一
「あれ誰だか、兄さんは知つとるの!」
「知らん!」
「ちよつとそこ覗いて来ると分るわ。」
小学校から帰つて来た兄と妹である。部屋一つ隔てた奥の座敷を、兄の孝一は気味わるさうにそつと覗きに行つた。
「分つた?」
賢こい眼を輝かせて、みよ子は微笑した。
「うゝん。」
孝一は頭を振つた。
「をかしな兄さん、恍けとるのね、」
「………………」
可愛い下り眼の兄の表情がくもつて、返事をしない。
「あんまりびつくりして、眼が廻つたの! 顔色がわるいわ。」
妹の自分にさへ分つてをるのに、兄に分らぬ筈があらうか……とみよ子はなほも微笑をつゞけてゐる。この四五日のざわ/\とした家の様子で、兄妹とも窃に「父の帰宅」を感づいてゐたのだが、然し、誰も子供たちにそれを話してくれなかつたのである。
「あれ、私たちのお父さんぢやないの、変な兄さんね、もう一遍見てくるといゝわ。」
臆病さうな兄を見上げて、みよ子は自分の嬉しさを一杯に現はしてゐる。
「あれがお父さん? そうかなあ。」
孝一はだん/\と青ざめて来た。
「さうよ、兄さんちつとも覚えてゐないの? 私は少しおぼえてるわ。だけれど、あんまりおぢいさんになつてちよつと分らないわね、頭がずゐぶん白いんだもの…………」
「ふゝむ、おら、見たくないなあ、いやだなあ。」
孝一の唇がピリ/\つと痙攣した。
「でも、お父さんに違ひないんだもの、さつきお母あさんがさう云つたのよ、早く見てくるといゝわ。そしたら少し思ひ出せるかも知れないわ。」
「いやだい、おら、いやだい、お父さんが家へ帰つて来たんなら、おら、いやだい、明日から学校へ行かれん、あゝ、いやだ/\。」
机の上にぴたつと額をつけた。
「どうして学校へ行かれんの? ねえ、兄さん!」
「おら恥かしうて迚も学校へ行かれん、お父さんなんか、家にゐてくれん方がずつといゝんだ、明日学校へ行つてみい、みんなに顔ながめられたり、くしや/\云はれたりするんだもの、あゝ、いやだ/\。」
兄はたまらないやうにいふのだつた。
「だつて、お父さんが家にをらんのより、をつた方がいゝんぢやないの? もう家へ帰つて来てくれたんだからいゝぢやないの?」
「おら、いやだ、明日学校へ行かうもんなら、今まで忘れてゐたことを思ひ出して、みんなに私語かれるんだ、それがたまるけえ、おら、もう学校へ行かん、行かん!」
頭をかゝへて、孝一は悲しげに呟くのだつた。
「私だつて、兄さんと同じにしよつちゆ友達からバカにされて泣いて来たわ、だけれど、そのお父さんがもう家へ帰つて来てくれたんだから、いゝと思ふわ。」
「さうかい、みよ子はまだ子供だからね、分らないんだよ、おら、いやだなあ、あゝ、どうしようかな。」
ぞく/\と悪寒をかんじてゐるらしい兄を見ると、みよ子も一しよに悲しくなつた。
「英ちやんこそ、まだ子供だから、なんにも分らないで一番いゝわね。」
「うむ、あいつ、なんにも知らんなあ、今に大きくなつて、おやぢの過去を知つたらおつ魂げるだらう…………」
梅の木によぢ登つて、青い実をむしつてはたべてゐる六歳の弟を、兄妹は部屋の中から幼ない感傷の眼で、憐れげに眺めた。
「今、奥から私たちを呼びに来たら、兄さん、どうするの?」
「おら、行かんさ。」
「でも、ぜひ来いと云はれたら…………」
「行かんよ。」
「さうお、私も行くのいやだわ。」
「二人とも行かんことにしよう。そして、どつかへ隠れてしまはう!」
「それがいゝわ、土蔵へ入つて隠れませうか?」
「うむ、それがいゝ、早く隠れてしまはう!」
こそ/\と兄妹は部屋を出た。土蔵へ通ふ道から、奥の座敷は見えない。ブランコの丸太が立つてゐたり、梅の木、桃の木、杏の木、など果物の大木が何本も茂つてゐるし、それに奥の座敷と、土蔵の入口とは向きが違つてゐる。
今朝早く、まだ空に星がチカ/\残つてゐた暁方のこと、母が宵から支度してあつた男の着物一切を――シヤツから褌から、じゆばん、角帯、羽織、帽子、足袋、下駄、手拭、鼻紙にいたるまで、何から何まで揃へて、丸で裸体の人でも引取りに行くやうに、大風呂敷に包み、年老いた祖母と二人で、こつそり人目を忍び、家を出て行つたのである。夜がすつかり明け渡つて、子供たちも起きて、やがて兄弟は小学校へ行き、午すぎ帰つてくると、常盤木に囲まれた薄暗い奥の座敷に、見慣れぬ一人の男が端然と坐り、痛ましく窶れた頬をしてゐる気むづかしい祖父の前に、両手をついておじきをしてゐる姿を、みよ子はちらと見たのである。
「お父さんぢやぞえ。」
襖のかげに彳んで、袖口で眼をふいてゐた母が、思ひ迫つたやうにみよ子に囁いた。みよ子はなぜかぞつとしてふるへた。
あれがお父さん……あれが私たちのお父さん! 久しく待つともなく憧れてゐたお父さん! 幼いころの記憶がうすれて、今では丸で他人のやうな気がするお父さん!
彼女はわく/\と胸が躍つた。恥かしい、きまりが悪い、懐かしいやうでもあり疎ましくもあり、自分たちとはなんの係りもないよそのおぢさんのやうでもある――そんな見慣れぬ親しみのない客からは、なるだけ遠ざかつてゐたい。…………
「あんな白毛のおやぢがお父さんだなんて、いやだな。」
長いあひだ見失つてゐた父の幻が記憶の底から、ほんの少しづゝ朦朧と浮んだ。父として甘へたい思慕の情は、自分たちにちつともはつきりしない父の不在の理由から、いつも不純なものに対する絶望的な嫌悪が生れ、それが又我父ゆゑにこそ、悲しくも憐愍の情にもつれては、この年月彼女らの胸に去来してゐたその父である。あゝ、父はなんといふ久しぶりでこの家に戻つて来たのであらうか! それにしても、なぜ母たちは前々から今日のことを子供たちにきかせてはくれなかつたのであらうか? さういへば、「父」といふものについて、自分たちはなんにもきかされてゐない、ふいと父が家にゐなくなつた、その日から今日まで「父」について語ることは全く封じられてゐた。そして幾年かの月日が流れて行つたのである…………