1
下谷の竜泉寺町という町の名は、直接その土地に馴染のない人にも、まんざら親しみのないものでもなかろう。浅草の観音さまにも遠くはないし、吉原遊廓は目と鼻のさきだし、お酉さまはここが本家である。若しもその人が小説好きであるならば、「たけくらべ」にゆかりのあるこの町を、懐かしくも思うであろう。だいぶまえのことであるが、一葉の記念碑がその住居の跡に建てられて、電車通りにある西徳寺で、故人を偲ぶ講演会が催されたことがあった。馬場孤蝶、菊池寛、長谷川時雨の三人が来て話をした。故人と昵懇であった孤蝶老が、往時一葉が子供相手に営んでいた一文菓子屋のことを、「如何にも小商売」と云った口前を、私はいまなお覚えている。私はまたそのとき初めて菊池寛の風貌をまのあたりにした。時雨女史が自分のことを「私のようなしがない者が」というような謙遜な言葉づかいをしたとき、私の隣りに腰かけていた若い女性が「まあ、いやな先生。」という嘆声をもらした。時雨女史の知合いであったのだろう。みなむかしの夢である。昭和二十年の三月十日に空襲に遭って、この町も無くなってしまった。吉原土手のへりにわずかに一郭焼け残っているに過ぎない。焼け跡にもだいぶ新しい家が建ったようではあるが、住む人の顔が往時と変っているのを見るのは、懐かしさを削がれるようで、いやなものである。
私は昭和十二年の夏に、竜泉寺町の茶屋町通りにあるY新聞店の配達になった。そして二十年の三月十日に焼け出されるまでここにいた。もっとも終りの三年間は徴用されて、三河島の日本建鉄工業株式会社に通っていた。私はまる五年というものを、一つ土地で新聞配達をして過ごしたわけである。二十七歳から三十二歳の間のことである。こともなく過ごしてしまったようではあるが、顧みると、私の半生のアルト・ハイデルベルヒはこの間にあるように思われる。ある若い詩人の「町」という詩にこんなのがある。
小さな町であった
それでも町の匂いがした
煤煙が流れていた
おしろいの匂いがした
私は自分が新聞配達として五年間の朝夕を送った竜泉寺町とその界隈の思い出を、そこに住んでいた人たちのことを綴ろうと思う。おそらく私にふさわしい青春回顧の仕方であろう。知らない人は意外に思うであろうが、購読者と配達の間柄は存外親しみに溢れたものなのである。殊に下町では。それもごみごみした処では一層。たとえば山の手などでは、門口にとりつけた郵便箱などに新聞を入れてくるだけの話なので、一年配達しても二年配達しても、その家の主人がどんな顔をしているのか知らないというような場合もあり得る。つまり水臭いわけである。ところがこれが下町になると、それも竜泉寺界隈のような処だと、みせやが多いし、またしもたやでもがらっと門口をあけると一目で家内中が見渡されるような家がざらなので、毎日のことではあるし、自然親しい口をききあうようになるのである。私たち配達もやはり普通の商人のように自分の購読者のことをお得意と呼んでいた。昔の小学校の読本に確かこんな文章があった。「米屋の隣りは魚屋です。魚屋の隣りは八百屋です。その角を右に曲ると、呉服屋があります。」私もこの調子で、かたっぱしから自分のお得意を読者に紹介しよう。配達は各自順路帳というものを持っている。自分の配達区域のお得意の名前を、配達して行く順序に従って記録した帳面である。私はいま古いアルバムの頁でも繰るように、記憶の中にある順路帳を一枚一枚めくって行こうと思う。そんなことをしていたら夜が明けてしまうではないかと危ぶむ人もあるであろうが、世には千夜一夜という物語もあることだし、語り尽くせぬところはまた明晩のお楽しみということにして、懐旧の情の赴くままにわがままに筆を運ぶつもりであるから、読者も我慢強い王様にでもなった気で、私の安逸を咎められることがなければ、しあわせである。
東京都下谷区竜泉寺町三百三十七番地。ここが私のいたY新聞店のある処である。まず都電を竜泉寺町という停留場で下車する。ここを通る電車は東京駅―三の輪間を往復している。竜泉寺町の次は終点の三の輪で、てまえは千束町である。停留場のすぐわきに線路を跨いで東西に通りがある。両側には店舗が軒をつらねていて賑やかな通りである。電車道を境にして東側にあるのが、俗に云う茶屋町通りで、この通りは一町ほどで京町一丁目、揚屋町、江戸町一丁目などという吉原遊廓の非常門のある、末は吉原土手に突きあたる通りにつながっている。西側にある通りは二町ばかりの長さで、三の輪から遠く日本橋の方にまで走っている昭和通りの名のある改正道路にとどいている。茶屋町通りの電車道に面する両角は、右は瀬戸物屋左は荒物屋で、共に角店らしい大きな店である。私はこの二軒の店のことはよく知らない。というのが、ここは私の配達区域ではないからだ。いわば他人のお得意である。でも一寸その印象を書きとめて置きたい。二軒共にこの土地では旧いようで、店の構えも立派であったが、また相応に繁昌していたのかも知れないが、いい店だという感じに欠けていた。つまり活気や明るさがなかった。老舗などにはよくあるやつではなかろうか。主人からしてあまり商売に身を入れていない感じなのである。瀬戸物屋とは私はいちど交渉があった。私は配達になった年の暮に、この店で蓋物を八拾箇ほど求めて、お得意に配った。私はべつにそんなつもりでもなかったのであるが、なかには「新聞やさんから歳暮をもらったのは初めてだ。」と云う人もあった。また「梅干や佃煮を入れるのに丁度いい。」と云って喜んでくれたおかみさんもあった。自弁で読者奉仕をしたわけであるが、私としてはその月麻雀に夢中になっていて勧誘のしごとを怠っていたので、店への申しわけと自分の気やすめのためにしたまでのことである。この代金はしめて七円あまりであった。日華のいくさはようやく酣であったけれど、まだまだ物価の安い時勢であった。私はその時この瀬戸物屋の主人から渋い印象を受けた。小肥りな体格で、働き盛りの年輩であるが、どこやらくすんだ感じで、にべもない表情をしていた。荒物屋でも買物をしたことがあるが、店番をしていた小女は眠そうな顔をしていて、手の甲に皹をきらしていた。私はなんとなくこの家の主人は慳貪なのではなかろうかと想像した。
茶屋町通りを、この荒物屋の側に沿ってすこし行くと、同業のN新聞の店があった。二間間口で硝子戸がはまっている普通の新聞店の構えである。私たちY新聞の商売敵であった。当時下町ではY紙の勢力が圧倒的で、N紙がこれに次ぎ、A紙となるとぐっと読者数が落ちて物の数ではなかった。A紙の読者層は山の手に多かった。竜泉寺町のN新聞は商売敵としては手剛い相手であった。読者数は私たちの方が倍からあったが、区域の広さなどを考慮すると、相当食い込まれていた。私たちは常に相手の押してくる力を感じないわけにはいかなかった。N新聞店からすこし行くと、原田という牛肉屋があった。この店は一見してその繁昌していることがわかった。古川ロッパに似た体格のいい若主人がいた。いつも店に顔を出していて、割烹着姿で肉切り庖丁を握っていたり、また惣菜用のカツレツやコロッケを揚げていたりしていた。時分どきには店さきにおかみさん連が屯していて、若主人の響のいい声が外まできこえてきた。その隣りは藤田という医院であったが、この医院の表に一葉の記念碑があった。むかし一葉が子供相手に一文菓子などをあきなっていた住居の跡は、だいたいこの見当であろうという土地の古老の記憶にもとづいて、ここに建てられたのである。医院の窓下には半坪ほどの体裁ばかりの庭が囲ってあって、碑はそこに在った。碑の傍には恰好な樹木が植えてあったが、私はそれがなんの樹であったか、覚えていない。碑面には、かつて一葉がこのところに住んで「たけくらべ」を書き、いま町民が故人の徳を慕ってこの碑を建てた、一葉の霊も来り遊ぶであろうという意味の菊池寛の文章が小島政二郎氏の筆蹟で刻まれてあった。この碑は勿論空襲の際に破壊されたと思う。藤田医院には土地柄廓の妓たちなども診察を受けにきていた。私はここの先生の顔は知らなかったが、私が懇意にしていた電車通りに古本屋を開業していた飯田さんの話によると、絵が好きで時々飯田さんの店に絵の本を漁りに来るということであった。そう年寄りの先生ではあるまい。
藤田医院の隣りは染物屋で、その隣りは森という煙草屋を兼業している文房具店であった。この文房具店にはチョビ髯を生やしたキョロリとした眼つきの親爺がいた。いま思うと如何にもひょうろくだまな顔つきをしていた。この親爺と私の間にはつまらないトラブルがあった。私はあるとき親爺の頬っぺたを殴りつけたのである。ある日店で朋輩の順路帳をひろげてみたら、森文房具店の名が抜けているので、不審に思い問いただしたところ、その月は入っていないという、その区域を配達している朋輩の返事であった。
「なんだ。固定読者じゃないのか。」
「どう致しまして。」
「来月はどうなんだ?」
「まず、あぶないね。」
「よし。それじゃあ、俺が行って来月から取らしてくる。」
「まあ、無駄足をすると思って行ってみな。」
私はこの店では時々買物をしていた。親爺ともおかみさんとも冗談の一つは云いあう仲であった。頼めばまんざらききとどけてもらえないことはあるまいという心づもりであった。けれども私は思惑違いをした。結果は私の意表に出て、反ってまずくしたような工合になった。親爺はいきなり「義理知らずの新聞は取れない。」という口吻をもらした。しかも思いがけないことには、その義理知らずという言葉は私にかかわりのあるものであった。
「こないだ君は筋向うの小久保紙屋で買物をしただろう。」
「よく知っているね。棚罫ノートと画鋲を買った。」
「ここに坐って見ていれば一目瞭然だ。君はこの店を黙殺してしまったね。ひどいじゃないか。おれは少からず感情を害した。君は自分の行為を義理知らずとは思わないのか?」
「だって、この店にはいつだって棚罫ノートはないじゃないか。画鋲を買ったのはついでだ。僕たちの日常生活では、事のついでということが重大な意味を持つと僕は思うね。人の運不運、幸不幸の分れ目はどこにあるか、わかったものじゃない。僕は人の好意というものは少しのものでも受け難いものだと思うね。」
「理窟はやめろ。君もだいぶ新聞やずれがしてきたようだ。N新聞などは義理固いぞ。いつもこの店で買物をしてくれる。」
その日親爺はなにか虫のいどころでも悪かったのだろうか。頭の悪い上に了簡の狭いことをくどくど云った。親爺の応対ははじめは冗談かと思うほどに、理不尽極まるものであった。私も中腹になった。そんなけちな根性でよくこんな町中で商売が出来たものだというような捨台詞を云って引き上げてきたが、心ならずも朋輩のお得意といさかいをしたようで気色が悪かった。それから四五日経って森文房具店の前を通ったら、親爺は店に坐っていたが、私が通り過ぎる瞬間に、きこえるかきこえない位の声で、「うす馬鹿が通る。」と呟いた。私は咄嗟に廻れ右をして、間髪を入れず、親爺の頬っぺたを殴りつけた。親爺は眼をぱちくりさせ、「あ、ぶった。ぶった。」と頓狂な悲鳴をあげて、私の胸倉に取りついた。仕掛の簡単なゴム人形でもこづいたようで、実にあっけなかった。奥からおかみさんが飛んでくる。近所の人が顔を出す。通行人が立ち止る。忽ち人だかりがした。私は自分の行為を説明した。私は生来喧嘩は好きではないし、自分から喧嘩を売ることは殆んどない。親爺こそ私を侮辱したのである。私には自分を押える余裕がなかったのだ。止むを得ないことだと思っている。私はこうして腕まくりをして威勢のいい恰好はしているが、これは家業柄であって、大根は平和愛好者である。決して喧嘩の常習犯ではないということを私は極力主張した。すると親爺は俺はそんなことを云った覚えはないと真顔で否定した。おかみさんも「この人はとてもがらが悪いんですよ。新聞を取らないからって難癖をつけに来たんです。」と亭主の肩を持った。ひどい舞文曲筆である。たちの悪い三文小説家そこのけではないか。私は呆れてものが云えなかった。そしてたったいま自分の云ったことを否定するような人間の顔を殴りつけたことを後悔した。私は一体に話を歪める人は大嫌いである。そういう人とはつきあいたくないと思っている。それにしても親爺もいやな云い方をしたものである。なぜ親爺は単に「馬鹿野郎。」という放胆な罵倒の言葉をえらばなかったのであろう。それならば私は或いは親愛の表現と思い違いをしたかも知れないではないか。単に意地が悪いと云わずに、小意地が悪いと云えば、如何にもいじくね悪そうにきこえるではないか。この場合毒はうすめられたがために、反って効能を万全に発揮したようなものである。ああいう実感豊富な表現に接しては、私としても思い違いのしようがない。私はかつてある小説を読んで、作中人物の「俺はうすのろではないかしら。」という神妙極まる述懐にひどく胸を打たれた覚えがある。私は親爺には全く恕すべき点はないと思った。他人の頬を打つなどということは、私にとってはそれこそ劃期的な行為であったのである。けれどもまた四五日して、森文房具店の息子が(おそらく中学校の上級生であろう)母親から刷毛で制服の背中を払ってもらっている登校姿を見かけた時には、私は心を弱くした。そして私たちはなぜ仲良くして行けないのだろうという妥協的な考えにとらわれたりした。私のような男こそ、さっぱりしないというのであろう。