Chapter 1
何の為に山へ登るか。自分は此稿を書こうとして、筆を持ったまま考に耽っていると、不図心の奥でひそやかな声がそう囁いた。
然し自分は今茲にそれを論じようとしていたのでは勿論ない。唯秩父山脈が首都に近い割合に、相当の高さと深さと大さとを有し、麓に一ノ瀬、梓山、栃本などの愛す可き山村を抱いて、二、三泊の旅行ならば、充分に楽しい愉快な山の気分を味わうことが出来るのに、登山者の少ないのはどういう訳だろうと訝しく思っただけである。言わばわが娘に縁談の遠いのを不思議がる親達が「何故だろう」と首を捻るのと似たようなものであろう。
昔の人は信心で山に登った。従って山の大さ高さ深さなどは、別に問う所でない。勿論初めて其山を開いた僧侶とか行者とかは、各自に信仰の芽生えが一度わが信徒の胸に萌え出したならば、益々深く且堅く其根を張るに都合よき条件――森林、瀑布、奇岩、噴湯、火口、火口湖等の如き――を備えているらしい山を選んだものに相違ないことは、言う迄もあるまいが、信条の命ずる儘に黙って向上の道を辿る信徒に取りては、登山そのものの外他に何等の目的が有る可き道理はない。こんな生一本なひたむきの登山は昔の人に限られた特権であった。夫に較べると吾等の登山は頗る複雑になって来た。そして小さい低い浅い山よりも、大きい高い深い山を狙うようになったのは、登山の発展に伴う必然の結果というてよかろう。あの山を平げた若しくは片付けたというような言葉は、どんな意味を語っているか。無事に御山を済せて目出度いと喜んだ昔に較べると、これは馬上の将軍が敵国を征服して、鞍に倚って睥睨する時の態度にもたとえられよう。自分が茲に書こうと思う秩父の奥山は、辛うじて最高二千六百米を超えている許りである。山を征服せんとする血気の荒武者には、それだけで既に物足らぬ感が起るに相違ない。これが秩父山脈に登山者の少ない原因であろうか。然し自分は昔の人のように真面目な山登りをしたいと努力する人の少なからぬことを信じて疑わない者である。
秩父は我国でも古く開けた土地の部に入る可き者で、知々夫国造の創置されたのは、崇神帝の朝にあるといわれている。兎に角秩父の名は和銅開珎と共に世に流布されていたにも拘らず、其山に就ては近頃まで多く知られていなかった。武蔵峰、秩父嵩などの名前が古書に散見するが、勿論これと一峰を指して唱えた名称ではあるまい。夫すら大勢が寄ってたかって、いつの間にやら大宮の南一里に聳立する武甲山の異名にして了った程だ。自分の所謂秩父奥山が、僅に一、二を除くの外、絶えて記載されたことのない山許りであるのも無理はない。『新編武蔵風土記稿』は、武蔵に関する地志の上乗なる者である。それですら総説の部に於ては、纔に武甲、両神、三峰の三山しか挙げてない。秩父郡の条に入って漸く雲採、白岩、大洞等二、三の山名と、十文字峠及雁坂峠の名を知り得るのみである。『甲斐国志』とても武甲国境の山名を記載した数は、決して『武蔵風土記稿』の上に出る者ではない。独り『武蔵通志』(河田羆著、写本)のみは、近時の編述に係る上に、斯学に造詣深き著者が各町村の書上げを綜合して書いた者なので、流石に一頭地を抜いて、各山の記述詳細を極めている。後にも引用の必要があるから、山岳編の中に就て、此稿に関係ある部分だけを抄出することにした。