一
鯉坂嗣三君は生理学者であります。
彼は奇人とよばれることを頗る嫌って居りますけれど、友人たちは、ことごとく彼を奇人だといって居ります。すべて、医学を修めて、「医者」にならない人間には、どこかに変ったところのあるものですが、とりわけ、生理学を専攻する者の中には、ちょいちょい人間ばなれのした人があって、わが鯉坂君も、どちらかというと、その人間ばなれのした部類に属して居るのであります。
そもそも、学問を飯の種にするということは、本来誤った考えでありますけれど、学者だとて人間である以上食わずに生きて居ることは出来ません。ですから、大学を出て生理学を専攻する人は、二三年の後、それぞれ地位を求めて職に就くのが普通であります。ところが、わが鯉坂君は、真に学問を楽しむだけでありまして、大学を出てから生理学教室に入り、爾来数年を経過して、その間に主任教授から、地方の大学のよい地位を周旋されたことが二三度ありましたけれど、決して動こうとはしませんでした。尤も鯉坂君には係累というものがなく、親譲りの財産があって、食って行くには少しも差支ありませんでしたから、落ちついて生理学の研究に従事することが出来たのであります。
学問をするものは妻子があってはならない、というのが鯉坂君の持論です。これまで友人たちが何故かといってきいても、彼は決してその理由を説明しませんでした。総じて無妻主義というものは、思想上から起るのは稀であって、多くは生理的の欠陥とか、経済上の都合とかで起るものでありますから、鹿爪らしく説明するのは野暮なことであるかも知れません。ことに鯉坂君のごときは、研究に興が乗ると、昼夜の別なく熱中するのですから、細君が若しあったとしたら、随分迷惑をするにちがいありません。鯉坂君の無妻主義も、恐らくそうしたプラクチカルな理由から生れたのであろうと、思われます。
学問をするものは、いう迄もなく頭脳が明晰でなくてはなりません。ところが鯉坂君の頭脳は、明晰という言葉で形容するには、あまりにも複雑して居るように思われます。然らばどんな風に複雑して居るかといわれると一寸返答に困りますが一口に言うと、鯉坂君の頭は、融通がききかねるのであります。といって決して頭が悪いのではありません。彼は頗る懐疑的であると同時に、その趣味も相当に広いのであります。懐疑的な頭はいう迄もなく独創的でありまして、これ迄、鯉坂君は随分色々な研究を企てたのであります。又、一つの学問に従事するものは、兎角、他の学問を顧みないものですが、彼は犯罪学に興味を持ち、時には犯罪探偵法の革命を企てようかと考えたこともありました。
ところが、鯉坂君が、跡から跡から思いついて着手した研究は、未完成に終るものが少くありませんでした。これが即ち、彼の頭の複雑な点なので、彼にとっては頗る気の毒な点でもあります。然し彼は決して、自分では気の毒だとも何とも思いません。そのうちには、凡ての研究は完成するだろうと、深く信じて居るのであります。
抽象的な説明だけでは、読者も十分おわかりにならないであろうから、これから一つ二つ例をあげて申しましょう。
先ず鯉坂君が如何に懐疑的であるかを例を以て説明しますならば、彼は、外国で行われた実験報告は、それがどんなすぐれた学者の報告であっても、決してそのまま信じないのであります。学者である以上、その態度は誠に立派なもので、悉く書を信ぜば書無きに如かずといった孟子の雄々しさを髣髴させるのであります。ところが鯉坂君の懐疑的態度は、実験の結果そのものに対して執られるのでなくて、彼はまったく妙なところに疑いをいだくのであります。即ち、若しその実験が蛙を用いて行われてあるとすると、これは西洋の蛙での実験であるから、日本の蛙にはあてはまらないかも知れないというのであります。西洋の蛙でも、日本の蛙でも、そんなに大ちがいはなかろうと思われるのに、鯉坂君は、どうしても承知が出来ないのであります。で、興味があると思われる実験は、一々、日本の動物をもって追試を行い、はじめて納得をするのであります。
次に鯉坂君がどんな研究題目を選ぶかを例をもって説明しますならば、彼は嘗て、人間の身体を流れて居る赤血球の目方をはかることを企てました。しかも、一立方ミリメートルの中に約五百万もあろうという赤血球の一粒一粒の目方を計ろうというのですから、中々困難なことであります。普通の人ならば例えば血液の一立方センチメートルの目方をはかり、それから、血漿と血球との割合を計算し、それによって血球一個の目方を算出するのですが、鯉坂君は、そういう方法では満足出来ないのであります。即ち、何とかして、赤血球の一粒一粒を取り出して、それを秤にかけてその目方をはかり度いと思ったのであります。鯉坂君に言わせると、血球の一つ一つの寸法は、顕微鏡下で正確にはかることが出来るのであるから、その重量もはかり得べき筈であるというのであります。このことについて鯉坂君は、随分長い間、その頭脳をしぼって工夫に工夫をかさねましたが、とうとうその研究は未完成に終りました。
一たい赤血球の一粒一粒の目方をはかって、それが学問上どんな意義があるかと、読者諸君も定めし不審をいだかれるでありましょう。然し、鯉坂君は、学問は「学問のための学問」であっても決して差支ないという主義を持って居りますから、鯉坂君にたずねても、赤血球の目方を量ることの意義などは説明してくれないと思います。
嘗て彼は、立小便の際の小便の描く曲線を研究し、双曲線であったか抛物線であったか、とにかく、数学的に立派に研究をしとげましたが、そのときも小便の曲線を研究することが、学問上どんな意義があるかということを決して説明はしませんでした。小便の曲線を研究するということそれ自身に鯉坂君は満足したのであります。
ある時はまた、涙の頬を伝って流れ落ちる速度を研究し、立派にその研究を仕上げました。そうして、女子の涙が頬を伝う速度は、男子のそれよりも大きく、従って女子の涙は、男子の涙よりも粘稠度が少いというような結論に到達したのであります。尤も、女子が白粉をつけて居るときには、速度は少くなり、而もそれは一定の係数を乗ずればよいのであって、その係数が、「御園おしろい」と、「クラブ白粉」とではそれぞれちがうといったような微細に亘る研究でした。言う迄もなく、この種の研究は頬の上のうぶ毛の関係、脂肪の多少等にも綿密な注意を払わねばなりませんが、鯉坂君の頭脳は、いわば痒いところへ手の届くように、それ等の研究を纏め得たのであります。
かくの如く、鯉坂君の選んだ研究題目は、未完成に終るものと、完成されるものとの二種類に分られましたが、いずれにしても、鯉坂君の着想は頗る奇なるものがあります。奇抜な着想といっても、鯉坂君のは、例えば、犬の首と人間の首とをつなぎ替えるとか、蛙の眼球と蛇の眼球とを交換するといったような突飛なものではなく、大ていは出来得そうな範囲のものでして、要するにその頭脳はプラクチカルに出来て居るといってよいかも知れません。
これからお話ししようとする「新案探偵法」なるものも、畢竟彼のこのプラクチカルの頭脳から割り出されたものなのであります。