といふのが陳觀吾の言である。此の由來記の中には信ぜられることと信じ難いこととが錯雜してゐる。漢の武帝の時に始めて全經を成すとあるが、其前のことは無論荒唐で考へるべきところも無く、武帝の時にかゝるものが出たらうとも思へぬのは、本經の文氣が全く西漢の古色を帶びてゐないのでも、少し文章の氣味を解する者の心づくことであらう。張道陵や葛仙翁は道教の大立物であるが、それらより後の葛洪は著述の多い、文藻に長けた、博識の人であるのに、其の著の抱朴子や金※經等に、元始天尊の思想の影響も度人妙經の記事の影響も見出し難いのは、度人妙經が然云はれてゐるに關はらず、葛洪の眼には入つてゐなかつたやうに考へられてならない。さすれば寇謙之あたりから出たものであらうことは、隨分謙退の態度を取つて推察したところでもの結果である。度人妙經は甚だ多く天を説いてゐる。天は妙果を得たものの居るところの勝境である。抱朴子は餘り多くそんな事を説いてゐない。抱朴子は道を尊んでゐる、天尊を尊んでゐるのではない。抱朴子は神仙にあこがれてゐる。然し度人妙經の仙、佛教中の天人のやうなものにあこがれてゐるのではない。抱朴子には符を記してゐる、度人妙經にも符が示されてゐる。然し抱朴子の符は恐らくは後人の添へたものであらうと考へられ、且又其符も同じくはない。護符の信仰が葛洪にもあつたとして見て、そして度人妙經をも見たものとすれば、少くとも度人妙經の符を信用すべきである。抱朴子が鄭思遠から道を傳へられたことは實だが、思遠から度人妙經靈書上下篇を受けたらしい證は何處にも見出せぬ。して見れば、度人妙經が却つて抱朴子を假りて其金箔にしたことは明らかで、其經に見えるやうな思想や感情は、まだ抱朴子の時には無かつたとしか思はれぬ。葛洪の時に無かつたらしいものが、張道陵や于吉の時に有つたらしいとは思はれぬ。于吉に就いては抱朴子は言及してゐる。于吉の書は殘闕してゐるし、且眞僞のほども覺束なく、文章も筆者の文藻不足の爲か知れぬが、同時代のものとは大分調子が違ふが、抱朴子の評が相應してゐるところから先づ之を僞書で無いと認めて、さて于吉の書と度人妙經とを照らし考へると、于吉に於ても元始天尊の思想は見出されないで、たゞ漠たる神の如きものが見出されるのみである。かういふことを語つてゐると、談が微細になつて際限が無いから、それは他日ゆつくりした暇のある時のこととして、道教の源頭から語り出さう。